あまり馴染みのない城かもしれませんが、ロンネブルク城は、玄武岩の山の上に立つ典型的な山城で、フランクフルト・アム・マイン(Frankfrut am Main)の北東約20kmのところにあります。
中世の建築様式とルネッサンス様式の建築様式が組み合わさり、20世紀になってからフランクフルト周辺の観光地として、魅力が再発見されました。
城の立地 | 山城 |
城の種類 | ブルク |
城主の階級 | マインツ大司教配下のミニステリアーレ→騎士クロンベルク卿→ナッサウ伯爵→イーゼンブルク伯爵→ヘッセン方伯→イーゼンブルク伯爵→ヘッセン大公→イーゼンブルク侯爵 |
13世紀頃 |
ここはなんといっても、頻繁に開催される中世イベントが見ものよね。
騎士のトーナメント祭は良いよね。
ロンネブルク城の構成と見どころ
外郭が広いのが特徴です。
内郭の大部分は14世紀までには建設されましたが、外郭は16世紀になってから建設されました。
ロンネブルク城の城内へ
第二の門がチケット売り場になっています。入城料を払って中にはいると、ロンネブルク印のスタンプを手の甲に押されました。
入城券代わり?と思いましたが、入場券は別にあるので、ちゃんと入場券を払った訪問客なのかどうか分かるための印なのだろうか?う~む…。
城の内部は自由見学です。
拷問台が展示されていた部屋に、お偉いさんが使用すると思われるトイレがありました。イスの真ん中に穴が空いています。その下におまるを入れて使用していたのでしょう。男の子がトイレに喜んでいて(男の子あるある)、トイレの説明をするお父さんの姿がありました。
実験室では錬金術の研究をしていたのでしょう。実験道具がたくさんありました。たしかこの家系には、かつて錬金術にハマっていた伯爵様がいらっしゃいました。
とある部屋では、部屋の角に大きな箪笥。
窓の外をちょっと覗いてみると、この箪笥の向こうには抜け道とも考えられる道があります。
窓の外から見える城壁には柵が無く、少し恐いけど人が通れそうな道があり、隣の建物へと続いています。
実際はどうなのかわからないけど、箪笥の後ろに抜け道があってもおかしくないよね。城なんだし。
井戸の組み上げ機
第三城門の近くにある井戸小屋(Brunnenhaus)はいつも開放されているとは限りません。
中に入ると、井戸から水を組み上げるための巨大なネズミ車のような組み上げ機が目を引きます。
井戸自体は1260/70年頃には建設されていたと考えられています。
井戸の深さは96m。
ロンネブルク城の台所
写真が暗くてすいません。
城の台所で実際に調理が行われていました。
本当に城の設備を使って、中世の頃の料理が作られていました。当時、どんなものが食べられていたのか、麦やスパイス等の材料も展示されています。
使い捨てのお皿とフォークが置いてあったので、タイミングがあえば実際に試食できたのかもしれません。
ベルクフリート
ベルクフリート
ロンネブルク城のベルクフリートは、14世紀の第二四半期のものとされています。
かつてベルクフリートの下層は地下牢となっており、上階の穴を通ってしか入れませんでした。
しかし1581年に大きな窓が設置され、住宅用として使用されています。石組みを壊して大きな窓を作っているため、一般的なベルクフリートに比べて壁が薄くなっているのが特徴です。
ベルクフリートは住居に適さないのが一般的ですが、住居として使用できるように改築した珍しい例です。
特徴的なベルクフリートドームはルネッサンス様式で、1576年から1581年にかけて建設されたものです。
ロンネブルク城の中世イベント
この城は、中世イベントを頻繁に行っているので、訪問する際は行事予定表をチェックしてから行くことをおすすめします。中世ドイツのテーマパークとして、ひじょうに楽しめます。
中世ドイツのテーマパーク!
中世イベント、特にトーナメントが行われる日は、ロンネブルク城のある山全体が臨時駐車場のような状態となり、たいへん賑わいます。
城のスタッフはみんな、中世風のコスプレをしていて、お客さんたちを楽しませてくれます。
武器屋
内郭から外郭への門をくぐったところに、武器屋があります。
中世風の服装をしているのが、この店の店主。
見ての通り、土産用の剣や槍、盾や兜などが売られており、一つ欲しくなってしまいます。
盾や兜ならともかく、剣や斧などはどうやって日本に持ち帰れば良いのかわかりません。
中世の生活祭
立ち並ぶ屋台
屋台では、中世風のアイテムを売っています。
私は、角カップを購入しました(捨てちゃったので今はない…)。
ジャグラー
いろいろなものを投げて、回していました。
横に卵が置いてあるのがみえると思いますが、もちろん、卵も回していました。
朗読劇
昔話を読むご婦人の後ろで、小道具を使って効果音を出しています。
先程のジャグラーの方です。
糸紡ぎ
昔話で見るような光景ですね。
衣食住の衣は、1本1本糸から手作りなので、いちばん大変な作業だったとか。
鍛冶屋
フイゴで風を送る者、窯に刃物を入れて熱する者。
この日は服を着ていますが、以前に訪れた時は上半身裸で金物を叩いていました。
兜のチェーンメイル部分の製作実演が行われていましたが、一つ一つリベット打ちをする正式な作り方ではなかったです。簡易的な作り方でも、十分手間暇はかかっていることがわかります。
そして兜の内側にクッションとなるウレタンを入れて完成。簡易的なものでも、土産物用としては十分です。
金型を使って作った鋳造品の素朴な土産物も売られていました。
騎士トーナメント祭(Ritterturnierfest)
トーナメント祭の時は、中世風のコスプレをして訪れるお客さんが多くいました。
売店の数もいつもより桁違いに多く、飲食店の屋台メニューはどれもこれもRitter○○(リッター:騎士)。リッタービア(Ritterbier:騎士ビール)にリッターヴルスト(Ritterwurst:騎士ソーセージ)。
どうみてもただのピルスビールにチューリンゲンソーセージ。
どれもこれも騎士○○にしちゃうなんて、こういうノリは大好き。日本でやるなら、侍〇〇や忍者〇〇に全部しちゃうって感じかな。
パレード
中世風の衣装を着た人たちが、音楽に合わせて行進してきました。
剣闘と攻城兵器の実演
先程のパレードで、鎧を着ていた人達による剣闘が始まりました。トーナメントの前の前座の催し物。
はじめは下級兵士から始まります。剣と盾しか持っていません。軽装備どころか、鎧すら着ていません。
次第に戦士の階級が上がっていくようで、ハーフプレートを着た人、剣と斧だけで盾は持たない人。
金属製の刃と刃がぶつかり合う音が鳴り響く。
斧はパワーがあるだけに、見ているだけで迫力があって怖い。斧があたった盾を見れば、実際にボコボコです。
最後は将校クラス?鎧とヘルメットを纏った人の剣闘のド迫力!
攻城兵器トレビシェット(Schleuder)
剣闘のあとは、攻城兵器の実演が行われました。
オーエス、オーエス
紐を引っ張って下におろし、セッティング。
手を挙げて。その手を頭の上に乗せて。10、9、8、…3、2、1、ダメダメそこの子、ちゃんと頭に手を乗せて。ではもう一度。3、2、1、発射!!
ポ~ン!!
よく飛ぶねえ。実際に飛ぶところを見ると、感動します。さすがは攻城兵器、城壁よりも高く飛ばなくては意味がない。
馬上槍試合(Ritterturnier)
攻城兵器の実演が終わったあとは、イベントのハイライトであるトーナメント会場に移動します。開始時刻までまだ30分以上もありましたが、場所取りの意味もあってそのまま待機しました。
会場に流れていた音楽が止まり、マイクの確認が行われたあと、騎士たちが紹介されました。その後、音楽とともに1人1人旗を持って騎士たしが入場してきます。ゲレンデ一周。かっこいい!
馬上槍試合に出場する騎士
- 悪役親分
- 悪役子分
- 兵卒1
- 兵卒2
- 兵卒3
- プリンセス
先頭の騎士がプリンセス。登場時は兜をかぶっていたので顔は見えませんが、金髪美人さんでした。
兜を脱いで、旗をランスに持ち替えて、まずは輪っかをランスに通す競技。
ランスを剣に持ち替えて、両側の柵においた標的を剣で撃ち落としていく競技。
単なる馬術大会のように見えるかもしれないけれど、甲冑を身にまとって行う馬術を身近で見るのは、かっこいいし、何より迫力が違うね。
ランスの先に針のあるものを持って、地面に置かれた標的を突き刺す競技。これが一番難しいらしく、悪役親分以外は成功しませんでした。さすがは悪役親分。
悪役親分
地面の標的を突き刺すことに成功した悪役親分は、その標的となっているものを外して、勝ち誇ったかのように観客席に投げ込んでいる様子。
悪役はプリンセスの競技を邪魔することもあったりして、観客からはお約束のブーイングの嵐。
次ぎの演目の準備をしている間を持たせるために、悪役のちびっ子いじめや寸劇が入ります。
おまえの頭を真っ二つにしてやろうか。ガッハッハッハッハ~!
戦隊モノや仮面ラーダーショーのノリだね。だが、そこが良い!
試練をパスした兵卒が、刀礼を受けて騎士階級の仲間入りをする場面が入るなど、一応ストーリー仕立てにはなっている。
そしていよいよクライマックスのジョストへ
中央でランスをカ~ンと合わせて挨拶をしたあと、両端へ。
馬を走らせて中央でドッカーン!!
負け役の人はうまいこと落馬して、ゴロゴロと転がります。
落ち方うまい。でも失敗したときが怖い。
ぶつかり合うスピードが早すぎて、写真に収めることができなかったのが残念。
お芝居がしばらく入ったあと、最後は悪役親分とプリンセスの一騎打ち!
兵卒の人は兜を被りませんでしたが、プリンセスは兜を被ります。
そしてジョストで突かれて馬から落ちる瞬間!兜をバット脱いで、ゴロゴロゴロ~、バタッ!
華麗に落馬!
最後は悪役親分とプリンセスとの剣闘、…いや…、決闘が行われました。
悪役親分は剣を地面に突き刺して、四股を踏み、塩の代わりに周囲の雑草を投げ、いざ!勝負!!
なぜに四股を踏んだのかわからないけれど、ドイツ人に相撲の知識があるのか、大爆笑!TVで大相撲やってたしな…。
プリンセスと悪役親分の決闘では、時々悪役子分の茶々が入ります。(当然観客からはお約束の大ブーイング)
そして悪役親分が倒れる場所の地面をきれいに整えてから(観客大爆笑)…、バタッ!!
最後にもう一度騎士たちの挨拶と紹介が行われて終了。その後、ちびっこ達には馬に乗ってゲレンデを一周するサービスや記念撮影をするサービスが行われていました。
ロンネブルク城の歴史
マインツ大司教の前哨基地
ロンネブルク城は、マインツ大司教がシュペサルト地方やゲルンハウゼン地方に進出する際に建設されたと考えられています。
ビューディンゲン(Büdingen)の領主も建設に関わっている可能性がありますが証拠がなく、文書に最初に登場するのは1258年で、リューディッヒハイム(Rüdigheim)のミニステリアーレ家系がブルクマンを務めていました。
ホーエンシュタウフェン朝崩壊後、マインツ大司教ペテル・フォン・アスペルト(Peter von Aspelt)が領地を取得します。
城は、下級貴族の中から数名の城伯やブルクマンを任命し、城主が不在の間、彼らに城や領地の管理を任せていました。日本の城でも、支城には城代を任命して就かせることがあり、城伯やブルクマンも同じような職務だったのではないかと考えています。
ロンネブルク城のブルクマンについて、1317年に騎士ヴォルフラム・フォン・プラウンハイム(Wolfram von Praunheim)があります。
14世紀ークロンベルク卿の時代
1327年にミニステリアーレ家のヨハン・フォン・ロッケンベルグ(Johann von Rockenberg)が大司教からブルクマン職を買い取り、その見返りとして城と地域の収入を誓約として受け取りました。
この時代に、西のパラスの建物や、城壁の強化が行われました。
1328年から1381年にかけて司教の分裂が続き、1356年5月に財政的に逼迫していた大司教は、ロンネブルク城を担保物件として騎士のハルトムート・フォン・クロンベルク老卿(Hartmut d.Ä. von Kronberg)に提供しました。
クロンベルク卿の時代に、パラスやベルクフリート、井戸小屋の改築などが行われ、優美な礼拝堂のオリエルが作られました。
誓約により、城はクロンベルク卿のものに完全になることはありませんでしたが、貿易都市フランクフルトとその同盟国との間で頻繁に繰り広げられたフェーデにおいて、ひじょうに重要でした。
15世紀ーナッサウ家からイーゼンブルク家へ
大司教は各都市からの財政支援を受けて、ようやく償還が終わります。
1424年9月、ラインハルト2世・フォン・ナッサウ(Rheinhard II. von Nassau)が城とそれに付随する村を買収します。
ここに新たにイーゼンブルク=ビューディンゲン(Ysenburg-Büdingen)伯爵家が勢力を拡大してきましたが、マインツ修道院フェーデでナッサウ家に破れます。
しかし1476年、ルートヴィヒ2世・フォン・イーゼンブルク伯爵(Graf Ludwig II. von Ysenburg)は金銭的補償とマインツの封土としてロンネブルクを与えられました。
ルートヴィヒ2世の死後、領地は息子たちに分割相続され、ロンネブルク系とビルシュタイン(Birstein)系に分かれますが、ビューディンゲンの都市と本拠地は共同所有のままでした。
16世紀ー居城への拡張
大規模な外郭が建設され、環状囲壁が建設されました。厩舎、納屋、ワインセラーや食料保管庫が作られ、近代的な城となりました。
アントン・ツー・イーゼンブルク伯爵(Graf Anthon zu Ysenburg)は晩年の殆どをロンネブルクで過ごしました。痛風の彼は、水城のビューディンゲン城よりも山城のロンネブルク城を好みました。
彼の息子の第二案ると、ルネッサンス様式の特徴的な外観をもつ城へと改築しました。ケメナーテ館(Kemenatenbau)が建てられ、特徴的なタワードームをもつベルクフリートへと変わります。
17世紀ー宗教戦争の時代
ルーテル派のロンネブルク系と、改革派のビルシュタイン系。
男系子孫のいなかったロンネブルク系はルーテル派を守るために画策しましたが、ビルシュタイン系のクーデターにより失敗。そして三十年戦争に巻き込まれることになります。
しかし戦争ではなくただの失火により1621年に火災が発生し、北東翼を焼失します。
ロンネブルクは、順次ヘッセンの統治下に置かれ、1642年のヴェストファーレン条約後にようやくイーゼンブルク伯爵家に復帰します。
信仰の聖域として
17世紀後半、イーゼンブルク伯爵家は城を完全に手放すことはしませんでしたが、多額の資金と引き換えに「城伯」という称号とともに貸し出されていました。
そしてロンネブルク城には、保護を求めて多くの新興宗教の信徒が集まってきました。
これら居住者のおかげで、建物に最低限必要なメンテナンスは保証されていました。
19世紀
1816年、ロンネブルクはヘッセン大公国の統治下に入り、法律も変更されます。
それにより、入居していた新興宗教団体がアメリカへと旅立ち、他の入居者たちも退去を余儀なくされました。
一方でロンネブルク城の価値が見直され、保存活動も活発になります。
20世紀ー博物館として
城の研究者であるボード・エープハルト(Bodo Ebhardt)らがこの建物のために活動し、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・イーゼンブルク候(Fürsten Friedrich Wilhelm zu Ysenburg)の功労もあり、1905年にオープンしました。
1952年に城の博物館が設立され、1967年に厩舎にレストランがオープンします。
1988年にはスポンサー契約により、城と博物館の管理をロンネブルク城財団(Förderkreises Burg Ronneburg e.V.)にゆだねています。
ロンネブルク城の公式サイト
ロンネブルク城へのアクセス
公共交通機関が発達しているとはいえない場所なので、車で行くことをおすすめします。
中世イベントが行われる時は、すごい混み合うよ。
騎士トーナメント祭の時は、城山全体が臨時駐車場状態になるから、びっくりするよ。