城伯はラテン語で表現すると、praefectus urbis または burggravius といい、中世の封建制度に由来する役職名です。
城伯の領地は城伯領(Burggrafenschaft)と呼ばれています。
土地を所有する下級貴族であり、称号を自分の名前の一部とする城伯もいました。

プロイセン国王やドイツ皇帝になったホーエンツォレルン家は城伯の出身だったんだよね。下級貴族だっただなんて意外ね。



うん。ホーエンツォレルン家はニュルンベルク城伯になったのをきっかけに、勢力を拡大、最後は皇帝にまで登りつめたすごい家系だよね。
都市の前身であるような大きな城での伯爵権の行使は、伯爵の資格をもつ貴族によって行われ、城伯の名はこれに由来しています。
城伯の仕事
領土の管理者として
中世における城伯職は、帝国城塞とその周辺地域の管理であり、狭くはブルク支配者、または都市支配者でした。
城伯の役割は君主(国王、公爵、伯爵や司教)によって与えられた小さな封土を管理することであり、主権を代表し、その地域での行政、軍事、司法の役割を担い、ときに貨幣鋳造権をも持っていました。
これらの権限は、フォークトは、城の管理、軍事的指揮権をだけのブルクフォークトとは明らかに異なる立場です。


防御機能しか持たない地方の中世ブルクの命令権限は,一時的にせよ城伯と呼ばれていました。自由民下級貴族を雇っている貴族が,名前の要素としてこの役職名称を進んで受け入れていました。
城伯出身の家系として有名なのは、ホーエンツォレルン(Hohenzollern)家です。
1191年にニュルンベルク(Nürnberg)の城伯になったのをきっかけとして、領地を拡大。城伯の称号は失いましたが1415年にブランデンブルク辺境伯(Markgraf Brandenburg)の地位を取得し、最終的にプロイセン国王、ドイツ皇帝となりました。
城伯領は、貴族の領土政策の出発点ともなり得たことが、ホーエンツォレルン家の発展から見て取れます。
武器庫の管理者として
1490年から1640年までのヘッセン方伯時代の城伯は、武器庫の責任者でもありました。
リヒテンベルク(Lichtenberg)やラインフェルス城(Burg Rheinfels)の城伯は下級貴族が就いており、武器庫の管理を行っていました。
1629年以降、リヒテンベルクは独自の城伯裁判所も存在するようになり、司法も担うようになりました。



ヘッセン=ダルムシュタット方伯領では、城伯も宮廷役人に数えられ、方伯の家や城の管理もしていたよ。
城伯の歴史
城伯の始まり
城伯の役職は、953年から960年頃に設立したと考えられています。
レーゲンスブルクに神聖ローマ帝国の城伯に関する記録が残っています。都市伯が独立した城伯として帝国伯爵と同列に扱われるようになりました。
11世紀から12世紀にかけて、南および東ドイツでは国王や司教の都市からフォークト職から発展した多くの城伯が誕生しています。
東方植民の拠点として
11世紀以降、ドイツ国王は東部の入植地、最初はマイセン、12世紀にはアルテンブルク、ドーナ、ライスニッヒの帝国城塞に城伯を任命しました。
城伯たちは帝国資産と権利を辺境伯や司教たちから守り、植民地を拡大しました。そのためマイセン司教や辺境伯と領土を巡って争っています。
周辺地域の国王領の広大な土地を受け、植民地化を推進しました。
ブレンデンブルクに見られるように、1160年に征服するとすぐに城伯を任命し、アスカニア辺境伯に対し王権を守りました。
任命制から世襲制へ
他の封建国家の役職と同様、最初は任命制の城伯でしたが、すぐに世襲制になり、城伯は称号となりました。
ドラッヘンフェルス(Drachenfels)のように、最初から世襲制の場合もありましたが、ニュルンベルクに見られるように通常は後に世襲制となっています。
ニュルンベルクやフリードベルクに代表されるように,城伯に任命されることは自分の領土を広がるきっかけになりました。
城伯領
- アルテンブルク(Altenburg)ザクセン、帝国領
- ブランデンブルク(Brandenburg)、帝国領
- ドーナ(Dohna)ザクセン、帝国領
- フリードベルク(Friedberg)ヘッセン、帝国領
- キルヒベルク(Kirchberg)チューリンゲン、帝国領
- ライスニッヒ(Leisnig)ザクセン、帝国領
- マグデブルク(Magdeburg)、司教領
- マイセン(Meißen)ザクセン、帝国領
- ニュルンベルク(Nürnberg)フランケン、帝国領
- ヴォルムス(Worms)、司教領
- ハルテンシュタイン(Hartenstein)ザクセン、帝国領
- ノイエンブルク/フライブルク(Neuenburg/Freyburg)チューリンゲン、ヴェッティン家