ビューディンゲン城(Schloss Büdingen)の歴史と見どころを紹介!―ヘッセンのローテンブルク

ビューディンゲン城(Schloss Büdingen)

ビューディンゲンはドイツ木組みの家街道にある街で、ヘッセン州のローテンブルクとの異名があることからわかるように、中世の街並みと城がよく保存されている素敵な場所です。

街の雰囲気も、城の雰囲気も、とても中世的で素敵ね

城の雰囲気も、街の雰囲気も中世の面影が強く残る良いところ

城の立地水城
城の分類ブルクに近いシュロス
城主の階級神聖ローマ皇帝の側近→イーゼンブルク伯爵→帝国伯爵→侯爵(城主家系の昇格による)
最初の城の設立12世紀頃

シュタウフェン朝時代から今に続く城で、かつてはゼーメン川から水を引いていた水城(Wasserburg)です。現在は水堀の一部が池として残っているのみで、ここがかつて水城だったことを物語っています。

この城はコンパクトな円形の内郭と、馬蹄形の外郭で構成されているのが特徴。

城の一部が古城ホテルとしても利用されています。詳しくは公式サイトをご覧ください。

ここでは、ビューディンゲン城の見どころと歴史を紹介します。

目次

ブューディンゲン城の構成と見どころ

城主である侯爵様自らシュロスを案内しています。

現在の建物は、殆どが15~16世紀のものです。

城壁に沿って歩いて城門へと向かいます。

ビューディンゲン城の城下町

城の門をくぐる前の城下町。既にそこの場所が「中世のものがそのまま残ってます」という古めかしい建物が建っていました。たとえ家々が中世の頃のものでなくても、かなりそれらしい外観をしています。

建物に建てられた年が刻まれているのでその数字を見ると、本当に中世から建っていることがわかります

でも、ちょっと斜めに傾いてしまっていて、今にも倒れてきそうでちょっと恐い感じがするものもありました(中は近代風に改装されているけれど、外は古いままと言うのはよくあります。これも石文化のなせる技。地震も無いですし)

ガイドツアー

外国人には気を利かしてくれて、英語で書かれたパンフレットをくれました。

まずは外郭(Vorburg)で簡単に歴史を説明するところからはいります。

内郭と外郭の間は昔は離れていて、その間にも水があり、跳ね橋があったであろうことは容易に想像できます( 現在跳ね橋は跡形もないです)。

ルートヴィヒ門(Ludwigstor)

内郭のへ門の所で、ここの侯爵家の紋章の説明を受けました。真っ白い雪の上に2本の黒い指で引いた線だということらしい。

パラス(Palas)

ロマネスク様式のパラスには、騎士の間(Rittersaal)、ヘラクレスの間(Herkulessaal)、絵画の部屋(Gemaltes Zimmer)、ビザンチンの間(Byzanthinische Gemach)があります。

ヘラクレスの間
ヘラクレスの間
Maulaff, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

建物の中に入って最初に案内されたのは、ヘラクレスの間。ヘラクレス物語のフレスコ画があるからレラクレスの間です。

ロマネスク様式の建物の部屋にはソリ、自転車が2台、ゴシック様式の暖炉その他が展示されていました。自転車は、足蹴方式のと、前輪が特に大きいものです。

見学者の一人に前輪のでっかいやつのブレーキを握らせて、

ガイド

ほら、ここが動くんだよ!ほらほら!

(前輪の部分に、タイヤを上から押さえつける板が動く)と実際に触らせて体験させていました。

ソリはシートがちょっと破れてしまっていましたが、なかなか良い感じ。

ロマネスク様式のフラスコ画が描かれた絵画の部屋には、宮廷音楽の一面を描いた絵あります。この壁は上塗りされてしまって絵が埋もれていたのを、近年発見されて露出させたものだそうです。

錬金術師の実験室

ビューディンゲン城の実験室

実験室(Alchemistenküche)

細長い三角形の部屋。

本の挿し絵でしか見たことのない初期の顕微鏡ほか、科学の実験道具がいろいろ置いてありました。

16~18世紀は錬金術の研究が盛んに行われていた時代でした。

科学者を雇って錬金術を研究させていた場所で、その後、科学好きの伯爵の実験室となりました。

ゴシック様式の暖炉は、暖炉というより科学実験を行うためのドラフトといった感じのもの。実験をしやすいように工夫されており、テーブルと同じ高さになっています。道具もごちゃごちゃと置いてあります。

こういう部屋は、なんか血が騒ぐ

その向かいにあるのはガルドローブ、いわゆる厠。下の川(水掘り?)にそのまま落ちるようになっている仕組み。

武器の展示室

武器の展示室
武器の展示室
Maulaff, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

ガイドさんが、展示してあった武器を取り出して、ブンブン降りまわして使い方を説明します。

実際に武器を手に持って説明するなんて……、びっくりだよ!

おなじみのハルバードやツヴァイハンダーが置いてあります。

礼拝堂(Schlosskapelle)

城の礼拝堂
城の礼拝堂
Maulaff, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

ゴシック様式の礼拝堂。

ガイドツアー参加者たちは、とりあえずみんな椅子に座って休憩。彫刻なんか、よく出来てます。

ガイド

そこの方、ちょっと弾いてみて

パイプオルガンをお客さんに実際に弾いてもらって、音が出ることを示しています。

もともとはロマネスク様式の長方形の小さな礼拝堂でしたが、その後増築されて現在のようなゴシック様式の礼拝堂になりました。

実際にお客さんに展示物を触らせて体験させるようなガイドツアーは、めったにありません。

ディーター伯爵の間(Graf Diether Saal)

ディーター伯爵の間
ディーター伯爵の間
Maulaff, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
ガイド

ここには、3つの時代の家具を置いています

タペストリーがあり、やっぱりここでもゴシック様式の暖炉の説明がありました。

ガイドツアーでは、その後いったん外に出て、地下室に入りました。

地下室には大小さまざまな球形の石が置いてありました。大砲の弾ではないようですが、何の弾なのか、残念ながら当時の私のドイツ語力では聞き取ることはできませんでした。

ビューディンゲン城の公式サイト

著:ジャン メスキ, 監修:孝一, 堀越, 原著:Mesqui,Jean, 翻訳:ゆかり, 遠藤
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ビューディンゲン城の歴史

ビューディンゲン城(Schloss Büdingen)
ビューディンゲン城(Schloss Büdingen)
Hitchcock, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

ビューディンゲンのはじまりがいつなのかははっきりとしていません。

1131年のマインツの資料に、9世紀からこの地を統治していたゲルラッハ一世(Gerlach)とオルトヴィン(Ortwin)兄弟が「de Budingen」を名乗っていたことがわかっています。

ただし、現在のビューディンゲンの地のことを指すのか、あるいは他の地なのかはわかっていません。

シュタウフェン朝時代

ゲルンハウゼン城(Kaiserpfalz Gelnhausen)と深い関わりがあり、帝国の狩猟用の森であるビューディンゲンの森(Büdinger Wald)で皇帝が狩猟をするための隠れ家のような狩猟城として、城の歴史は始まります。

皇帝は側近をつれ、ここで貴族の娯楽である狩猟を行っていました。

狩猟のための狩猟犬、狩猟用の武器、馬がここで管理されていました。

1166年から1195年

シュタウフェン朝の皇帝フリードリッヒ一世(赤髭王)とハインリッヒ六世の側近として登場します。

1194年

シュタウフェン=ヴェルフェン王位継承戦争に巻き込まれます。

1222年

ハインリッヒ(七世)がドイツ国王に即位すると、ゲルラッハ二世が側近として登場します。ハインリッヒ(七世)の側近であったことから、その後のいわゆる「シュタウフェン最後の戦い」に巻き込まれることになり、ビューディンゲン城が破壊されます。

発掘調査から、今のベルクフリートとは別の場所に火災によって破壊されたこの時代の円形のベルクフリート跡が見つかっているよ。

イーゼンブルク家の下での発展

1258年

ビューディンゲン家が断絶すると、婚姻関係からイーゼンブルク家とブロイベルク家が所領を共同相続することになります。

イーゼンブルク家はうまいことやって、14世紀初頭までにブロイベルク家を追い出すことに成功するんだよ

1330年

バイエルン王ルートヴィヒから、ビューディンゲンの市場権を獲得。

1442年

帝国伯爵を叙爵。マインツ大司教、マインツ選帝侯となります。

遅くともこの時期までに、ビューディンゲン城は居住地としてますます発展していきました。

後継者となる息子一人を除き他の息子たちは聖職者になったことで、ゲルマン伝統の分割相続を回避したことが発展の要因となっています。

1461年

ラインラント全面戦争となるマインツ修道院フェーデが勃発し、伯爵領は被害を受けましたが、ビューディンゲン城そのものは被害をまぬがれました。

1476年

買収目録に、マインツ封土としてロンネブルク城が含まれていました。これにより潜在的驚異は取り払われます。

ブルクからシュロスへ

このフェーデの後、城は要塞として強化されていくよ

辛勝だから、本拠地を守るための防御力強化は必然だったんでしょうね

ロンデルや稜堡などが建設され、火気が置けるようになりました。

城は軍事的な機能を強化する一方で、都市部に居住機能を移し、官舎としてシュタイネルハウスを建て、居住しました。

1495年

後期ゴシック様式の礼拝堂が建設されます。

16世紀の相続分割

1517年

これまでビューディンゲンは共同相続で維持されてきましたが、相続兄弟契約により、事実上の分割が行われました。ビューディンゲン城そのものが分割されます。

敷地の中に離れを建てて、そこに兄弟親族が住んでいる形と考えると理解しやすいかな

城の警備と防衛は、共同任務として行われ、報酬も支払われています。

1529年

2つの分家(アントン伯爵とヨハン伯爵)の対立に集約されます。それぞれ獲得した建物と所領内での建築活動が活発になります。

階段塔、地下にホールのある居住塔など。

建設したのは良いけれど、ペストの流行で居住地をヴェヒタースバッハ城(Schloss Wächtersbach)に移しちゃっているんだよね

17世紀の戦乱期の城

分家のロンネブルク系が断絶する前に、ビルシュタイン系がビューディンゲン城を含むロンネブルク領を占領し、マインツへの封建復帰を防ぎました。

カルヴァン派のビルシュタイン系は宗教改革を導入し、教会から彫像と祭壇を撤去、内装もリニューアルします。しかし先祖を敬って、台座には手をつけずにおきました。

三十年戦争(1618年-1648年)

1620年

戦乱が近くに迫ってくると、中立を保とうとするも失敗したため、伯爵は所領を息子たちに分割して自らは政界を引退しました。

1634年

伯爵領は帝国軍に占領され、街も城も徹底的に略奪されました。

城にあった古い家具も、美術品コレクションも、略奪されてなくなってしまうなんて……

しかもその後のペストの流行で街はほぼ全滅!まさに弱り目に祟り目

1635年

イーゼンブルク伯爵領は没収領としてヘッセン=ダルムシュタット方伯の統治下に置かれます。

1642年

和解が成立。ヴェストファーレン条約の恩赦により、伯爵は亡命先から自国に戻ることができました。

城の復興と観光化

戦乱によって、城は人が住めない状態になっていたため、建て替えが検討されました。

しかし資金難のため、当時のバロック様式のシュロスに変わることなく、中世の姿のまま修復するにとどまりました。

良いのか悪いのか、資金難のお陰で中世の姿がこのまま残ったんだね

1840年

侯爵位を叙爵。

侯爵位となって2代目のエルンスト・カシミール(Ernst Casimir)侯爵は、大学在学中からドイツ中世に関心を寄せ、「古美術」の大規模コレクションを作成しました。

このコレクションが現在の博物館の基礎になっているよ

侯爵の意志は次代にも受け継がれ、城の科学的研究や博物館の設立が行われました。

著:ジャン メスキ, 監修:孝一, 堀越, 原著:Mesqui,Jean, 翻訳:ゆかり, 遠藤
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ビューディンゲン城へのアクセス

城だけでなく、城下町も中世にタイムスリップしたかのような古い建物が数多く存在しています。

城だけでなく、城下町を散策して街の雰囲気を味わうことをお勧めします。

城だけじゃもったいない!城下町は、とっても素敵な中世の住宅街よ

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