シュタイナウ城(Schloss Steinau)の歴史と見どころを紹介!―グリム兄弟ゆかりの城

シュタイナウ城(Schloss Steinau)

シュタイナウ城・アン・デア・シュトラーセ(Schloss Stenau an der Straße)はメルヘン街道にある城。

シュタイナウは、フランクフルト(Frankfurt am Main)とライプツッヒ(Leipzig)を結ぶキンツィヒ街道沿いにあり、ドイツ東部・中部・西部間の交易で栄えた街です。

この場所は、昔のワイン街道の中継地でもあったんだよ

城の立地平城
城の種類シュロス
城主の階級ハーナウ伯爵→ヘッセン=カッセル方伯→ヘッセン州
最初の城の設立年代13世紀

1963年9月28日、ここにグリム兄弟記念館が公開されました。

グリム兄弟が幼少期を過ごした場所でもあるよ

目次

シュタイナウ城の構成と見どころ

この城の最大の特徴は、上から見たその形。

Google mapより

五角形

ペンタグラムの思想と結びついていると言われているよ。アメリカのペンタゴンも同じ伝統的思想に基づいているのかもね

ペンタグラム

霊力、知識、啓示の象徴。ギリシアの哲学者ピタゴラスは健康と結びつけ、ビザンチン軍の盾には勝利のしるしとして使用されていました。

シュタイナウ城と同じ時期に、同じような五角形の城や街が他でも築かれています(例:ヴュルツブルク要塞、ローゼンベルク要塞)。

シュタイナウ城のトレーサリー

オリエルの基部にあるブラインドドレーサリー

ニュルンベルクの聖ローレンツ協会(St. Lorenz)、フランクフルトの大聖堂にもパターンは異なるが似たようなトレーサリーがあり、イーゼンブルク(Isenburg)家との関係性を示しています。

ヒルシュグラーベン(Hirschgraben)

ヒルシュグラーベン(Hirschgraben:鹿の堀)

シュタイナウ城の周りを取り囲む空堀。内側と外側の両方に高い城壁を備えています。

子どもの遊び場があります。

航空写真からもわかるように、五角形の角には建物があり、それぞれ別の用途で使われています。

シュタイナウ城の城門にかかる橋

かつてはここに跳ね橋があったことが伺えます。

かつては落とし格子もあったらしい。

シュタイナウ城にかかる橋

厨房館(Küchenbau)

シュタイナウ城の厨房館
シュタイナウ城の厨房館(Küchenbau)

建築家アスムース(Asmuß)が「礼拝堂の建物」の中にキッチンをつくったと言われています。

かつてはもう一つ別の翼が隣接し、五角形の城を閉じていたといわれており、古い図面で壁の存在が確認されています。

三十年戦争で隣接する翼は消失しちゃったみたい

ベルクフリート(Bergfried)

階段塔の螺旋階段

扉の上に年号が記されており、1571年と想定されています。

内部には螺旋階段になっています。

グリム兄弟ゆかりの地

Wilhelm and Jacob Grimm, 1847; daguerreotype by Hermann Blow
Public domain, via Wikimedia Commons

グリム家はシュタイナウとは深い関係にあり、グリム兄弟の曽祖父はここで牧師を務めていました。城の近くでグリム家の墓も発見されています。

グリム兄弟の父は、シュタイナウの伯爵領管理官兼司法官を務めていました。グリム兄弟はここで幼少期を過ごしています。

シュタイナウ城の井戸のポンプ

シュタイナウ城の井戸のポンプ

グリム兄弟

少年時代、城の中庭で遊んでいて、喉が渇いてきたら、城の中庭にある井戸から水を飲んでいた。

グリム兄弟の書記の中に、シュタイナウ城のことを記したものがあります。

グリム一家が過ごした部屋は、1981年に改修され、一般公開されています。

グリム兄弟記念館

各国語に翻訳されたグリム童話の外国語版コレクションが展示されています。

グリム兄弟が行った研究活動をすべて収集するは無理だとしても、網羅に努めています。

シュタイナウ城公式サイト

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シュタイナウ城の歴史

シュタイナウ城
シュタイナウ城の模型

この地域には新石器時代および青銅器時代の集落跡があり、古くから人が住んでいました。

中世初期には、フルダ修道院、シュリヒテルン修道院、マインツ司教座、ヴュルツブルク司教座などの教会系、世俗領主系の支配領域が重なるように存在していました。

大司教、選帝侯、方伯、侯爵、伯爵、修道院、自由帝国騎士団等の領土が周囲に分布している地域だよ。

ハーナウ領主時代

シュタイナウ城はハーナウ伯爵の別邸です。

普段はブルクマンを置き、領主はたまに滞在します。

1143年頃

キンツィヒ川からマイン川河口にかけて、ブーヘン(Buchen)の領主がハーナウ城(Burg Hanau)を建て、その後、ドルフェルデン領主が相続。

1255年

ラインハルト2世・フォン・ハーナウ(Reinhard II. von Hanau)がミュンツェンベルク(Münzenberg)の一部を相続。

1273年

教会領として、フルダからハーナウの領主にシュタイナウ城とその集落(Steinau castrum et oppidum)が与えられたことが記録に残っています。その後、フルダ修道院の管理を引き継ぎ、シュタイナウはフルダの上級伯爵領の首都になります。

街道を通る旅人から通行料を徴収していたよ。

ハーナウ伯爵は、皇帝選挙に向かう選帝侯たちを護衛する役目を負っていました。

16世紀

現在のシュタイナウ城は、主にこの時期に建設されました。

シュタイナウ城は街道上にあるため、様々な上流貴族が旅の途中に滞在した記録があります。

1525年

農民戦争時、修道士たちはシュタイナウ城に避難します。フィリップ2世・フォン・ハーナウ=ミュンツェンベルク(Philip II. von Hanau-Münzenberg)は修道士たちに撤退を命じますが、応じたのは数人にとどまりました。

1563年

ペストの流行により、伯爵領の行政機関全般が別邸に移管されました。伯爵夫人は参謀たちと一緒にこの城に滞在しています。

1568年1月

ザクセン公ハンス・ヴィルヘルム(Hans Wilhelm von Sachsen)が500名の騎兵を従えてこの城を訪れた言い伝えがあります。

三十年戦争

1626年8月

ホルシュタイン軍の兵士がすでにいたとされています。

1634年9月20日頃

クロアチアのイソラニ軍が占拠し、城が荒廃したと伝えられています。

1646年7月1日

帝国軍によってシュタイナウの城と年は完全に略奪されてしまいます。

1642年1月12日

ハーナウ=ミュンツェンベルク家の男系男子が途絶え、ハーナウ=リヒテンベルク家(Hanau-Lichtenberg)家が契約に基づき、継承。

ヘッセン方伯時代以降

ハーナウ家が途絶えた場合、ヘッセン=カッセル家が相続するという契約に基づき、1736年にヘッセン=カッセル家が継承します。

この頃になると住居としての機能は失われ、支配者の関心も薄れました

中世の頃、場内には職員が住んでいましたが、18世紀から19世紀にかけて、部屋を公務員用のアパートとして利用する傾向が強まりました。守衛、庭師、羊飼いなどの部屋がありました。建築監督や森林管理人、外科医も住んでいました

19世紀

城を刑場や労働施設にしようとする動きがあり、西翼の2階には牢獄が設置されました。

フランス占領下の1813年には、東翼に軍事病院が設置されます。

1849年には幼稚園が設立されています。

プロイセン時代

守衛室として使用されていた北東角の家は司法行政に使用され、戦後、簡易宿泊所に改築されました。

シュタイナウ城へのアクセス

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