マールブルク城(Landgrafenchloss Marburg)―グリム兄弟が学んだ街

マールブルクはメルヘン街道(Deutsche Märchenstraße)に参加していることもあり、日本ではグリム童話を執筆したグリム兄弟が学んだ大学としても有名ではないでしょうか。

マールブルク城はヘッセン方伯の居城であったことから、ただの城(Schloss)ではなく、方伯の城(Landgrafenchloss)と表現されることも多い城です。

ラーン渓谷(Lahntal)から城の方向を眺めると、街と城の織りなすシルエットがとても幻想的です。

目次

マールブルク城の構成と見どころ

マールブルク城の模型
マールブルク城の模型
© Heinrich Stürzl / Wikimedia Commons

マールブルク城の主な建物と、建設年

  • 左にある建物:ヴィルヘルム館(Wilhelmsbau)(1493-1497年)
  • 中央左側:厨房館(Küchenbau)
  • 中央右側:ホール館(Saalbau)(1300年頃)
  • 中央奥左側:城の礼拝堂(Schlosskapekke)(1288年)
  • 中央奥右側(写真では見えないかも):方伯館(Landgrafenbau)
  • 右側の小さな建物群:外郭になり厩舎と武器庫(14、15世紀頃)
  • 右端の背の低い丸い塔:魔女の塔(Hexenturm)

中庭が狭すぎて、中庭でカメラを向けると、壁か空ぐらいしか写んないだよね。模型があると、構造がわかりやすい。

マールブルク城の礼拝堂

マールブルク城の礼拝堂

ゴシック様式の礼拝堂。1288年に聖カタリーナに奉献されました。

君主の間(Fürstensaal)

君主の間(Fürstensaal)
君主の間(Fürstensaal)@Photo by ぺんた

シンプルな交差ヴォールトの大広間は、長さ22m、幅14m、高さ8mあり、ドイツで最も美しい世俗的なゴシック様式の大広間の一つに数えられます。

大広間は中世時代はただの「大広間」でしたが、19世紀のロマン主義の時代に「騎士の間」と呼ばれるようになりました。

関連:城主の邸宅パラス(Palas)はどのような建物なのか

しかし、マールブルク城のような上級貴族の大広間に下級貴族の「騎士」をつけるのは似つかわしくないということで、1970年代に「領主・侯爵・君主」を意味する「Fürst 」をつけた「君主の間」と呼ぶことが提案されました。(領主、侯爵、君主のどれにしようか悩みましたが、方伯の地位を考えて、ここでは「君主」としました。)

方伯の爵位は侯爵や公爵と同等であり、その上には国王と皇帝しかいません。

大学附属博物館

主にヴィルヘルム館が博物館となっており、マールブルク城の他、チューリンゲン+ヘッセンの歴史を紹介した部屋があります。

初期のマールブルク城

初期のマールブルク城

マールブルク城も、最初の頃は山の最も高い部分に四角い塔があるだけのシンプルな城でした。

塔への入り口も、上の方にあるのがわかります。

博物館では、この初期の城が時代の変遷とともにどのように姿を変えていったのか、模型展示されています。

四角い塔と環状囲壁のみの典型的なシュタウフェン朝のブルク、次第に建物が増え、拡張され、シュロス化していっているのかわかります。(ちなみに、現在の城の模型は博物館の展示室ではなく、博物館入り口の荷物預かり所のところにあります)

ところどころガラス張りになっている床があり、そこからは昔の城の壁を観察できるようになっています。後の時代の増築、改築のため、埋もれてしまった昔の時代のベルクフリートと壁の一部を上から眺められるようになっています。

発掘された壁を上から眺められるようになっているなんて、珍しい展示方法だよね。

郷土史のパネル、発掘の様子を示したパネルがありました。

別の棟に移り、最上階から順番に見ていきます。

最上階の5階には、近世の家具類。4階は陶器類が置いてありました。

日本から来てくれたのね。確か日本から送られたものがあるよ。

ヨーロッパの博物館職員あるある。博物館の職員は見物客を監視する一方で、親切に話しかけてくれることがよくあります。

頼んでもないのに勝手に案内されて、案内された先には日本の農婦像がありました。明治時代の農婦かな?

3階は武器の展示。

展示されている武器類
展示されている武器類

武器の展示は、城の博物館では一般的なものです。かなり色あせていましたが、紋章の入った盾の展示は珍しいです。

2階は中世からバロック初期までのヘッセンの教会美術の展示。

最後は、ヘッセンの先史時代が紹介されていました。発掘された土器類と、それらの発掘分布域がひじょうに興味深いものでした。ローマ人とケルト人、ゲルマン人がどのように分布していたのか、土器の分布から分かるようになっています。

博物館の公式サイト

北側テラス

マールブルク城の北側テラスから
マールブルク城の北側テラスから @Photo by ぺんた

聖エリザベート教会、役畜、ノルトシュタットなど。ラーン渓谷北部の景色がよく見えます。

魔女の塔(Hexenturm)

魔女の塔(Hexenturm)
魔女の塔(Hexenturm)
© Heinrich Stürzl / Wikimedia Commons

他の建物群とはちょっと離れたところにある、背が低くて太い魔女の塔。

大砲の普及に対抗するため、1478年に3階建ての塔として建設されたものですが、17世紀に近代的な要塞を建設するに当たり埋め立てられ、現在は上の階部分だけが地表から顔を出しています。

1550年から1864年まで、刑務所として使用されていた建物です。


マールブルク城の歴史

城そのものは、それぞれの時代のニーズに合わせて改築されました。

防衛と領主の生活の拠点だった中世のブルクから、中世後期はシュロスへと発展し、バロック時代には行政と軍の駐屯地となり、刑務所となり、19世紀には公文書館、そして20世紀には大学の研究所と博物館へと姿を変えました。

マールブルク城の歴史は、ヘッセンの歴史そのもとのいっても良いかもしれないね。

マールブルクの始まり

11世紀以前のマールブルク

10世紀ごろ、フランク王国のコンラーディン(Konradin)家が権力を持っており、ヘッセンだけでなく、911年にはドイツ国王に選出されています。

マールブルク城の最古の建築跡をコンラーディン家の城としたいところですが、これは推測の域を出ません。

マールブルクは、ハルツ地方とライン川中流域の間をつなぐ重要な地域でした。

シュヴァーベン出身のヴェルナー(Werner)伯爵が、コンラート2世(Konrad II.、在位:1026-1039年)よりヘッセン伯爵位を叙爵しています。

この時代のヘッセンの本拠地はマールブルクではありませんでしたが、この頃にマールブルク城が建設されたと考えられています。

1121年にヴェルナー伯爵が死去すると、ギゾー(Giso)伯爵家に引き継がれましたが、翌年にギソー伯爵も死去したため、チューリンゲン方伯のルードヴィング(Ludwing)家が継承することになります。

ルードヴィング家時代

ルートヴィング家時代は、ヴァルトブルク城の歴史と密接に関わっているよ。

ルードヴィング家、ヘッセン全体を領土とすることに成功し、マールブルク城の増築や改築を行いました。

1140年頃には、マールブルク初の貨幣局の建設が行われたことが記されており、都市が発展したことが示唆されています。

1227年、ルートヴィヒ4世が十字軍の遠征途中でなくなると、寡婦となったエリザベートはヴァルトブルク城を追い出されてしまったので、3人の子どもをつれてマールブルク城に逃れてきました。エリザベートは未亡人として受け取った資産で病院を建設し、病院や貧民のケアに専念しました。

チューリンゲン方伯領の分割とヘッセン方伯家の設立

1247年にルートヴィング家が断絶すると、エリザベートの娘のゾフィーとヴェッティン家との間で継承戦争が起こります。

その結果、ヘッセンの部分を分割し、ヘッセン方伯領が設立されました。

ハインリヒがヘッセンの最初の君主となり、自分の領地を「公式」に認めてもらおうと努力しました。1292年に国王アドルフ・フォン・ナッサウ(König Adolf von Nassau)により、方伯は帝国侯爵に昇格しました。この出来事は、城の礼拝堂と大広間の建設の正当化と文書化に関連しています。

中世後期から近代

ハインリヒの息子の代になると、マールブルクではなくカッセルに方伯の居城を移していましたが、15世紀になると、方伯家の別家系が居城とするようになりました。

1479年、カッツェンエルンボーゲン(Katzenelbogen)伯爵家が男系で断絶したことにより、カッツェンエルンボーゲン伯爵領を相続します。その資金から、ヴィルヘルム館を建設します。

フィリップ寛大候時代

フィリップ寛大伯は幼い頃からマルティン・ルターの教えを受けています。1526年にはヘッセンに宗教改革を導入し、翌年には修道院を廃止。その資産を利用して病院や、プロテスタント初の大学であるマールブルク大学を設立しました。

1547年、プロテスタントはシュマルカルデン戦争で敗北し、ツィーゲンハイン要塞(Festung Ziegenhain)以外は占拠され、方伯は捉えられてバイエルンに数年間投獄されてしまいます。(ちなみに、その間息子のヴィルヘルムが政務を行っていました)

1552年復帰するものの、以前のようなカリスマ性はなくなります。

1567年にフィリップが亡くなると、ヘッセンの伝統に基づき、4人の息子たちに分割相続されることになります。これが後に、争いの種となります。

三十年戦争(1618-1648年)とヘッセン継承戦争(1645-1648年)

マールブルクはルートヴィッヒ4世が継承しましたが、子どもに恵まれず1604年に亡くなったことから、カッセル家のモーリッツが統治することになりました。マールブルクはルーテル派ですが、カッセルは改革派です。

同じヘッセンでも、分家によって宗派が違っていたんだよね。

三十年戦争では、カッセルはプロテスタント陣営、ダルムシュタットはプロテスタントなのにカトリック同盟に加わります。

そしてヘッセン戦争の終わりが、三十年戦争の終結でもあり、マールブルクはカッセル方伯領に留まりました。しかし、以前のように市民が信仰の変更を余儀なくされることはありませんでした。

どゆこと?

かつてヨーロッパでは、領主が信仰を変えると(例えばカトリックからルーテル派に変えると、領民も問答無用で領主と同じように変更しなければならなかったんだよ。

信仰の自由は領主だけで、庶民にはなかったんだ!

関連:三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg)

三十年戦争後

政治的拠点はカッセルになっていたため、城はもはや居城としては使用されず、行政および軍事拠点として使用されていました。

三十年戦争後、大規模に防御機能が強化されましたが、七年戦争(1756~1763年)にはすでに時代遅れとなっていたため、持ちこたえられませんでした。

ナポレオンの時代になると城は放棄され、1806年にはフランスの占領下で爆破されました。

19世紀以降

一時的に刑務所として使われていました。

1869年以降、公文書館として使用するために大規模修復工事が行われましたが、残念なことに中世の屋根構造がすべて失われてしまいました。

20世紀以降

大学の研究所と博物館になりました。

マールブルク城へのアクセス

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