ツヴィンガー宮殿(Dresdner Zwinger)の見どころと歴史―ドイツを代表するバロック建築

ツヴィンガー宮殿

ツヴィンガー宮殿はエルベ川からそう遠くない場所、ドレスデンの旧市街の北西端地域にあるドイツを代表するバロック建築です。

城地平城
城の分類レジデンツ
城主の階級ザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強健王)
築城年代1709年

ツヴィンガー宮殿はザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強健王)(Friedrich Augusut der Starke)が居住するため宮殿ではなく、さまざまな式典を行うために建設したいわば祝賀会場。

アウグスト強健王時代の栄華とその権力を物語っている城です。

ザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強健王)

ザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強健王)はポーランド・リトアニア共和国の国王でもあり、ザクセン選帝侯。ポーランド国王兼ザクセン選帝侯。ポーランド・リトアニア国王としてはアウグスト二世、ザクセン選帝侯としてはアウグスト一世になります。

ややこしい!

第二次世界大戦といった戦争、エルベ川の氾濫といった災害により何度も被害を受けています。現在の建物はその後修復・再建されたものであるゆえに、フレスコ画など現在では失われてしまっているものがあります。

失われてしまったものもあるかもしれませんが、市民や関係者の努力により見ごたえのある宮殿が蘇っています。

付近にはゼンパー歌劇場(Senperopa)や博物館といった名所がいくつかあるので、それらの名所も一緒に訪れてみると良いでしょう。

本記事では、ツヴィンガー宮殿の見どころと歴史を紹介します。

目次

ツヴィンガー宮殿の見どころ

上から見たツヴィンガー宮殿
上から見たツヴィンガー宮殿 Carsten Pietzsch, CC0, via Wikimedia Commons

ツヴィンガー宮殿は、中央に庭園があり、周囲を建物が取り囲む構成になっています。

  • 手前正面:王冠門(Kronentor)と長廊(Langgalerie)
  • 奥:ゼンパー・ギャラリー(Sempergalerie)
  • 向かって左:ウォール・パビリオン(Wallpavillon)
  • 向かって右:カリヨン館(Glockenspielpavillon)

四隅にある建物は、コーナーパビリオン(磁器館、ドイツ館、フランス館、数学・物理サロン)です。

ツヴィンガー宮殿には、以下の3つの博物館があります。

  • 陶磁器博物館
  • アルテ・マイスター絵画館(Gemäldegalerie Alte Meister)
  • 数学・物理サロン(Mathematisch-Physikalischer Salon)

見どころは建物だけじゃないよ。美しい庭園も見どころたくさん。

以前は武器庫もありましたが、2012年に移転しています。

王冠門(Kronentor)

王冠門

門を飾る王冠(Kronen)が象徴的な門で、都市から宮殿内に入るための玄関門。

玉ねぎ形のドームはザクセン王国の栄華の象徴。

王冠と双頭の鷲は、アウグスト強健王のポーランド王冠を表しています。

写真:Carsten Pietzsch, CC0, via Wikimedia Commons

発掘調査により王冠門の前に堀が検出され、堀が復元されました。堀の上に掛かる橋は、有事の際はすぐに取り壊せるように、かつては狭い木製の橋がかかっていました。

王冠門を飾るギリシア神話彫像の数々は、多くの彫刻家が作成したものです。

ウォールパビリオン(Wallpavillon)

ツヴィンガー宮殿ウォール・パビリオン

ツヴィンガーの象徴となる建物です。ヨーロッパで重要なバロック様式の建築物の一つに数えられます。

第二次世界大戦のドレスデン空襲で被害を受け、その後再建されました。

ギリシア神話の神々が装飾されています。

写真:Zairon, CC0, via Wikimedia Commons

カリヨン館(Glockenspielpavillon)

ウォール・パビリオンの反対側にあるカリヨン館は、ウォール・パビリオンとよく似ていますが、違います。

ウォール・パビリオンの神々に対し、ギリシア神話の英雄が装飾されています。

写真:Ingersoll, Public domain, via Wikimedia Commons

ツヴィンガー宮殿カリヨン館

コーナーパビリオン

2階建てのパビリオンが四隅に配置されており、これらをまとめてコーナーパビリオンといいます。

数学物理サロン(Mathematisch-Physikalischer Salon)

ツヴィンガー宮殿数学物理学サロン

数学と物理学に関する機器をコレクションしており、1729年には博物館として使用されるようになりました。

写真:Daderot, Public domain, via Wikimedia Commons

地球儀、天球儀の他、測量機や計算機、製図するための機器などが展示されています。

天井にはかつて「オリンポスのプシュケの反乱」のフレスコ画がありましたが、戦争で1945年に失われました。

フランス館(Französischer Pavillon)

フランス館の名は1945年まで展示されていたフランス絵画に由来します。2階建ての背面ファサードを持つ唯一のコーナーパビリオン。

ザクセン大理石で覆われているホールは「大理石ホール」と呼ばれており、現在クラシックコンサートに使用されています。

ドイツ館(Deutscher Pavillon)

1719年の結婚式に合わせて完成させたパビリオンです。

上層階にあったフレスコ画「4つの大陸」は1849年の火災により消失してしまっています。

磁器館(Porzellanpavillon)

ドイツ館と同様に1719年の結婚式に合わせて完成し、ドレスデン磁器コレクションが展示されています。

以前は自然科学館でしたが、1962年に磁器を展示するようになり、磁器館と呼ばれるようになりました。

17~18世紀初期のマイセン磁器と東アジアの磁器コレクションが重要なコレクションです。

ゼンパーギャラリー(Sempergalarie)

ツヴィンガー宮殿ゼンパーギャラリー
ゼンパーギャラリー Ingersoll, Public domain, via Wikimedia Commons

1847年から1854年にかけて建築家ゴットフリート・ゼンパー(Gottfried Semper)によって建てられたゼンパーギャラリーは、ツヴィンガー宮殿の中で最大規模の建物。

さまざまな彫像がギャラリーを飾っており、その数なんと160体以上。ゼウス、モーゼ、ゲーテなど、ギリシア神話とキリスト教に関係する人物像など。

ここにはアルテ・マイスター絵画館があります。

絵画を収容する新しいギャラリーを建設する必要があるとされ、フリードリッヒ・アウグスト二世によりゼンパーに委託されて建てられたものです。

イタリア・ルネッサンスの絵画を中心に、15世紀から18世紀にかけての作品が展示されています。

システィーナの聖母

ラファエロ作『システィーナの聖母』

アルテ・マイスター絵画館の最も有名な作品。

写真:Raphael, Public domain, via Wikimedia Commons

ツヴィンガー庭園

途中何度も計画が変更されたりしましたが、果樹園と庭園というコンセプトの元に造園された庭園は一つの見どころです。

オランジェリーを美しく維持するため、庭師さんたちの日々の努力によって維持されています。

庭園は無料で散策することができます。

ニュンフェンバート(Nymphenbad)

ニンフェンバート

バロック様式の噴水。

当初計画されていたもの比べて小規模なものになっているそうです。

写真:Zairon, CC0, via Wikimedia Commons

ツヴィンガー宮殿公式サイト

日本にあるツヴィンガー宮殿。ドレスデンと有田町が姉妹都市提携していることから誕生したテーマパーク

王冠門周辺の建物を縮小コピーしたものっぽい。

ツヴィンガー宮殿の名前の由来

ツヴィンガー(Zwinger)とは、本来、外側の城壁と内側の城壁の間の空間を指し示す城郭用語です。

日本の城でいうところの腰曲輪くるわや帯曲輪に相当するよ。

ツヴィンガー宮殿のある場所も、かつては外側と内側の都市城壁の間にあるただの空間にすぎず、やはりツヴィンガーと呼ばれていました。

フス戦争の際の1427年以降、都市防衛を強化するために外側の城壁が建設され、内側の城壁の外側にあった堀は埋められていきました。その結果、この場所に城壁間の空間、ツヴィンガーが形成されました。

この城壁と城壁の間にできたツヴィンガーはツヴィンガー庭園として整備されましたが、まだこの頃は城塞のツヴィンガーとしての機能を果たしています。

時代とともにツヴィンガーは庭園や果樹園として整備され、殿が建設され、18世紀初頭にはもはやツヴィンガーという名は体を表さなくなっていました。

しかし、

ツヴィンガーという名称だけが現代にも引き継がれました。

内側の城壁はもうみることはできませんが、外側の城壁の名残を王冠門(Kronentor)の南西の建物にみることができます。

本来の意味のツヴィンガーであった頃の面影はほとんど残っていません。しかしここが都市城壁の間の空間であったことに、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

ツヴィンガー宮殿の歴史

1809年のツヴィンガー宮殿
Lysippos, Public domain, via Wikimedia Commons

アウグスト強健王以前の時代

1216年

史料にcivitasの名があり、この時代にドレスデンに何らかの防衛施設があったことが示されています。しかしこの時代はまだ、現在ツヴィンガー宮殿がある場所は都市囲壁の外側でした。

1427年

フス戦争の際、都市防衛を強化するために外側の第二城壁が建設され、城郭用語でいうところの「ツヴィンガー」が形成されました。

1549年

選帝侯モーリッツ(Moritz)がツヴィンガー庭園の整備に着手します。彼は妻とともにザクセン造園の創始者とされ、彼の造園知識は公文書として記録されています。

1569年

建築家のリバー伯ロハス・クイリン(Rochus Quirin Graf von Lynar)が、旧シュロスの西側で防衛施設の建設と改造工事を行い、ルナ稜堡が誕生し、この場所に後のツヴィンガー宮殿が建てられます。

この頃の建築物はまだ木製でした。

アウグスト強健王の時代

アウグスト強健王は、ドレスデン市を大規模に再開発した人物です。

それまで木造建築が主流だった街と宮殿を、石造りの建物とゆとりのある庭園で街並みを一変させました。

アウグスト強健王

アウグスト強健王

驚異的な怪力の持ち主であったことから「強健王(Mocny)」「ザクセンのヘラクレス」「鉄腕王」などの異称で呼ばれ、またその異称の所以を証明するために素手で蹄鉄をへし折るのを好んだ。先祖であるポーランド人のツィンバルカ・マゾヴィエツカもまた怪力で有名だった。アウグストはハプスブルク帝国の同盟者の一人として金羊毛騎士団の騎士に叙任されていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%882%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

Louis de Silvestre, Public domain, via Wikimedia Commons

1701年

城と街が火災により消失。

選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強王)は、城と当時3万人の市民が住んでいたドレスデン市の拡大を計画します。その際、イタリアやフランス旅行で影響を受けた選帝侯は、宮殿と庭園に新しい建築様式を取り入れることにしました。

1709年~

ツヴィンガー宮殿の建設開始。

建築家マテウス・ダニエル・ペッペルマン(Matthäus Daniel Pöppelmann)に建築を委託します。彼はフランスやオランダといったヨーロッパの様々な都市を訪問し、さまざまな建築物からツヴィンガーの構想を練りました。

ペッペルマンは建築を学ぶために、わざわざフランスに留学しているよ。

1719年

ツヴィンガー宮殿は一応完成しますが、工事は続けられます。

その工事はフリードリッヒ・アウグスト二世の結婚のために一時的に中断され、未完成の部分はカバーや装飾品などで隠してごまかして、無事に結婚の祝祭を終えます。

ツヴィンガー宮殿では、選帝侯の祝賀行事が度々行われています。強健王にとって、祝祭はその権力を示すためのものでした。

1733年

選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強健王)が死去。息子のアウグスト二世は、ツヴィンガー建設を再検討します。

ヨーロッパの状況が変化し、経済的に建設を続けていくことが困難になったからです。

ペッペルマンの設計は、残念ながら未完成に終わります。計画が完全に実行されていたのであれば、中欧で最も荘厳な宮廷が誕生していたはずです。

未完成でも、当時の栄華をじゅうぶん物語っているけどね。

アウグスト強健王以後の時代

アウグスト強健王の時代以降は、ツヴィンガー城の重要性が急激に低下します。

七年戦争(1756-1763)

要塞の一部とみなされた都市は包囲され、城も大損害を受けます。また、占領軍は宮殿を弾薬庫として使用しました。

破壊された都市と城を再建しようという機運が高まりますが、

市民の希望
選帝侯の希望
  • 城壁を保存し更に拡張して防御力を強化
  • 城壁を廃棄して新庭園を建設

という対立が発生してしまいます。

もう城壁の時代ではないとわかっていたのか、選帝侯の意見が通ることになったよ。

19世紀:破壊と改修の世紀

ツヴィンガーを美術館として使用するというアイデアが生まれ、選帝侯のコレクションの中心的存在として利用するための改修工事が行われるようになります。その一方で、ドイツの政治情勢が不安定だったことから、破壊も受けています。

展示スペースとして一部の窓やレンガは塞がれ、古典主義の建築概念により人物像やツボなどが撤去され、ケーニッヒシュタイン要塞(Festung Königstein)に移されていたツヴィンガー史料がツヴィンガーに返却されました。

この時代の改修は、現在は誤りとされる方法だったり、構造物に有害な物質使用したりするなど、これらが後に深刻な問題を残しています。

1849年

ドレスデン5月革命により、東側が完全に崩壊。当時ヨーロッパで吉兆庵植物専門図書館がそこにはあったため、6,000点の植物標本と800冊以上の書籍が焼失してしまいました。

1855年9月25日

新博物館として落成を迎えます。

20世紀以降

19世紀に行われていた修繕作業の内容を見直し、第1次世界大戦前までは活発に作業が行われていました。

第一次世界大戦(1914-1918)

経済状況の悪化により修復工事を断念。建物の状況は悪化し、人物像が落ちて堀に倒れたり、建築資材が建物から剥がれ落ちて通行人の安全を脅かす寸z内になっていました。

1924年

ペッペルマンが作成させた銅版画を基に、ツヴィンガー建築の技術的救済と芸術的復興を目的に作業計画が立てられました。

  • 後の増改築部分の取り壊し
  • 埋め立てられられた堀の掘り返し
  • 防水加工と排水システムの見直しと改良

これらを行った上で、博物館がリニューアルオープンしました。

第二次世界対戦(1941-1945)

ドレスデン空襲により深刻な被害を受けます。建物も屋根も焼け落ち、炎は砂岩を不可逆的に変性させました。

1945年

ソビエト連邦の軍政部が文化的構造物の保護と復興を命じ、ツヴィンガー再建にむけた予算が承認されたため、復興作業が開始。

ソ連が援助してくれたのは嬉しいね。

1963年

外観だけは戦前の姿に戻ります。

外観を取り戻せても、焼けてしまったものは戻らないよね。

大戦前のツヴィンガー宮殿

かつてここにあった聖ソフィア教会は、再建されないままです。

2002年

エルベ川の洪水により、ツヴィンガーも浸水被害を受け、多くの美術品が犠牲になりました。

再び大改修工事が順次行われていきます。

ツヴィンガー宮殿へのアクセス

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次