ヴァルトブルク城(Wartburg)の歴史と見どころを紹介!ーユネスコ世界文化遺産

ヴァルトブルク城(Wartburg)

アイゼナハ(Eisenach)にあるヴァルトブルク城は、ワルトブルク城と表記されているのを見かけることもあリますが、ドイツ語読みにより近く表記すれば、ヴァルトブルクです。

チューリンゲン地方を支配するチューリンゲン方伯の居城でした。

城の立地山城
城の分類ブルク
城主の階級チューリンゲン方伯→マイセン辺境伯→ヴァルトブルク財団
最初の城の設立1073年

ヴァルトブルク城は、ドイツ史を考える上でひじょうに重要で外せない場所。

なにしろ、

マルティン・ルター(Martin Luther)が聖書をドイツ語に翻訳し、布教の拠点とした。そのドイツ語は標準ドイツ語の基礎となった

キリスト教徒にとって、ルターは世界を変えたと言っても良いぐらいの人だよね。それだけでもヴァルトブルク城は歴史的重要な舞台であったことが理解できるね。

他にも、下記のようなものがあります。

  • 聖エリザベートが嫁入りした城
  • リヒャルト・ワーグナーがヴァルトブルク城で行われたという歌合戦の伝説を元に歌劇『タンホイザー(Tannhäuser)』を作曲
  • ドイツ統一の象徴、ブルシェンシャフト(Burschenschaft)のヴァルトブルク祭が行われた場所
  • かつての東西ドイツの国境に近く、国境の目印
  • バイエルン国王ルートヴィヒ二世が祝宴の大広間を模した広間をノイシュヴァンシュタイン城に作った

ヴァルトブルク城は、さまざまな時代のドイツ史の象徴ともいえるね。

13世紀初頭、方伯の宮廷では、西ヨーロッパやフランスの文化の影響を受けが文化が花開きました。中世の有名な詩人たち、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(Walther von der Vogelweide)、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)、ハインリヒ・フォン・フェルデケ(Heinrich von Veldeke)らが招かれ、交流を深めています。

帝国を追われたアウグスティノ会修道士マルティン・ルターがヴァルトブルク城に匿われ、ここで聖書を翻訳しました。

ドイツ統一を目指して学生たちがヴァルトブルクに集まり、東西ドイツ分裂後は国境の目印となり、再統一後は東西から多くの観光客が訪れています。

ドイツの統一と分裂を見てきた城でもあるのね。

そして1999年12月、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。

目次

ヴァルトブルク城の構成と見どころ

ヴァルトブルクは、大きく4回の建築期がありました。

城は何度も改修されているため、失われてしまったものも多くあります。現在の城は、創設期の形とも、チューリンゲン方伯が権力の頂点に立ったときの城とも形は違います。

ホーフブルク(Hofburg)

ホーフブルクは、ヴァルトブルク城の内郭になります。

ヴァルトブルク城のベルクフリート

ベルクフリート

高さ30mで正方形の平面を持つベルクフリートは、1859年に建てられたもので、19世紀のロマン主義により建てられた塔です。中世の頃の姿ではありません。

内部は6階建てで、最上階には30m3の貯水タンクが設置されています。

パラス

ヴァルトブルク城のパラス(Palas)
ヴァルトブルク城のパラス(Palas)
Zairon, CC0, via Wikimedia Commons

パラスは1157/62年頃に建てられ、ロマネスク様式のファサードが特徴です。(19世紀のロマン主義の再建により、一部の床が鉄筋コンクリートになっているらしい…。)

1階には3部屋、2階は2部屋あり、3階には大広間(面積326平米)があります。各階に暖炉が3つあり、当時の技術水準を表しています。

地下の展示室にはロマネスク建築の貴重な彫刻作品が展示されており、中世の宮廷生活の様子を知ることができます。

ガイドツアーに参加することで、内部を見学できます。ガイドツアーはドイツ語ですが、「英語、フランス語、ポーランド語、(中略)、中国語、韓国語、日本語、…」とさまざまな言語の解説パンフレットが用意されていました。

ヤパーニッシュ(Japanisch)」といえば、日本語をのものをもらえるよ(無料)。

ヴァルトブルク城の騎士の間

騎士の間(Rittersaal)

第一期建築時代からあるものです。

柱頭には鷲が翼を広げた姿が描かれており、権力と服従の階級的シンボルとなっています。

ガイドツアーの出発点となっており、見学における注意事項と簡単な歴史の紹介がありました。

展示室にもなっており、十字軍初期ごろの兜やチェーンメイルを着た騎士のマネキン、剣などもおいてあり、壁には木製の四角い盾が展示されていました。

窓になっているニッチの厚みに、子どもが2人並んで座れるほど、改めて壁の厚さがあることに驚きました。

エリザベートの間(Elisabethkemenate)

エリザベートの間(Elisabethkemenate)

壁には聖エリザベートの生涯がガラスモザイクで描かれています。

1902年~1906年にかけて製作されていました。

聖エリザベート(1207-1231)

ハンガリー王女エリザベートは4歳の時、チューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の婚約者としてチューリンゲンに連れてこられました。14歳で、ルートヴィヒ4世と結婚、3児を授かるも、夫が十字軍遠征中に亡くなったため、ヴァルトブルク城を追い出され、マールブルク城で生涯を閉じます。

1231年にわずか24歳で亡くなり、約4年後に列聖されました。

フランシスコ派の理想を貫き、彼女が行った慈善活動はキリスト教の世界的な慈善活動と結びついていきます。

ヴァルトブルク城の礼拝堂

礼拝堂

礼拝堂は、他の場所にあった礼拝堂が火事で焼失してしまったため、この場所に1320年に再建されたと考えられています。

1950年代に行われた「脱リノベーション」で中世中期の状態が復元され、その過程で6人の使徒の断片が発見されました。

薄っすらと使徒が描かれているのがわかりますでしょうか。

歌合戦の間(Sängersaal)

歌合戦の間(Sängersaal)

最初の建築計画において、大広間に相当する空間です。

もともとの内装は柱頭と基部以外は残っていませんが、伝説の『歌合戦』の様子を描いたシュヴィンド(Schwind)作のフレスコ画は、圧巻です。

舞台には、ワーグナーの歌劇『タンホイザー』の説明文があり、ここが、タンホイザーの舞台であったことがわかります。

歌合戦の伝説

方伯ヘルマン1世(Hermann I.)の宮廷で、6人の歌手が競演したと言われています。

詩人のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ、ハインリッヒ・フォン・フェルデケらが滞在し、芸術を愛するチューリンゲン方伯を讃えました。

ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンはオーストリア公を讃えたために、方伯夫人の助けにより縄を逃れるしかありませんでした。

これは『タンホイザー』を聴かねばならぬ。

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方伯の間(Landgrafenzimmer)

方伯の間(Landgrafenzinner)

公務の場として使われたと考えられています。

ここには、シュヴィンドが描いた11世紀から14世紀のチューリンゲン方伯に関する伝説が描かれています。

ヴァルトブルク城の名の由来:

〟Wart’ Berg, du sollst mir eine Burg werden!〝
読み:ヴァルト ベルク ドゥ ゾルスト ミア アイネ ブルク ヴェルデン
意味:待てよ、この岩山、いつか俺の城になるだろうよ。

祝宴の大広間(Festsaal )

祝宴の大広間(Festsaal)

ロマネスク様式の大広間は、1318年の火災の被害を受け、その後天井と屋根裏部屋が取り付けられました。

19世紀に屋根裏を取っ払い、現在の姿になりました。

コンサートや演劇など、文化的なイベントを中心に多くの式典が行われています。

ブルシェンシャフトのヴァルトブルク祭で、この部屋に500人の学生が集ったんだよ。

ヴァルトブルクの大広間に惹かれたバイエルン王ルートヴィッヒ2世は、ノイシュバンシュタイン城にこれを模した大広間を作ったんだよね。ヴァルトブルク城の大広間のほうが狭いけど、重厚感があって好きだな。この違いは歴史の重みかしら?

外郭(Vorburg)

パラスのガイドツアーは祝宴の大広間で終了し、その先の博物館は自由見学となります。

変な間抜けな顔した水差し、甲冑、本(たぶん羊皮紙製)、おびただしい数のナイフとフォーク(柄の部分にはいろいろな細工が施されていた)が展示してありました。シカの角になっていたり何かが掘ってあるのは、使いにくそうにみえます。

外郭の建物は、初期の頃は部屋割りのないホールのような部屋でしたが、時代とともに細分されていき、部屋ができました。

ルターの部屋(Lutherstube)

ルターの部屋(Lutherstube)
ルターの部屋(Lutherstube)
Zairon, CC0, via Wikimedia Commons

ルターが1522年から1522年まで滞在してたフォークタイ(Vogtei:代官)部屋は、ルターの部屋として公開されています。

インクの染みは、その時から何も変わっていないそうです。

なんの変哲もない部屋ですが、ここでルターが聖書をドイツ語に翻訳していたのかと思うと、キリスト教徒でなくても感慨深くなるのではないでしょうか。

ルターの部屋は、16世紀後半にはすでに多くの「巡礼者」が訪れていたようです。

マルティン・ルター(1483-1546)

神学の教授職についていたルターは1517年、『免罪符反対の95の命題』を発表し、免罪符が収入源となっていたカトリックと対立しすることになります。

ヴォルムス帝国議会で著作を撤回せず、ローマ法王からも追放された後、帝国からも追放処分を受けることになりました。

選帝侯フリードリヒ賢候が追放処分を受けたルターをヴァルトブルク城で保護し、ルターはここで聖書の教えを一般民衆が理解できるようにドイツ語に翻訳し、翻訳本はまたたく間に広まりました。

ルターのドイツ語は標準ドイツ語の基礎になっているんだよ。だから、標準ドイツ語はザクセン地方の言葉が標準になっているよ。

ザクセン訛りのドイツ語がドイツ語を学ぶ外国人にとって聞きやすいのは、そういう背景があったからなのか。

南塔(Südturm)

南塔とガデム
南塔とガデム
Simplexvir, Public domain, via Wikimedia Commons

南塔は、中世時代に建てられた塔のうち、唯一現存している塔です。1318年の火災後に再建されたものです。砂岩のコーナーブロック以外は礫岩で構成されており、風化を防ぐために、漆喰が塗られています。

この塔は、牢獄として使用されていました。

1803年に外階段が取り付けられ、展望台となっています。

ガデム(Gadem)

1874年から1877年に、迎賓館として建てられたものです。

1965年にカフェが設置されました。中世後期には礼拝堂があったとされていますが、見ての通り現存していません。

カフェの公式サイト

ガストホーフ(Gasthof)

Hotel auf der Wartburg
Hotel auf der Wartburg
Friedhelm Dröge, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

外郭の西側には、19世紀にカール・アレキサンダー大公(Großherzog Carl Alexander)が建設させたホテルがあります。岩盤を8m吹き飛ばして敷地を確保し、建設されました。

ホテルの公式サイトから予約できます。

城の隣の別の敷地とはいえ歴史ロマンを感じさせる場所で、部屋も素敵で、ちょっとだけ貴族気分を味わえるかも。

ヴァルトブルク城の歴史

ヴァルトブルク城
ヴァルトブルク城

ヴァルトブルク城の設立

重要な交易路がいくつもあったため、街道を管理するために建てられたと考えられおり、ルードヴィング家がこの地を手に入れる前に、前身となる城があった可能性があります。

1067年創立の伝説がありますが、歴史家の間では1073年に設立されたという説が有力です。

ヴァルトブルク城がルードヴィング家の本拠地となったのは、遅くとも13世紀前半と考えられています。

ザザクセン戦争(Sächsische Krieg)

国王ハインリッヒ四世(Heinrich IV.)派と反ハインリッヒ派諸侯との争いです。文献にヴァルトブルクの名が初めて登場しする出来事です。

ルートヴィヒ・デア・シュプリンガー(Ludwig der Springer)

ヴァルトブルク城の創設者とみなされているルートヴィヒは、もともとはリーネック(Rieneck)伯爵の傍系でした。

ドイツ国王選挙の際にロタール・フォン・ズップリンゲンブルク(Lothar von Süpplingenburg)を支持したことにより、方伯を叙爵します。

ルートヴィヒ2世

皇帝フリードリヒ1世の妹ユッタ(Jutta)と結婚し、皇帝権力に近づいたことから、より権力を得やすくなりました。

ルートヴィヒ4世

帝国の有力領主たちは十字軍への参加が義務付けられていたので、ルートヴィヒ4世は十字軍に参加しました。しかし遠征中、疫病で亡くなりました。

ルードヴィング家からヴェッティン家へ

聖エリザベートの息子であるヘルマン2世が1241年に亡くなり、対立国王のハインリッヒ・ラスペが1247年に亡くなると、ルードヴィング家の男系は断絶し、チューリンゲン継承戦争が起こりました。

継承戦争は17年にもおよび、ヘッセンの地は聖エリザベートの娘ゾフィー・フォン・ブラバント(Sophie von Brabant)が相続し、チューリンゲンの地はヴェッティン家のハインリヒ・フォン・マイセン(Heinrich von Meißen)栄光候のものとなりました。ハインリヒは詩人でもあり、多くの詩を残しています。

その後の約650年間、アイゼナハとヴァルトブルク城はヴェッティン家の所有となりました。

1318年の落雷による火災と再建

落雷により火災が発生しました。

フリードリヒ1世は、わずか5年でパラスを再建し、ホーフブルクの一部も再建しました。同時に、大量の銀を東の領土から運び入れました。フリードリヒは、晩年ヴァルトブルク城に隠居し、ここで亡くなりました。

15世紀になると城は重要性を失いました。

18世紀の再発見

ルターによる聖書の翻訳が行われた地ということで、「巡礼地」となります。

1777年9月に、ゲーテがアイゼナハ地方議会に参加した際、ここに滞在しました。

ゲーテ

陛下、ヴァルトブルク城は象徴的な場所なので、芸術品を揃えてはいかがでしょうか。

ゲーテがそういったのかどうかはわかりませんが、芸術品を揃えることをザクセン=ワイマール=アイゼナハ大公に提言したことは確かです。

ゲーテの中世建築の賛美から、1815年に城を文化歴史博物館にする計画が結実することになります。

ドイツブルシェンシャフトのヴァルトブルク祭

19世紀初頭のフランス革命やドイツ解放戦争は大衆の戦いで、軍事的成功を収めたました。これはヨーロッパにおけるブルジョアの反乱です。

1817年10月18日、ライプツィヒの勝利から4年目、ルター派の宗教改革が始まって300年目の日に、500人の若者たち(ドイツの大学生のほぼ20人に1人)がアイゼナハに集まりました。

マルクトからヴァルトブルクまで長い行列ができました。

この運動は、統一ドイツ帝国への努力の現れです。

19世紀の修復

1階に中庭側の入口を作り、宴会場の床と屋根の構造を変えました。

ベルクフリート、新ケメナーテ、ゲートホール、ディルニッツ、そして西の突端部にある宿屋など、歴史に残るような新しい建物が建てられました。

元の状態から、随分変わってない?

ヴァルトブルク城は19世紀の誤った中世知識で建てられてしまった部分もあり、中世時代の本当の姿がわからなくなっているところがあるよ。残念なことだけど。

20世紀から現代まで

1918年に君主制が廃止されたことにより、ヴァルトブルク城を維持するために財団が設立され、寄付が行われました。

第二次世界大戦

ソ連の軍事政権がチューリンゲン州全体の管轄権を引き継ぎました。

ヴァルトブルク城は見学可能でしたが、武器庫は軍国主義の遺物として撤去されてしまいました。

ドイツ民主共和国(東ドイツ・DDR)時代

19世紀の建築的・芸術的成果を否定する形で、「脱リノベーション」が行われました。

ファサードの再構築、パラスの外階段の撤去、新ケメナーテとパラスの連絡棟の取り壊し。正面アーケード、下のパラスの部屋、礼拝堂の歴史主義的な絵画の撤去などが行われました。

ヴァルトブルク城へのアクセス

緩やかな丘陵地帯にあるように見えて、200mのゴツゴツとした急峻な岩山の上に立っています。

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