ドイツ、テューリンゲン州にそびえ立つヴァルトブルク城は、マルティン・ルターが聖書を翻訳した地として有名です。しかしこの城には、もう一人の象徴的な人物がいます。
その聖女は、ハンガリー王女エルジェーベト(ドイツ語名:エリザベート・フォン・テューリンゲン)

彼女の生涯は、信仰、慈善、そして苦難に満ちており、その精神は今日までヴァルトブルク城の随所に息づいています。

ヴァルトブルク城の歌合戦伝説にも登場する人物だよ。
本記事では、後に聖女に列聖されたエリザベートについて紹介します。


王女から方伯妃へ


エリザベートは、言い伝えでは1207年7月7日に、父ハンガリー国王アンドレアス2世(Andreas II,在位1205-1235)、母はアンデックス-メラニエン(Andechs-Meranien)伯爵ゲルトルート(Gertrud)の娘として生まれました。
幼き頃より遊びと音楽を好む一方で、信仰心も熱く日課として欠かさず祈りを捧げ、貧しい人々へ特別な関心を寄せていました。
わずか4歳で政略結婚のためヴァルトブルク城へ
エリザベートが4歳の時、テューリンゲン方伯ヘルマン1世(Hermann I. von Thüringen)より、皇帝フリードリッヒ2世(Friedrich II.)の従兄弟にあたる長男ヘルマンとの婚約話を持ち掛けられ、婚約が成立します。



政略結婚とはいえ、4歳はいくらなんでも早すぎるでしょ!
当時に習慣に従い、エリザベートは政略結婚のために故郷ハンガリーを離れ、ヴァルトブルク城へと連れてこられました。
エリザベートと齢の近い遊び相手となる子どもたち、乳母、教育係、監督者たちとともに。
城では、ドイツ語、フランス語、ラテン語、音楽、文学、刺繍などを、将来のテューリンゲン方伯妃としての教育をみっちり受けます。
エリザベートが14歳になった1221年、ルートヴィヒ4世と結婚します(長男は夭折してしまったため、次男のルートヴィヒ4世と結婚)。



実際の結婚は、成長を待って行われたんだね。14歳は今の感覚では速いけれど、中世の価値観なら結婚適齢期。
この結婚は政治的な理由で決められたものでしたが、二人の間には真の愛が育まれ、信仰と神の御心を行いたいという共通の願いによって、夫婦の絆は深まっていきました。
二人の間には、長男ヘルマン2世(Hermann II)、長女ゾフィー・フォン・ブラバント(Sophie von Brabant)、次女ゲルトルート(Gertrud)の3人の子供が生まれます。
信仰と慈善の生涯
方伯妃となったエリーザベトは、宮廷の華やかな生活よりも、深い信仰と貧しい人々への奉仕に心を砕きました。
貧しい病人のために施療院や養護施設をつくり、貧しい人々に食べ物や着るものを与えるなどの慈善活動を行いました。
エリザベートの活動は批難されることもありましたが、夫のルートヴィヒ4世は彼女の良き理解者であり、庇っています。
エリーザベトは、施しを乞う人々に食べ物や飲み物、衣服を与え、借金を払い、病人の看病をし、死者を埋葬するなど、献身的に行い、施療院も設立しました。



日本史では、光明皇后がこういった活動をしていたね。


エリザベートの苦難


残念ながら、エリザベートの幸せな結婚生活は長く続きませんでした。
1227年、夫であるルードヴィヒは第6回十字軍に従軍中、疫病のため27歳の若さで病死してしまいます。
夫の死後、5歳の息子ヘルマン2世が方伯位を継ぎ、ルートヴィヒ4世の弟ハインリヒ・ラスベ(Heinrich Raspe)が摂政につきます。
義弟のハインリヒ・ラスベにとって、エリザベートの慈善活動は非常に頭の痛い問題。
エリザベートに国政を任せることはできないと、ヴァルトブルク城から追い出されてしまいます。



一時は豚小屋に身を寄せるほどの苦境に立たされていたよ。



ハンガリーの王女様よ!テューリンゲン方伯の母よ!なぜそんなひどい仕打ちにあわなきゃいけないのよ!
マールブルクへ
エリザベートはまだ若いので再婚話もありましたが、頑なに拒否して貞節を守りました。翌年彼女は師父コンラートを頼ってマールブルク(Marburg)に行き、更に力を入れて慈善活動を行いました。


化粧料を修道院に寄進し、病院を建設し、貧しい人々のために尽力します。



何が彼女をそこまで突き動かしているのだろうか?なかなかできることじゃないよね。
1231年11月17日、病人への献身的な看病と疲労により亡くなります。享年24歳でした。


列聖され聖女に


エリザベートは生前から奇跡を起こしていました。そして死後すぐに奇跡が起き始め、巡礼者が殺到しました。
その聖性が広く認められたため、4年後にはローマ法王グレゴール9世(Gregor IX.)によって列聖され、聖女になります。
1236年5月には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(Friedrich II.)も、敬愛していた親族であったエリザベートのマールブルクでの盛大な葬儀と聖遺物安置の儀式に臨席しています。
葬儀には非常に多くの人がマールブルクを訪れ,皇帝は頭部を聖遺物とするために胴体から切り離し,聖女の頭部に栄冠を授けました。



現在彼エリザベートの頭部はウィーンのエリザベート病院に祀られているんだって



頭を胴体を切り離すなんて、亡くなったあとも虐待しているようにしか見えないんだけど、この感覚はきっと価値観の問題だよね。
聖エリザベートは、以下の守護聖人として崇敬されています。
- テューリンゲン
- ヘッセン
- 寡婦
- 病人
- パン職人
- 織物工業
エリザベートの墓所には、ゴシック様式のエリザベート教会(Elisabethkirche)の建築が始められました。
駅からマールブルクに向かう途中に、聖エリザベートが眠るエリザベート教会があります。
ぜひ、訪れてみてください。
ヴァルトブルク城に残るエリザベートの面影


ヴァルトブルク城では、エリザベートの物語をさまざまな形で伝えています。


- エリザベートケメナーテ(Elisabethkementate)
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パラス1階にある部屋。固定ヴィルヘルム2世からの贈り物として、1902年から1906年にかけて制作されたガラスモザイクが飾られています。
- エリザベートの誕生を予言するクリングゾール
- ルートヴィヒとの結婚
- 奇跡の薔薇
- エリザベートギャラリー(Elisabethgalarie)
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パラス2階にある部屋。
1850年代にモーリッツ・フォン・シュヴィントによって描かれた14点のフレスコ画は圧巻です。
最後に
ハンガリーの王女として生まれ、テューリンゲン方伯妃として生きた聖エリーザベトは、その短い生涯を信仰と尽きることのない慈愛に捧げました。
エリザベートの物語は、単なる歴史上の出来事としてだけでなく、困難に直面しながらも他者への奉仕を貫いた人間の精神の輝きとして、現代を生きる私たちにも大きな感動とインスピレーションを与え続けています。
ヴァルトブルク城を訪れる際には、ルターの足跡だけでなく、城に咲いた慈善の薔薇、聖エリーザベトの物語にもぜひ思いを馳せてみてください。



短くて儚い、しかし強烈に光り輝いている。強い女性だったのね。