政治の中心地であり、古城街道にある城です。カイザーブルク城(Kaiserburg)とも呼ばれ、中世神聖ローマ帝国と皇帝の権力とその重要性を象徴するものです。
かつての皇帝やドイツ国王達が何度も滞在し、様々な行政業務を行っていた所です。
中世の神聖ローマ帝国の皇帝たちが住んでいたと考えていいのかな?
そうだよ。といっても、皇帝たちが住んでいたのは一時的に滞在していた程度なんだけど、中でもとりわけニュルンベルク城は最もよく滞在していたといってもいい城だよ。ドイツ神聖ローマ帝国で最も重要な城だと言っても過言ではないよ。
ニュルンベルク城は、皇帝たちが一時的に滞在していた帝国城砦の一つにすぎません。しかし、帝国や連邦の首都がなかった時代、毎年のように皇帝が訪れ、大きな意味を持つ政治的決定の場として、また、選挙で選ばれた国王が最初の帝国議会を招集する場でもありました。
中世後期のドイツ国王選挙後の最初の帝国議会はニュルンベルク城で開かれる事になっていた上に、 皇帝が即位するために必要なレガリア(日本の皇室でいうところの三種の神器みたいなもの)が、ニュルンベルク城に保管されていました。
とはいえ、ドイツ国王の力は中央集権の進んだイギリスやフランスに比べるととても弱く、その辺の諸侯とたいして変わらないのですが、それでもやはり地位は神聖ローマ皇帝。
ちなみに現在のニュルンベルク城は、第二次世界大戦で約70%が破壊され、その後再建されたものです。
ニュルンベルク城の構成と見どころ
ニュルンベルク城は、実は一つの城ではなく、カイザーブルク城と城伯城(ブルクグラーフェンブルク・Burggrafenburg)の2つの城で構成されています。
カイザーブルク城は、その名の通り皇帝が滞在していた城で、ブルクグラーフェンブルクは城を管理する城伯が滞在していました。
左から、礼拝堂塔( Kappelenrturm )、ジンヴェル塔(Sinwellturm)、五角形塔(Fünfeckigeturm)、ルギンスラント(Luginsland)と呼ばれる塔です。
左側の四角い塔(礼拝堂塔)が見える部分がカイザーブルク城の城域で、真ん中丸い塔(ジンヴェル塔)が建っているあたりの右側がブルクグラーフェンブルクになります。右側の建物は、皇帝厩舎(Kaiserstallung)になります。
写真からはわかりませんが、北側には広くて深い堀があり、稜堡があります。
現在、カイザーブルク城は博物館として、ジンヴェル塔は展望台として、皇帝厩舎はユースホステルとして利用されています。
バックパッカーらしき若者たちが出入りしていたよ
カイザーブルク城
カイザーブルク城へ行くには、ブルクグラーフェンブルクを通っていかなければなりません。
パラス(Kemenate)―ゲルマン国立博物館分館
パラスは、皇帝家族の私的な居住空間です。
ニュルンベルク城のパラスは、ホールのある部分(東側)と居住空間のある部分(西側)の2つに分けられます。
東側の1階には騎士の間(Rittersaal)、2階には皇帝の間(Kaisersaal)があります。名称そのものは19世紀のロマンティック主義に基づいているだけで、中世時代は単に「下のホール(unterer Saal)」「上のホール(oberer Saal)」と呼ばれていたにすぎません。
13世紀に建てられたパラスは、第二次世界大戦で破壊された後再建され、現在、ゲルマン国立博物館の分館として利用されています。
博物館の入り口には城の模型があります。
ベルクフリートと城壁の一部の簡単な構造から、外側に向かって防御を固めつつ増築されていったことが分かります。ベルクフリートには梯子がかかっており、高い入り口から出入りしていたことまで再現されています。
中世後期以降の王宮の軍事的重要性、軍事的側面に特化した展示を行っています。中世後期の武器や甲冑、鞍や馬具、貴族の決闘、市民の射撃等に関する展示があります。馬の甲冑の実物を見られるのはたいへん貴重。
馬上槍試合(Turnier)用の武器や甲冑は、ほとんどがニュルンベルク製です。ニュルンベルクには鍛冶屋の職人組合があり、甲冑を生産していました。ニュルンベルクは甲冑生産で有名な都市。
他にも、初期バロック様式、後期ゴシック様式、ルネッサンス様式の調度品が展示されています。
西側の居住区は、ガイドツアーに参加することによって見学できます。
皇帝の部屋(Kaiseliche Stube)には、第二次世界大戦で破壊されて半分だけが残った天井があります。天井一面に、15世紀後半に描かれた双頭の鷲の紋章があったのですが、破壊されてしまった部分は真新しい天井となっています。フレスコ画も同様に破壊され、その後復元されたものです。
半身の双頭の鷲の姿が痛々しい…。フレスコ画も頑張ってパズルして再建したのだろうけど、ところどころ抜けているのがやはり悲しい…。
複層礼拝堂(Doppelkapelle)
二重礼拝堂と訳されている例もあります。ガイドツアーでのみ見学できます。
このような複層礼拝堂は、中央ヨーロッパでは十数例が知られているのみです。
シュタウフェン朝時代のもので、1200年ごろから13世紀初頭に建てられたもので、1216年に下の礼拝堂がドイツ騎士団(Deutscher Orden)に譲渡されたことが確認されています。
下の礼拝堂へは外郭から、上の礼拝堂へはパラス(Palas)からアクセスします。上の礼拝堂と下の礼拝堂は、つながっておらず、礼拝中に行き来することはそもそもないので必要なかったのでしょう。そして、3階部分にギャラリーがあるのが特徴です。
上の礼拝堂には暖炉があり、皇帝たちは暖炉で暖まりながら礼拝できますが、下々の者たちは下の礼拝堂で冬は震えながら礼拝していたことでしょう(ここでいう下々の者はミニステリアーレたちのことで、けっして下層民のことではありません)。
ジンヴェル塔
カイザーブルク城にはベルクフリートが2つあり、そのうちの1つが外郭(ベイリー・Vorburg)に立つ円筒型のジンヴェル塔(Sinwellturm)で、岩山の最も高い部分に建っています。
盾壁よりも高く、門のすぐ側に立っていることから、その防御的な重要性をうかがい知ることができます。
ジンヴェル塔(Sinwellturm)
13世紀後半に建てられたもので、大空位時代が終わってから(1273年)大規模に改築されました。
この地域では珍しい、平面が円形の塔です。
丁寧に加工された背丸角石で全体が構成されています。ベルクフリートらしく、居住機能は全くありません。
現在、展望台として利用されています。
ジンヴェル塔から眺めるニュルンベルクの市街地は、一見の価値があります。
井戸小屋(Brunnenhaus)
上のジンヴェル塔の写真の左下にある建物が、井戸小屋です。ガイドツアーでのみ見学できます。
ガイドさんが上から水を落としたり、火をともしたローソクを下ろしていって火が見えなくなるのを確認したり、お客さんに深さを実感してもらう実演をしてくれます。
井戸小屋が文献に登場するのは14世紀になってからのことですが、井戸そのものはそれ以前から存在していたことは明らかです。
城に必ずしも井戸があるとは限らないけど、水源のない城というのは考えられないからね。
井戸は、50m以上あり、最上部数mのフレームだけが砂岩角石で固められており、水位のすぐ上に、清掃作業用のニッチがあります。
このニッチから市庁舎への秘密の通路があったなんていう噂があったみたいだけど、それはただの伝説みたいね。なんだかロマンを感じさせるけど。
ブルクグラーフェンブルク
ブルクグラーフェンブルクは、カイザーブルクの前に立つ小さな城に過ぎませんでした。
1420年の城伯と都市との争いで大部分が破壊されてしまったため、初期の建築史は不明な点が多くあります。残っている建物も僅かしかありません。発掘調査と伝承によって過去の姿を想像することしかできません。
ヴァルブルギス礼拝堂(Walburgiskapelle)
ホーエンツォレルン家によって建てられた礼拝堂。
この建物の背丸角石にみられる挟み穴は、1230~1240年ごろにニュルンベルクで一般的になった加工技術です。
第二次世界大戦で破壊されてしまいましたが、1970年から修復作業が始まり、現在は礼拝や結婚式に使用されるようになっています。
皇帝厩舎
かつて堀だったところに、市議会が1495年に建てたものが帝国厩舎で、物資保管庫として使用されていました。16世紀に帝国厩舎として使用されていたため、その名になっています。
ホーエンツォレルン家からブルクグラーフェンブルクを購入できたため、堀を埋め立て、建てました。
4つのコーナータレットが特徴的な奥に見える塔はルギンスラントで、城伯と都市の紛争のシンボル。城伯の攻撃から都市を守るために市議会が1377年に建てたもので、わずか40日の工期で建てたといわれています。カスパー・ハウザーが観察のため、短期間ここに閉じ込められました。
手前に見える五角形塔は現存する城の最古の部分と考えられていますが、その年代は研究者により前後しています。1192年以降にホーエンツォレルン家(Hohenzollern)が建設した可能性が高いですが、前任のラープス家(Raabs)の可能性もあります。
これら2つの塔を、都市は囚人や精神病患者を収容する牢獄として使用されていました。
現在、ユースホステルとして利用されています。
その他の建物
ヴェストナー門(Vestnertor)
都市を通らずに城に出入りできる門。ニュルンベルク城で、最も保存状態の良い門です。
ブルクグラーフェンブルクが機能しなくなって以降、この門が市への門となりました。かつてはこここに、落とし格子がありました。
ハーゼンブルク(Hasenburg)と天国門(Himmelstor)
天国門は現存する後期ゴシック様式の門で、1427年以降に建設されたとされています。
ハーゼンブルクは、漆喰レンガの上部構造がつくられ、盾城壁とつながる回廊がつくられました。
上部にあるのは、市の紋章です。
美しニュルンベルク城をお手元に
ニュルンベルク城の歴史
ドイツ中世の時代、ニュルンベルク城の役割はひじょうに大きかったんだよ。
ニュルンベルク城の誕生
ニュルンベルクのことが文献に初めて登場するのは、1050年のことです。とある女性が貴族の男性と結婚したことを、皇帝ハインリヒ3世(Heinrich III.)が証言しているものです。このとき、ハインリッヒ3世はバイエルン中の封建領主をホールに招集しました。
この1050年よりも少し前に最初の城が建てられたと考えられており、この地はペグニッツ川(Pegnitz)の合流点の岩山、アイヒシュテット(Eichstätt)司教区とバンベルク司教区の境界という立地になります。
中世中期のニュルンベルク城―戦いの舞台へ
城というものは政治の場であるだけでなく、戦いの場でもある。中世中期になると、ニュルンベルク城は何度か戦いに巻き込まれることになるよ。
ザリエル朝時代
- 1105年
-
城に駐留する前皇帝ハインリッヒ4世の軍を、皇帝ハインリッヒ5世が包囲します。包囲は数週間にわたり、この時、城が一部破壊されます。
- 1127年、1130年
-
皇帝ロタール・フォン・ズップリンゲンブルク(Lothar von Süpplingenburg)がシュタウフェン家と争い、これまた城が包囲されています。
ザリエル朝時代
- 1105年
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城に駐留する前皇帝ハインリッヒ4世の軍を、皇帝ハインリッヒ5世が包囲します。包囲は数週間にわたり、この時、城が一部破壊されます。
- 1127年、1130年
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皇帝ロタール・フォン・ズップリンゲンブルク(Lothar von Süpplingenburg)がシュタウフェン家と争い、これまた城が包囲されています。
シュタウフェン朝時代
- 1138年
-
皇帝コンラート3世(Konrad III.)が数か月滞在したことで、シュタウフェン朝が始まります。
- フリードリヒ1世赤髭王(Friedrich I. Barbarossa)の治世(在位1152年~1190年)
-
ビザンチン帝国からの使者をここで迎え入れたり、多くの宮廷行事を行っています。
フリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa) 1147年から1152年まではシュヴァーベン公爵フリードリッヒ三世(Friedrich III. Herzog von Schwaben)でしたが,後に皇帝に即位してフリードリッヒ一世赤髭王と呼ばれ… - 1219年
-
初めて宮廷議会が開催されます。
- 1225年
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まだ14歳だった国王ハインリヒとオーストリアのマルガレーテとの結婚式が行われ、結婚式に向かう途中だったケルン大司教エンゲルベルト(Erzbischofs Engelbert von Köln)が殺害された事件の裁判の場ともなりました。
重みに耐えられなくて、建物が崩壊するなんて…。
建物の建築技術がまだ未熟だったからね。ニュルンベルク城に限らず、客人の重みに耐えきれずに床が崩壊して客人が多数亡くなる事故はこの時代にはよくあることらしいよ。
1138年以降、オーストリアの下級貴族であるラーブス(Raabs)の領主が城伯の地位に就いていましたが、1192年にシュヴァーベンのツォレルン家(Zollern)がその地位に就きました。
中世後期
大空位時代のあと、ハプスブルク家のルドルフ1世(Rudolf I.)の時代から、ニュルンベルク城が再び政治の舞台に登場することになるよ。
パラスや礼拝塔の上部が建設されるなど拡張工事が行われましたが、権力のバランスが変化し、帝国自由都市と市民の力が強まります。ニュルンベルクは依然として政治の中心地ではありましたが、城は魅力を失っていきます。
1340年に市庁舎が完成し、政治活動は市庁舎や都市貴族の自宅で行われることが増えました。
ルートヴィヒ・デア・バイヤー(Ludwig der Bayer:在位1314年~1347年)の時代になると、城に居住することはなくなり、城より快適な都市貴族の家に住むようになりました。
金印勅書(Goldene Bulle)
カール4世の時代、1356年に金印勅書が発布され、国王選挙後の最初の帝国議会はニュルンベルクで開催されなければならないと規定しました。
なお、ニュルンベルクで最初の帝国議会を最後の皇帝は「最後の騎士」と呼ばれるマクシミリアン1世(Maximilian)です。
城伯家の台頭
中世後期になると、都市と城伯家のホーエンツォレルン家との関係が悪化しました。
ホーエンツォレルン家は、皇帝カール4世により帝国侯爵に昇格し、1415年に皇帝ジギスムント(Sigismund)からブランデンブルク選帝侯の地位を与えられました。
城伯の地位の向上が気に入らないのが都市。都市はブルクグラーフェンブルクの前に壁を作り、城伯が都市に自由に出入りできないようにし、1377年にルギンスラントを建ててブルクグラーフェンブルクを監視できるようにしました。
お互いに監視しあっているんかい!
1388、89年、1420年衝突が起こり、1420年にはブルクグラーフェンブルクはついに破壊されてしまいました。
ホーエンツォレルン家はブルクグラーフェンブルクを破壊されてしまいましたが、城伯よりもブランデンブルク選帝侯に関心が移っていたので、1427年に廃墟を都市に売却しました。
中世以降
1806年、バイエルンに買収され、バイエルン王ルートヴィヒ1世(Ludwig I.)のお気に入りの場所でした。
ルードヴィッヒ1世は大規模に城を再建しようと考えていましたが、建築家が提出したネオ・ゴシック様式のデザインがあまりにも過大であったため、一旦保留にしました。
マクシミリアンの代になって、再設計され、増築されました。
第三帝国時代
1936年に多額の費用をかけて再設計され、オリジナルの状態に戻されました。
バイエルン王国時代の歴史主義的な調度品は、撤去されました。
現在
バイエルン州の所有となっており、Verwaltung der Staatlichen Schlösser, Gärten und Seenが管理し、博物館、展望台、ユースホステルとして一般公開されています。
第二次世界大戦で約70%が破壊されるという大きな損害を被ってしまいましたが、その後、修復再建されました。城の内部を見学するにはガイドツアーに参加しなければなりませんが、内部を見学すると、修復の努力の跡を見ることができます。
復元には、30年の歳月を要しました。
戦後、大小さまざまな発掘調査が行われ、ニュルンベルク城に関する知見が積み上げられています。
神聖ローマ帝国について詳しく知りたい方はこの本がおすすめ
ニュルンベルク城へのアクセス
郊外の辺鄙なところにある城が多い中、この城は街中にある城だから行きやすいよ。ニュルンベルク駅から歩いて、中世の面影を強く残す旧市街(Altstadt)を散策しながら城まで歩いていくことをお勧めするよ。
歩いて城に行ってみると、城が砂岩の岩山の上に立っていることがよくわかるのね。街の雰囲気もとってもステキよ。
ニュルンベルクの旧市街は、軒面が通りに面しているので、妻面が通りに面しているローテンブルク・オプ・デア・タウバーの街並みとは雰囲気が違います。
ニュルンベルク城の公式サイト
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