ドイツの城を調べていて、帝国城砦(ライヒスブルク・Reichsburg)や王城(ケーニヒスプファルツ・Könichspfalz)または皇城(カイザープファルツ・Kaiserpfalz)やカイザーブルク(Kaiserburg)という言葉を聞いたことはありませんか?
名前から、かつて国王や皇帝が住んでいた、または政治を行っていた場所であることは容易に想像できます。
帝国城砦といえば、コッヘム城(Reichsburg Cochem)が特に有名で、『帝国城砦』や『Reichsburg』で検索すると、ほぼ上位にコッヘム城が出てきます。
同様に、カイザーブルク城といえば、ニュルンベルク城(Kaiserpfalz Nürnberg)があげられます。
しかしこれらの言葉をよりよく調べていくと、帝国城砦やカイザーブルクと呼ばれる城は、複数存在していることがわかります。



帝国城砦やカイザーブルクといわれるものはたくさんあるよ。帝国城砦とは何か、その定義を知ればたくさんある理由が理解できると思うよ。
帝国城砦とは何か
帝国城砦、王城、カイザープファルツやカイザーブルクに違いがあるかといえばあいまいで、明確に区別できるものではありません。
国王選挙で選ばれた神聖ローマ帝国やドイツ国の帝国・王室財産であり、個人資産ではなく、旅する王権の一時的な居城のことを帝国城砦といいます。当初はカイザープファルツのみ、10世紀には帝国修道院が、11世紀には司教座がこれに加わります。
個人資産ではないため、国王が死去すると、国王自身の個人的な相続人ではなく国王の後継者に引き継がれることになります。
カイザープファルツという名称は19世紀になってから使用されるようになった用語で、ドイツ国王がローマ皇帝の称号を得るのは、ローマ教皇の戴冠式後になります。用語としてはケーニヒスプファルツのほうが適切かもしれません。
王室が所有する経済的資産に過ぎず、移動中の王の一時的な居住地として時折使用されるものです。君主の命令で建設されたものもあれば、買収したものもあります。
国王はここで公式行事を行い、議会を開き、宗教的儀式を行っていました。
カロリング朝時代、朝廷は修道院に滞在していましたが、11世紀の「王位継承問題」以降、教会の資産は必ずしも支配者が利用できるとは限らなく成ったため、自らの資産にたよることが多くなりました。
帝国城砦の構成
帝国城砦は、城だけで存在し得るものではありません。
肥沃な土地や交通の便の良さ、あるいは個人的な理由でその場所が気に入ったのならば、そこに建物を建て、頻繁に訪れるようになります。
そこにはパラスやホール、城の礼拝堂だけでなく、城の近くには必ず大規模な荘園があり、王室資産である狩猟ができる森がありました。
国王は数百人におよぶ側近や家臣を引き連れて移動します。時にひじょうに多くの客人を招き、その客人と馬に食事と宿泊所を提供していました。
それゆえ、比較的交通の便が良く、肥沃な地域にありました。大規模なものは、帝国自由都市に置かれることが多い。
巡幸王権(Reisekönigtum)


Cherubino, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons



かつて皇帝や国王たちは一か所に定住することなく、城から城へ、宮殿から宮殿へと移動していたよ。
フランク王国時代から中世後期まで、国を統治するための恒久的な政治の中心地である首都を持たず、多くの側近を従えて国内を転々と移動しながら支配する形態が、ドイツのみならず他のヨーロッパ諸国でも一般的でした。
自分の意志を実行するために、王は直接姿を現さなければなりません。
その結果、王は常に移動していました。家族、側近、外交官、聖職者などからなる家臣をひきつれて移動し、彼らは政治と王の保護だけでなく、王の階級を示す役割も果たしていた。
帝国城砦は帝国内に点在しており、だいたい30㎞間隔で建設されています。当時、1日で馬で移動できる距離が30㎞だったからです。



日本では、かつて天皇が変わると遷都を行っていた時代があったけど、それとはまったく違うね。首都がないなんていうのも、いまいちピンとこないわね。
国王によって異なる旅の経路
どこの城からどの城へ移動するのか、その旅路は王朝によっても異なりますし、同じ王朝でも国王によって異なることがあります。。
コンラート1世(Konrad I.)までのカロリング朝時代の帝国城砦は主に西にあり、ザクセン朝のオットー1世(Otto I.)はその名の通り、起源とするザクセンを主に巡回し、ザーリア朝はラインフランケン地域を巡回していました。
シュタウフェン朝のフリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa)は北部を巻き込むことに成功しましたが、その背景にはヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公との対立があります。
また、ハインリッヒ6世とフリードリッヒ2世の頃は、イタリア遠征という政治的な変化があったこともあり、もともとの発祥地であるシュヴァーベンよりも北側の地域には、ほとんど滞在していなかったようです。
政治の中心地を移動させる理由



移動していたことは分かったけど、どうして移動しなければならなかったの?



主に経済的な理由だよ。
「遍歴の支配」の主な理由は、帝国の規模と効果的な行政の欠如
中世の神聖ローマ帝国は、首都から帝国全体を支配するのではなく、できるだけ「現場」で家臣たちと個人的な接触を持つことが重要視されていました。
でも、それだけが理由ではありません。
当時のヨーロッパの農業生産性はひじょうに低いものでした。中世に農業革命がおこり食糧生産が増大したとはいえ、まだまだ十分ではありません。生産した食料を運ぶための輸送ルートも輸送手段も貧弱でした。
それゆえ、一か所に留まり続けていると、その地域の食料を食い尽くしてしまうことになります。農民だけでなく、国王も餓死してしまうことになりかねません。
ですから、その地域の食料を食い尽くしてしまう前に、国王自らが次の地域へと移動していました。
城から城への移動というよりも、農場から農場へと消費する側が供給地へと移動していたと、考えるとわかりやすいでしょう。
国王不在時の城や領土をどう管理していたの?


A.Unnewehr, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons



王様がいるときはわかるけど、王様がいないときって、城の管理はどうなっていたの?まったくの留守にするわけにはいかないでしょ?



城伯(Burggraf)やブルクマン(Burgmann)の役職についていた帝国ミニステリアーレ(Reichsministeriale)たちが管理していたよ。
ブルクマンという職は、時に城伯(Burggraf)という爵位と結びつき、世襲されることもありました。
関連:ホーエンツォレルン城(Burg Hohenzollern)―プロイセン王家発祥の城


まとめ
- 帝国城砦とは、国王や皇帝の一時的な居住地
- 中世の神聖ローマ帝国は、首都を持たずに常に国王は移動していた
- 臣下と直接顔を合わせて関係を持つことが重要視されていた
- その地域の食料を食い尽くす前に移動
- 国王不在時は、ブルクマンや帝国ミニステリアーレが城と領土を管理
帝国城砦たち
- ニュルンベルク城(Kaiserpfalz Nürnberg)―中世ドイツの政治の中心地
帝国城砦といえば、やはりカイザーブルク城と紹介されることの多いニュルンベルク城でしょう。


- ヴィンプフェン城(Pfalz Wimpfen)-都市に取り込まれた帝国城砦
ドイツ最大のプファルツで、城のあるバート・ヴィンプフェン(Bad Wimpfen)はドイツで最もシルエットの美しい街と言われています。


- ゲルンハウゼン城(Kaiserpfalz Gelnhausen)-バルバロッサの城
- ハールブルク城(Burg Harburg)―南ドイツで最も古くて巨大な城
ロマンティック街道にあるハールブルク城は、かつてはシュタウフェン家の所有する帝国城砦でした。近世になっても、神聖ローマ皇帝がフランクフルトで戴冠式を受けるための旅の途中で宿泊していた城でした。


- 帝国城塞トリフェルス城(Reichsburg Trifels)イギリス国王リチャード獅子心王が幽閉された城
- 帝国城砦コッヘム(Reichsburg Cochem)―戦争による破壊からの復興
コッヘム城は、度重なる戦争で破壊しつくされてしまいましたが、ベルリン商人がプロイセンから買収し、フランス軍に破壊される前の姿を映した銅版画を元に、中世の雰囲気に寄せてネオゴシック様式で再建した城です。

