万世一系の日本の皇室とは異なり、中世ヨーロッパにおいて国王は諸侯による選挙で選ばれるものでした。
選挙制と世襲制を揺れ動くドイツ国王
国王と言えば、後の時代では最強主君になりますが、中世初期のヨーロッパでは、国王は必ずしも最高主君ではありませんでした。
フランク王国の時代
国王の称号を名乗れるのは、特定の家系に限られており、メロヴィング家またはカロリング家のみが国王の称号を使用していました。
しかし、バイエルン大公など、フランク王国以外でも国王を自称していた諸侯がいました。フランク王国が認めなかっただけで、バイエルンの史料では国王と記載されています。
ゲルマンは分割相続を伝統としており、複数の国王の存在を許す土壌がそもそもありました。相続のたびに領土が細分化される問題が発生しますが、選挙原理は領土の細分化を防止する役割を果たしていました。
メロヴィング朝
メロヴィング朝創設者のクロヴィスは、選挙で選ばれています。
カロリング朝
カロリング朝の創設者であるピピンは、フランク有力諸侯による選挙を済ませ、ローマ法王の黙認をとりつけた上で、無血クーデターを起こしました。
カール大帝(Karl der Große)は息子のルードヴィッヒ敬虔王(Ludwig der Fromme)を共同統治者にすることで、選挙ではなく世襲で引き継がせることに成功しています。
はじめはカロリング家からのみ選ばれていた国王ですが、しばしば自由選挙が行われました。
ドイツ王国時代
カロリング朝断絶後、コンラート一世(Konrad I.)は、選挙により国王に選ばれました。
コンラート1世は、「選挙は無駄な対立を生む」ということから、臨終の際、対立関係にあったザクセン家のハインリッヒ一世を国王に指名します。
神聖ローマ帝国の誕生
オットー1世(Otto I.)は、国内統一を推し進めるため、教会勢力との提携を進めます。
ローマに遠征した962年、ローマ皇帝に戴冠され、ローマ帝国となりました。
しかし教会との関係を深めてしまったがゆえに、ドイツでは血統主義よりも選挙原理が強くなってしまいました。
対立国王の誕生
「全一致の決定に神の意志が提示される」が揺るぎませんでした。
多数決で選んだとしても、少数派が退席した後に全員一致として国王を選んでいました。
選ばれた国王を支持しない少数派はフェーデで対抗する権利はありましたが、多勢に無勢なので、一般的には多数派の決定に従ったようです。
しかし、多数派と少数派の勢力差があまりない場合、少数派は少数派のみで集まって国王を選出しました。
対立国王の誕生です。
また、政情不安になると選出した国王を廃位し、新たに国王を選ぶこともありました。
ローマ法王と度々対立していたハインリッヒ四世(Heinrich IV.)は、諸侯によって廃位され、新しい国王を立てられてしまいました。
大空位時代
国王は選挙で選び、全会一致を原則とするドイツでは、各派閥が各自国王を立て、何人かの国王が並び立つ危険がありました。
選挙で選んだ正統な国王だけでなく、少数派が独自の対立国王がいつ出現してもおかしくない状況です。
この状況が頂点に達した時が「大空位時代」と呼ばれる時代で、封建領主たちは自分たちの勢力を拡大するために無能な王を選出するに至ります。
イギリスのコンウォール伯リチャードやカスティラ王アルフォンを選び、いずれもドイツにいません。事実上、ドイツ国王が存在しない状態です。
こうした混乱状況は、カール四世(Karl IV.)が金印勅書を発布するまで続きました。
教会の力
国王選挙には、教会の力が大きく関わっています。
聖職者は原則として独身で、子どもはいません。教会関係の役職は血統では成り立つわけではないので、血統による相続はそもそも考えられていません。
教会の高位役職は選挙によって決められていたこともあり、それを国王にも求めました。
教会は血統主義を否定し、選挙原理を強めます。
- 賢明な精神を持ち、信仰の厚い高潔な人物しか国王にしてはならない
- 世襲によって王権を受け取るべきではなく、真に資格のある王子であっても相続権よりもむしろ自由選挙によって王たるべきである
といったことが声高に繰り返し叫ばれました。
そして、
全一致の決定に神の意志が掲示される
という立場を譲りませんでした。
教会の力が強かったために、ドイツでは国王が複数存在したり、派閥争いによるフェーデが頻発したり、挙句の果てには国王がドイツに存在しない大空位時代を生み出すに至ってしまっています。
戴冠式
ピピン以来、国王の即位には塗油がセットになっています。
816年に教皇ステファン4世がランスでルードヴィヒ敬虔王戴冠式を行ったことで、戴冠式の厳粛な行為は、塗油と実際の戴冠式を組み合わせた教会的・典礼的な行為となりました。
塗油という儀式が導入されることによって、国王は聖職者的存在とされます。
選挙方法の変遷
選挙と言っても、初期の頃は今の選挙のような投票ではなく、拍手でした。
1014年の自由選挙
コンラート二世(Konrad II.)が選出された1014年の選挙では、有力な封建領主が一人ずつ口頭で名前を挙げ、それに賛同するものは歓声を上げる方法でした。
1125年の自由選挙
ロタール三世(Lothar III.)が選出された1125年の選挙では、誰を国王に指名するか名を挙げることのできる有力封建領主は40名に制限されました。
1356年の金印勅書(Goldene Bulle)の発布
選挙によって国王を選出することは、政治的混乱を招きました。
政治的分裂の危険を避けるため、国王を選ぶ選挙権を持つ諸侯を7名の選帝侯(Kurfürst)に制限することを正式に定め、少数派が別の国王を選出できないようにしました。

フランスやイギリスの場合
選挙原理の克服が必死になって行われ、早い時期に世襲相続を安定させることができました。
フランスの場合
初代フランス国王ユーグ・カペーが選挙で国王に選ばれると同時に、息子のロベール二世を共同国王にしました。
諸侯の反対はもちろん強かったのですが、スペイン遠征を口実に、

万が一の場合のことを考えて、後継者を決定しておく必要性がある!
ということで、自分の目が黒いうちに次代国王を選ぶ選挙を行わせ、ロベール二世が選ばれました。
このようにして、フランスでは国王が即位すると、在任中に次代国王の選挙を済ませ、塗油も済ませておく慣行が一般化しました。
フィリップ二世が在任中に息子を共同国王にしておく制度を廃止しましたが、もうこの頃になるとフランスでは世襲制が定借しており、選挙で選ぶことはなくなりました。
イギリスの場合
イギリスも同様に、ブランアジネット家のヘンリー二世が国王に選出された時、息子のリチャード1世獅子心王を共同統治者にしました。
リチャード1世が急死すると、一時的に選挙制が復活し、ジョン欠地王が国王に選ばれました。
ジョンは欠地王と諡が付いていることからわかるように失策を重ね、怒った封建領主たちは、国王にマグナ・カルタを承認させるに至ります。
国王が選挙によって選ばれるのなら、王権の無制限な行使は許容することはできない
ということを示しています。