モーゼル川沿いの山(約100m)にそびえ立つ山城のコッヘム城。
中世の時代はモーゼル川を行き来する船から関税を徴収していた税関城。
城の立地 | 山城 |
城の分類 | ブルク |
城主の階級 | エッツォ宮中伯→ライネック伯爵→神聖ローマ皇帝→トリアー司教兼選帝侯→フランス→プロイセン王国→ラインラント=プファルツ州→コッヘム市→ライヒスブルク社 |
最初の城の設立 | 1000年頃 |
コッヘム城と言ったり、ライヒスブルク城と言ったりするけど、本当は何ていう城なの?
いろいろな表記があるから、混乱するのも無理ないね。ライヒスブルク・コッヘム(Reichsburg Cochem)が正式名称。ライヒヒスブルクは帝国城砦という意味だから、正しく表現するなら帝国城砦コッヘムだね。
国王選挙で選ばれた神聖ローマ帝国やドイツ国の帝国・王室財産であり、個人資産ではなく、旅する王権の一時的な居城のことを帝国城砦といいます。当初はカイザープファルツのみ、10世紀には帝国修道院が、11世紀には司教座がこれに加わります。
個人資産ではないため、国王が死去すると、国王自身の個人的な相続人ではなく国王の後継者に引き継がれることになります。
帝国城砦の代表のような扱われ方をしている城だけど、実際に帝国城砦として使用された期間は実は長くないんだよ(約150年間)。
中世の時代から存在すると思われがちな城ですが、プファルツ継承戦争および同盟戦争で破壊されてしまいました。現在の城は19世紀にロマン主義の時代に再建されたものです。
中世っぽくは見えますが、実際の中世の頃の姿とは全く異なるものです。
コッヘム城はハーグ条約に基づく文化的記念物となっています。
コッヘム城の構成と見どころ
コッヘム城を構成する建物群
コッヘム城のベルクフリート
コッヘム城のベルクフリートは八角形です。
八角形?四角形にしか見えないけど?
そう思われるかもしれません。
下部が八角形で、その上に四角形の部分が追加された形になっているのです。
塔に描かれているモザイク画は聖クリストファーで、塔の最上部にある4本のコーナータレットは、歴史主義時代に追加されたものです。
魔女の塔(Hexenturm)
魔女の塔は14~15世紀に建てられた階段塔。内郭への入り口を守っていました。
かつては最上部は胸壁冠で終わっていました(凸凹の部分)が、現在は円錐形の円い屋根が取り付けられています。
博物館のガイドツアー
内部の博物館は、3月~11月に行われるガイドツアーに参加することでのみ見学することができます。
1日に2回(12:00と15:00)だけ、英語でのガイドツアーもあります。
騎士の間(Rittersaal)
十字軍時代の鎧のレプリカや、16世紀にトーナメント試合で使用された鎧のレプリカが展示されています。
旧ブルクマンハウスで、ヴォールト地下室の上に建てられています。
ルネッサンス様式、新ゴシック様式など、様々な時代の調度品が展示されています。
コッヘム城は度重なる戦争で破壊されてしまっているので、城にある調度品の多くは戦後に収集されたものになります。
井戸
みなさんが覗き込んでおられるのは、この城の井戸です。
深さ50m、直径1.5~2mあります。
ガイドさんの説明を受けての行動なので、皆さん一斉に覗き込んでいます。
かつてはここは井戸小屋になっていましたが、現在は19世紀に作られた屋根のみが井戸を覆っています。
城からの眺め
城からの眺めが美しく,モーゼル川の流れとコッヘムの街の調和が美しいです。
訪れたのはまだ寒くて緑の乏しい春先で天気も悪かったです。
もう少し暖かくなって緑が増え、天気が良ければもっと綺麗な写真が撮れたのではないかと思っています。
城の展望台からは、蛇行して流れるモーゼル川、ぶどう畑が織り成す景色は美しい。
美しいコッヘム城をお手元に
コッヘム城の歴史
コッヘム城は、街とともに発展してきました。
コッヘムの地の歴史は古く、ケルト時代、ローマ時代、メロヴィング・カロリング朝時代も、いつもここには集落が存在していました。
宮中伯の城としてのコッヘム城の建設
この頃のコッヘム城の形はよくわかっていないけど、発掘調査から円い形だったことは分かっているよ。
- 866年12月20日
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プリュム(Prüm)修道院の文書に、Cochemaとして初めて登場します。その場所は、エッツォ(Ezzo)家が封土としていた帝国資産でした。
- 996年か1020年頃
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宮中伯エッツォによって城が築かれていたとされていますが、証拠はありません。
- 1085~87年
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エッツォ家の男系が途絶えたため、宮中伯領はハインリッヒ2世・フォン・ラーハ(Heinrich II. von Laach)の手に渡ります。その次の世代が、おそらくコッヘム城を建設したと考えられています。
この時代のロマネスク様式の城の形はほどんどわかっていませんが、ベルクフリートと居住館、食料貯蔵庫を環状囲壁が取り囲んでいたと考えられています。現在の八角形のベルクフリートは、ロマネスク様式の四角い塔がこの頃に八角形に鞘取りされたとされています。
帝国城砦に
1150年に断絶すると、ヘルマン・フォン・シュターレック(Hermann von Stahleck)とオットー・フォン・ライネック若伯(Otto dem Jüngeren von Rheineck)の間で後継者争いが起こり、オットー若伯の拠点となりますが、彼は1年後に暗殺されてしまいます。
この争いを沈静化するために、国王が登場するよ。
1151年、国王コンラート(Konrad)三世がこの城を包囲して征服、争いに終止符を打ちます。
国王が城を奪い取ったことで、コッヘム城は帝国城砦となったのね。
最初はブルクマン(Burgman)が、後に城伯職に任命された王室直属のミニステリアーレたちが城を管理しました。
トリアー選帝侯領へ
1294年、国王アドルフ・フォン・ナッサウ(Adolf von Nassau)が、戴冠式費用を捻出するためにコッヘムの城と都市、周辺の50の村々を含む地域を、トリアー大司教に抵当物件として差し出します。
抵当物件になる城って多いね。ハールブルク城もそうだったもんね。
コッヘム城も結局借金を返すことができなくて、1803年までトリアー選帝侯領になったんだ。
トリアー選帝侯も、一時城を抵当に入れたことはありましたが、1年後に取り戻すことができています。
15~16世紀
コッヘム城は戦略的・税収的に有効な城であったため、トリアー選帝侯の下、後期ゴシック様式で大幅に増築・改築されたことが、写本と銅版画からわかっています。
城の縄張りは、円形から二等辺三角形になります。城と街は城壁で結ばれます。
トリアー大司教はブルクマンや城伯を任命して城を管理させていました。ブルクマンや城伯には、名門貴族が就任しています。
戦争による破壊
コッヘム城は、三十年戦争の時はなんとか持ちこたえることができました。
プファルツ継承戦争
1688年11月8日、フランス軍の攻撃により、大きな被害を受けます。
翌年コッヘム全域がフランス軍に占拠されると、司令官の命により城が破壊されることになります。
コッヘム城もプファルツ地域の城がたどった運命と、同じ運命をたどりました。フランス軍に放火・略奪・爆破されました。
3日間燃え続け、燃え残ったものが爆破されたらしい。徹底して破壊されたんだね。
1697年のライスヴァイク条約(Frieden von Rijswijk)によりこの地は返還されました
街は少しずつ復興していきましたが、城はずっと廃墟のまま捨て置かれました。
第一次連合戦争
1794年の第一次連合戦争で再びフランス軍がこの城を占拠。
1801年のルネビルの和約により、フランスに併合されます。
そしてウィーン会議のあと、プロイセンがコッヘムを手に入れることになります。
フランスになったり、ドイツになったり。
コッヘム城の再建
歴史主義の再建活動
ベルリン商人で、後に商務長官となったルイ・フレデリック・ジャック・ラベネ(Louis Fréderic Jacques Ravené:1823-1879)がプロイセンの国家資産であるこの城を買い取り、ネオゴシック様式で立て直しました。
この時のコッヘム城は、五角形の塔、四角形の塔、階段塔だけしか残っていなかったんだよ。
コッヘム城は、トリアー選帝侯時代に描かれた銅版画を元に再建計画が立てられ、建築されました。
その際に行われた大規模な整地作業と保全作業の中、ロマネスク時代の基礎部分が発見されています。
中世後期の銅版画を元に再建されたとはいえ、本質的に城の外観は架空のものです。
失われてしまったものは二度と取り戻すことができないから、仕方ないよね。架空とはいえ、できる限り中世に寄せようとしてくれているのなら、まあ、良いか。
公の資産へ
- 1942年
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1942年、ラヴェネは城をプロイセンに売却し、ナチスの弁護士特別訓練センターが設置されます。
- 第二次世界大戦後
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ラインラント=プファルツ州の所有となり、管理学校が設置されます。
- 1978年
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コッヘム市が買い取り、現在はライヒスブルク社(Reichsburg GmbH)が管理しています。
コッヘム城の公式サイト
コッヘム城へのアクセス
駅から徒歩で約20分かかります。
夏やイベント時はコッヘムのバスターミナルから城までシャトルバスが運行されているよ。シャトルバスの運行時刻については,コッヘム城の公式サイトを見てね。
無料駐車場に車を止めて、歩いて登って行くこともできるよ。