プファルツ継承戦争(Pfälzischer Erbfolgekrieg)

ハイデルベルク城廃墟

ハイデルベルク城の他,ライン川やモーゼル川沿いの城塞が廃墟と化した戦争です。

プファルツ継承戦争は,大同盟戦争Krieg der Großen Allianz),九年戦争(Neunjähriger Krieg),アウグスブルク同盟戦争Krieg der Augsburger Allianz),オルレアン戦争Orléansscher Krieg)とも呼ばれています。

どの立場でこの戦争を眺めるかによって名称が変わります。中立的な立場では九年戦争という名称になります。城の歴史ではプファルツ継承戦争という名称で登場することが多いので,ここではプファルツ継承戦争を用います

大同盟戦争という名称は,あまり使われない名称です。

細かく見ていくと本が一冊書けてしまうような戦争なので,ざっくりと経過を見ていきます。ざっくりと紹介するつもりだったのに,長くなってしまいました。しかも書いている本人が,いまいち理解できていません。

目次

プファルツ継承戦争とは

1688年から1697年まで続いたフランス国王ルイ14世(Loui XIV.)による侵略戦争の一つです。

プファルツと名前がついているので地域戦のように思われがちです。しかし神聖ローマ帝国は西のプファルツだけではなく東ではオスマン帝国と戦っており,,イギリスでは名誉革命が起こり,アメリカではイギリスとフランスが争うウィリアム王戦争がありました。

この時期はヨーロッパ諸国が世界各地で植民地をめぐる戦争もしており,世界大戦の様相を呈していたといえます。

初の世界大戦であったと言っても過言ではありません

戦争の経過

世界情勢-戦争前夜

ルイ14世は領土拡大の機会を虎視眈々と狙っており,スペイン領オランダを手に入れようとけしかけ,オランダ侵略戦争を引き起こしています。フランスは大した戦果を得られず,ここで一旦オランダの征服を諦めます。

このフランスとオランダの争いは,皇帝レオポルド一世(Leopold I.)が中立的な立場で仲介しています。

ルクセンブルクとストラスブールを併合し,ナント王令を廃止したので,新教徒が帝国に亡命します。この行為は,帝国をはじめ他のプロテスタント諸国を激怒させます。フランスに対して,カトリック国とプロテスタント諸国が同盟を結び,アウグスブルク同盟が設立されます。

フランスはこのとき孤立状態にあります。

東ではオスマン帝国が侵攻し,第二次ウィーン包囲(1683年)がありました。これを撃破したことにより,帝国への信頼は高まります。ちなみに,トルコとの戦いは1699年まで続きます。

東で帝国が縛り付けられている間に,フランスが西側を狙います。ケルン司教区およびプファルツ選帝侯の継承問題です。

プファルツ選帝侯とケルン選帝司教の継承問題

プファルツ選帝侯はフランスと婚姻関係を結ぶことにより政治的安定を図ろうとしていました。しかしプファルツ選定司教カール二世が1680年死去すると,反フランスのノイブルク系が相続することになりました。

それに対し,カール二世の妹と結婚したルイ14世の弟のオルレアン公が相続権を主張し,それにルイ14世が乗ってくることになりました。

親フランスであったケルン司教が1688年に死去し,新たに親フランスの司教を立てますが教皇に承認を拒否されました。教皇は他の人物を司教に任命しましたが,ルイ14世はこれを受け入れることができず軍隊を送りつけることになります。

今日本で女性宮家とか,女系天皇が議論されていますけど,女系を認めるとこのような争いが起こる種を撒いてしまうということを意味しています。

男系を主張できればノイブルク系でおさまるのですが,女系を認めてしまう風習があったためにフランスに付け入るスキを与えてしまっていることになっています。

平和的に解決させるためには,旧宮家を復活させて,天皇は男系で継がせるのがやはり良いのかなと,この戦争を調べての率直な感想です。

戦争開始

プファルツ侵攻

1688年9月24日,ルイ14世は戦争を宣言します。

フランス軍はライン川左岸に侵攻します。ボン,ノイス,カイザースヴェルトを侵攻し,トリアー,コブレンツで激しい抵抗に遭います。

ストラスブールから渡った軍隊は,フィリップスブルク要塞(Festung Philippsburg)を落とし,マインツ,ハイデルベルク,ウルム,シュパイヤーへと侵攻していきました。フランス軍は都市や城塞を破壊し,略奪していきましたので,これらの地域は荒廃していきました。

帝国軍がトルコの侵攻に対抗していたため,留守を狙っての侵攻です。

1ヶ月後にマグデブルクで帝国軍が結成され,ライン川下流~中流域へ派遣されます。フランス軍によるコブレンツ陥落をなんとか阻止しました。

11月になるとオランダが参戦し,戦禍は拡大します。

フランス軍は撤退の際,ハイデルベルク城,マンハイム要塞をはじめとして,プファルツとヴュルテンベルク地域の都市や城を計画的に破壊し,焦土と化していきました

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フランス軍のこれら一連の破壊活動は,反仏世論を高め,反仏同盟を強固なものにします。

名誉革命

フランスがドイツとの戦いに集中している間,オランダは手薄になりました。

その頃イギリスでは,国王となったジェームス二世はカトリック教徒であり,プロテスタントを罷免する動きがありました。議会はプロテスタントが主流です。

そのため議会はジェームスの長女メアリーがオランダ提督ウィレム三世に嫁いでいた関係から,ウィレム三世をイギリスに呼んでクーデターを起こし,ジェームス二世を追放しました。ジェームス二世はフランスに亡命します。ウィレムはイギリスではウィリアム三世になります。

オランダとイギリスの連合軍が形成され,フランスの侵攻に対抗することになります。

ジェームスはフランス軍の協力を得て,スコットランドとアイルランドで反乱を起こしますが,ウォレムはこれを鎮圧します。

イギリスも,プファルツ継承戦争へと巻き込まれることになります

大同盟

1689年,ルイ14世に対する同盟が強まりました。ウィレム三世が中心となってアウグスブルク同盟が結成されます。同盟の当初の目的は,フランス軍を帝国領から追い返すことでした。神聖ローマ帝国他,ブランデンブルク選帝侯,ザクセン選帝侯,バイエルン選帝侯,ハノーファー公国が加わります。

多くの国が参加することで戦争の目的も増加します。オランダはフランスと貿易をめぐる争いをしていました。戦争は更に植民地へと拡大していきました。

神聖ローマ帝国,スウェーデン,イギリス,オランダ,スペインによる同盟で,フランスと対決しています。

この同盟はスペイン継承戦争まで維持されます。

兵力

同盟軍の兵力40万に対し,フランス軍は26万です。

同盟軍有利に見えますが,同盟軍は東でオスマン帝国と戦っており,すべての戦力を対フランスに用いることはできません。

フランス軍は一国の軍隊で指揮官の下で団結していますが,同盟軍はバラバラです。フランス軍は当時最強の軍隊と言われていました。

ヨーロッパ本土での戦い

フランス軍はドイツ,オランダの他にイタリアとスペインにも進軍しています。

ドイツ

1689年,同盟側はブランデンブルク選帝侯フリードリッヒ三世の下に15万の兵士を集め,ラインラントに向かいます。フランス軍が占拠したドイツの都市を守るフランス軍は6万。同盟軍はノイス,カイザースヴェルト,ボンとライン川右岸の都市を次々に奪い返していき,フランス軍は一旦はドイツの戦場から撤退します。

言うまでもないことですが,戦場となった都市は荒廃してしまいます。

1692年,フランス軍はライン川上流北側を進軍し,1693年にハイデルベルクを包囲します。ハイデルベルクの都市で大虐殺をし,火を放ち,城も破壊され,ハイデルベルクは灰となりました。フランス軍はトルコ軍より質が悪いと言われています。

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バーデン選帝侯はヴュルテンベルクへのフランス軍の侵攻を拒むことに成功し,1697年にフィリップスブルクを取り返します。

1697年にはフランクフルト協会,フランク,シュヴァーベンで同盟が結ばれ,この同盟は後にウィーン同盟に統合されます。

オランダ

スペイン領オランダも主要戦場となりました。

ウィレム三世がイギリスにいる間,ゲオルグ・フリードリッヒ・フォン・ヴァルデック=アイゼンベルクが最高司令官となりました。

1690年にフルーラスの戦いでフランス軍に敗れると,ブリュッセルに退却し,ドイツ軍とスペイン軍の援軍により体勢を立て直します。

1691年にフランス軍が4万6千の兵士でモンスを包囲し,占拠します。ウィレム三世はアイルランドを制圧してオランダに戻ってきましたが,モンスを取り戻すほどではありませんでした。モンスを占拠した後はブリュッセル方面へと進軍し,リエージュを破壊します。

1692年,フランス軍は5~6万の兵士でナミュールを包囲します。バイエルン公が同盟軍を指揮しましたがフランス軍を撤退させることはできず,ナミュールは陥落します。ここで一旦ルイ14世はヴェルサイユに戻ります。

1693年,主軍を強化したルイ14世は再び進軍します。その数8万。それに対する同盟軍は5万です。フランスが勝利します。この戦いでの損害は大きく,2万人以上のフランス軍兵士が死に,同盟軍はほとんどすべての大砲と旗を失います。

1695年,フランス軍はブリュッセルを爆破します。その後同盟軍はナミュールを奪還します。

1696年,長引く戦いにイギリス軍,フランス軍は財政的に厳しくなり,フランスでは平和を望む声が高まります。和平が望まれるようになりました。

海戦および植民地

イギリス海軍は名誉革命に伴ってジェームス側の海軍士官は解雇され,ウィリアム三世の指揮下となりました。

1689年にフランスの支援を受けたジェームス二世がアイルランドに上陸するところから,本格的に海戦が始まります。その時,イギリス艦隊は沿岸をそれほど警備していなかったので,フランス軍の上陸を許しています。

1690年にイギリス・オランダ同盟軍は地中海に海軍を送り,地中海のフランス艦隊を迎撃します。

当初はフランス軍の作戦が功を奏し,フランス軍が勝利します。

海戦では,海賊が大きな役割を果たしています。海賊が相手側の商船を襲撃したり,艦隊が海賊から商船を保護したり……。貿易を妨害し合います。西インド諸島,北米で小競り合いが続きます。

海戦はフランス経済を弱体化させました。

ライスワイク条約(Frieden von Rijswijk)

フランスは戦争により債務が膨れ上がり,経済的には事実上破綻をきたしました。不作により飢饉が発生して死亡率が2倍となり,貿易も不振となり,貴族と市民階級が批判を始めます。

経済状況の悪化により,フランスは和平を申し出ることになりました。

1697年,スウェーデンの調停によってライスワイク条約が結ばれ,フランスの敗北となって戦争が終結します。フランスはロレーヌ地方を失います。

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