ヴィンプフェン城(Pfalz Wimpfen)の歴史と見どころを紹介!-都市に取り込まれた帝国城砦

皇城ヴィンプフェン(Kaiserpfalz Winpfen)

古城街道のバード・ヴィンプフェン(Bad Wimpfen)にあるヴィンプフェン城は、シュタウフェン朝時代のカイザープファルツで、帝国城砦の一つ。

城の立地山城
城の種類ブルク
城主の階級神聖ローマ皇帝→ヴォルムス司教→ヴァインスベルク卿→都市ヴィンプフェン
最初の城の設立年1160~1170年頃

バード・ヴィンプフェンはバード(Bad:風呂)が付いていることから分かるように、温泉保養地で、ドイツで最もシルエットの美しい街と言われています。

近代的な温泉治療・リハビリセンターのある人気のある温泉地だよ。

温泉地と言っても、日本の温泉地とはぜんぜん違うからね。

コッヒャー(Kocher)川とヤグスト(Jagst)川がネッカー(Necker)川に合流する場所で、肥沃な田園地帯であり、交通の要所。

ネッカー川を見下ろす山の支脈に、古い町並みと城がそびえ立っています。

ヴィンプフェンのカイザープファルツ(Kaiserpfalz:皇城)は、ドイツ最大のシュタウフェン朝のプファルツで、バーデン・ヴュルテンベルク州にある唯一の帝国城砦です。

城は帝国自由都市ヴィンプフェンに組み込まれてしまっていますが、シュタウフェン朝のプファルツの中で特に完成度の高いもので、景観的にもひじょうに魅力的な場所。

プファルツ(Pfalz)とは何か

ドイツ語の「Pfalz」はラテン語の「palatium」を語源とします。現在、パレスといえば立派な邸宅のことを意味しますが、中世時代は支配者の所在地のことを指していました。

プファルツはカロリング朝時代に成って重要性を増し、要塞としても発展しています。

目次

ヴィンプフェン城の構成と見どころ

カーザ―プファルツ・ヴィンプフェンの間取り図
カーザ―プファルツ・ヴィンプフェンの間取り図
peter schmelzle, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

灰色の線は失われてしまった壁ですが、黒い線は現在も残っているシュタウフェン時代の壁です。

  • 赤い塔(Rote Turm)
  • 青い塔(Blaue Turm)
  • 石の家(Steinhaus)
  • 礼拝堂(Pfalzkapelle)
  • シュヴィプボーゲン門(Schwibbogentor):別名ホーエンシュタウフェン門(Hohenstaufentor)

だけが残され、それ以外は都市ヴィンプフェンのブルクフィアテル(Burgviertel)地区として取り込まれ、姿を消しています。

プファルツのどこかに存在していたとされる食料庫やブルクマンハウスは、残念ながら完全に消滅してしまっています。

シュビボーゲン門(Schwibbogentor)

シュビボーゲン門

プファルツの南の入口。ロマネスク時代には珍しいセブメント・アーチ型の門。

当初の通路は現在の通路面よりも約2.60mの高さのところにあり、その後通路を低くしたと考えられています。

塔には牢獄と衛兵室があります。

門塔はシュタウフェン時代はまだ一般的なものではなく、ひじょうに珍しい存在です。

パラス(Palas)

ヴィンプフェン城のパラスアーケード

パラスのアーケード

パラスは一部の壁が都市囲壁として取り込まれ、それ以外は取り壊されてしまいました。

アーケードが残る部分が目印です。

ここに大広間があったのではないかと推測されています。

発掘調査から、ヴァルトブルク城ゲルンハウゼン城ににられるような回廊があったことがわかっています。

失われた大広間

13世以降、プファルツの機能が失われ、早期に荒廃してしまいました。残念なことに、ドイツのプファルツにはオリジナルの大広間は一つも残っていません。

赤い塔

赤い塔(Roteturm)
赤い塔(Roteturm)
peter schmelzle, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

街道を見下ろし、ネッカー川を行き来する船を見下ろし、かつて交通を監視していた塔。

ベルクフリートは本来敵の攻撃を受ける側に建てるのが一般出来だけど、なぜか一番安全な場所に立っているんだよね。

どうしてなのか。

3階には、ベルクフリートとしては珍しい調度品が置かれた部屋がありました。

  • 食器棚にもなる壁のニッチ
  • 美しい暖炉の柱

があり、そして赤い塔の壁は

  • 背丸角石の素材が変化
  • 形状が変化

しています。以上のことから赤い塔は、

プファルツが攻撃された時、王や皇帝が緊急避難する場所

だったのではないかと考えられています。

背丸角石(Buckelquader)

シュタウフェン朝時代、表面に出ている面がボコッとなっている方形の石が大流行しました。この時代特有なので、シュタウフェンの壁とも呼ばれます。

表面は、きれいに整えられていることもあれば、粗削りのままのこともあります。

環状城壁と同様、この時代のものはこのような石が用いられていることが多いので、すぐに時代が分かります。

このような角石は高度な石工技術が必要とされ、技術が大いに飛躍しました。

青い塔

青い塔(Blaue Turm)
Baden de, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons

最も高い場所にある市庁舎近くに立ち、60m近くの高さにあるシンボルタワー。コーナータレットが印象的で、街全体を見下ろすように立ち、「都市の塔」の象徴的な存在。

「青い塔」の名称は16世紀頃から使われるようになり、スレート屋根に由来しています。

この塔は街の景観を象徴しているね。

一片10m強の正方形のベルクフリートで、壁の厚さが3mあります。

赤い塔とは異なり柔らかい石灰岩が使われていたため、劣化が激しく何度も修復されてきたため、背丸角石は見分けがつかないほどになっています。

1674年、火災により屋根を消失しましたが、その後の改修でコーナータレットのあるバロック様式の上層階が立てられ、再び塔監視員の居住空間として使用されるようになりました。

石の家

石の家(Steinhaus)
石の家(Steinhaus)
Tilman2007, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

14世紀前半に再建された跡があり、1566年以降は穀物庫と公文書館として使用されていました。

段差のある特徴的な破風は、1566年に穀物庫に改装された際に作られたものです。

残念なことに、内部は何度も改築され、いろいろな用途に使われてきたから、もともとの部屋のレイアウトや部屋の用途がわからなくなっているんだよね。

二重窓はロマネスク様式。もともとは1階と2階しかなかったことを示しています。

上層階の窓はその後の改築によるものです。

窓や暖炉の跡から、当初から居住用の建物であったことは分かりますが、どのような人物が住んでいたのかはわかっていません。立地条件から、おそらく高位の人物であったと考えられています。

石の家妻側

石の家の妻側

7連窓は1949年に修復されたときのもの。

小窓たちは倉庫として使用されていた時の名残。

現在は歴史博物館として使用されています。

プファルツ礼拝堂

ヴィンプフェン城の礼拝堂
ヴィンプフェン城の礼拝堂

パラスに隣接する礼拝堂は、有力貴族の個人の城に特徴的なものです。

大広間と礼拝堂が連結していることにより、公の場で直接支配者が行き来できるようになっていました。

王の地位が「神の恩恵による」ものであることを示すものでもあったんだよ。

皇帝ルートヴィッヒ・デア・バイヤー(Ludwig der Bayer)時代に、礼拝堂が市に提供されました。

1564/68年に修復され、1631年まで武器庫として使用されていました。

礼拝堂に武器って、いまいち結びつかない!

その後、厩舎や納屋のある住宅に改造され、大規模な破壊まで受けました。

1908~11年にかけて巧みに修復され、現在は教会歴史博物館として公開されています。

古城街道には、他にもオススメな城がたくさんあるよ

ヴィンプフェン城の歴史

バード・ヴィンプフェン(Bad Wimpfen)
バード・ヴィンプフェン(Bad Wimpfen)

シュタウフェン朝以前の時代から、すでにこの地に集落が存在していました。

ケルト時代(紀元前500年頃)からローマ時代、アレマン時代、カロリング朝時代、そしてシュタウフェン朝時代まで、様々なものが発掘により発見されています。

また、シュタウフェン朝時代よりも前に環状囲壁があった可能性も示唆されています。

シュタウフェン朝時代-プファルツの発展

プファルツがある場所は、もともとヴォルムス司教領でした。

1182年

皇帝フリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa)がここに滞在していたことが証明されています。

でもね、文献には「プファルツ」も「城」も登場していないんだ。

樹木年代測定法による科学的アプローチと、建築様式による美術史的アプローチにより、城の建設は1160年から1170年の間とされています。

皇帝ハインリッヒ六世(治世:1190-97年)

ヴィンプフェンに4回滞在したことが明らかになっています。

フリードリッヒ一世もハインリッヒ六世もヴィンプフェンには頻繁に滞在していた可能性がありますが、旅の途中で訪れる一時滞在場所であったと考えられています。

巡幸王権

中世の王や皇帝は、一カ所に留まって生活することはできませんでした。

フランク王国時代から中世後期まで、国を統治するための恒久的な政治の中心地である首都を持たず、多くの側近を従えて国内を転々と移動しながら支配する形態が、ドイツのみならず他のヨーロッパ諸国でも一般的でした。

政治に中心地というより、旅の拠点ね。

ハインリッヒ(七世)

父である皇帝との衝突が絶えず、1235年に父から罷免されたときも含めて3回訪れています。

この時、山の上の集落が都市になりました。集落の住民に「Bürgern(市民)」の名を与え、都市の近くの森を与えました。

プファルツの衰退

シュタウフェン家の滅亡とその後の大空位時代を経て、プファルツはその重要性を失っていくよ。

最後のシュタウフェン朝の国王コンラート四世(Konrad IV.)が亡くなると、ヴォルムス司教が昔の権利を回復します。

この時、1254/55年に初めて「城(Burg)」の名が登場します。

14世紀

ルドルフ・フォン・ハプスブルク(Rudolf von Habsburg)やルートヴィッヒ・デア・バイヤー(Ludwig der Bayer)はまだヴィンプフェンを訪れた記録がありますが、プファルツは重要性を失っていました。

1336年

ヴォルムスから領地と抵当権を得ていたヴァインスベルク(Weinsberg)の領主がプファルツを都市ヴィンプフェンに売却します。

都市は帝国自由都市となります。

都市に売却されたことにより、

  • 赤い塔
  • 青い塔
  • 石の家

だけは残されましたが、

  • 堀は埋め立てられ
  • 環状囲壁は都市囲壁とならない限りは取り壊され(1/3が取り壊された)
  • パラスの北側の壁だけが残り窓はレンガで覆われ
  • 南西のベルクフリートは取り壊され

ました。ロマネスク様式の環状囲壁は大部分が改築されてしまっています。

帝国城砦には、他にもたくさんの城があるよ。

ヴィンプフェン城へのアクセス

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