マルクスブルク城は、ライン川沿いの城の中で一度も廃墟になることなく、近世のロマン主義による改築もされず、中世の姿を今に留める城です。
ライン川沿いの城のほとんどは、三十年戦争やプファルツ継承戦争といった戦争で、少なからず被害を受けていますが、マルクスブルク城は、そのような被害を受けていません。
ということは、他のライン川沿いの城はことごとく破壊されているの?
現在は再建されていても、何かしら破壊を受けている城がほとんどだよ。その中で破壊を免れているマルクスブルク城はそれだけ貴重なんだよ。
近世になって、増築や改築もありましたが、それでもなお基本的に中世の城の姿を留めている唯一の城と言っても過言はないでしょう。
2002年、ユネスコ世界遺産『ライン中流渓谷上部』に登録されています。
ドイツ城郭協会(Deutschen Burgenvereinigung)の本部が置かれており、マルクスブルク城だけでなく他の城も同様に、歴史を研究し、修繕計画を立てて実行し、記録する活動が日々行われています。
マルクスブルク城の構成と見どころ
マルクスブルク城は、門と環状囲壁のある外郭を持っていたのかどうかは不明です。
14世紀の甲冑が展示されており、たいへん見ごたえがあります。
城門
マルクスブルク城には、城門が4つあり、全てを通らなければ城内に入ることはできません。なかなかの関門の数です。
跳ね橋門(Zugbrückentor)
最初にくぐる門が跳ね橋門です。
門前堀の上に木橋が架かっています。
跳ね橋という名前がついていますが、跳ね橋がかかっていた形跡が見当たりません。あったのかもしれませんが…。
狐門(Fuchstor)
シャルフェン門(Scharfentor)
ガイドツアーのスタート地点になっているので、人が集まっています。
この門はブルクフォークト塔にあります。ブルクフォークトとあるので、かつてはここにフォークト(Vogt:代官)の部屋があったのかもしれません。
大砲台(Große Batterie)と小砲台(Kleine Batterie)
外観写真からは、左側の一段低くなった建物が大砲台で、ライン川に向けて砲台が設置されています。
これは目を引きます。
内郭(Kernburg)
三角形の後期ロマネスク様式の内郭は、内側のツヴィンガー壁を備えた環状囲壁で囲まれていました。三角形になっているのは、シュタウフェン時代の特徴です。
内部はガイドツアーに参加することで見学可能だよ。
ベルクフリート(Bergfried)
ベルクフリートは、岩山の一番高いところに立ち、高さ39mで、6×6mです。この大きさは、ラインの城としては細身。
下部構造は12世紀のロマネスク様式ですが、全体構造は14世紀のもので、ゴシック様式。
硬砂岩とスレートの石材で作られており、表面には漆喰が塗られており、白い塔になっています。
1705年に上部の円形の塔は撤去されていましたが、1904-1905年に再建されました。
高い位置にあるベルクフリートの入り口は、当初は梯子のみでしか入れませんでしたが、現在はライン館の屋根裏から木橋で入れるようになっています。
最下部は高さ7mの地下牢。地下牢なのに、なぜか脱出通路が発見されています。
脱出通路がある地下牢なんて、意味ないじゃん!
パラス(Palas)
内郭の北側にある建物で、石組みは基本的に後期ロマネスク時代のものです。初期のパラスは13世紀第1四半期に建てられ、2階建てでした。
マルクスブルク城の写真では、隠れていて見えません。
ホール館(Saalbau)
ゴシック様式のホール館は、カッツエンエルンボーゲン(Katzenelnbogen)伯爵の時代に、後期ロマネスク様式の防御壁の代わりに1434~1435年頃に建てられました。外壁は盾壁のように強化されています。写真の反対側になるので見えません。
1階と2階は大広間があり、祭礼室や会議室として使われ居住空間ではありませんでした。
騎士の間(Rittersaal)
広くて高い室内は贅沢品。広間を温める暖炉も重要な存在でした。
台所
騎士の間の下階にある台所。1974年に14世紀当時の大きさに復元されたものです。必要に応じて、イベントで使用されることがあるようです。
礼拝堂塔(Kapellenturm)
攻撃を受ける南の端に位置し、写真では右側に見える太い角塔が礼拝塔で4階建て。下部はロマネスク様式ですが、上部はゴシック様式です。
攻撃を受ける側の塔に礼拝堂が設置されているのは、シュタウフェン時代の城郭時代の典型。
神様が城を守ってくださると考えていたのかな?
内部の礼拝堂は、リブヴォールトに支えられた美しい多角形の部屋となっています。
ヴォールトは1500年頃に新しくされたと考えられており、東側の聖マルクースを描いたヴォールトの絵は、1903年に製作された新しいものです。
ライン館(Rheinbau)
1705年の火災を受けて、1706年から78年にかけてたてられた2階建ての住宅です。写真正面に見える白い建物がライン館です。
元々は、パン焼き部屋、オーブン、井戸があり、地下には貯水槽がありました。貯水槽は防火用水として使用されています。
1階がドイツ城郭協会の事務所、上階は理事長他、協会スタッフたちの居住区があります。
ハーブ園
マルクスブルク城のツヴィンガーエリアにあるハーブ園では、約170種類の観賞用および有用植物が栽培されています。いわゆる家庭菜園。
実際、中世の文献でも城の中庭や畑で栽培されていたことが報告されており、マルクスブルクでは65種類が栽培されていた記録があります。
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マルクスブルク城の歴史
紀元前5世紀から1世紀
城があったかどうかはわかりませんが、ラ・テーヌ時代の出土品が数多く見つかっています。銀、銅、鉄、鉛が採掘されていたと考えられています。
しかし、紀元前1世紀のゲルマン人の襲来により、この集落は破壊されます。
エプシュタイン(Eppstein)伯爵家時代
12世紀に「ブラウバッハ(Braubach)」という貴族家系があったことが確認されており、1117年以前に城が建設されていた可能性が高いと考えられています。ブラウバッハの領主がエプシュタインを名乗り始めたのは1180年から1190年頃と考えられています。
1135年、グリューニンゲン(Grüningen)伯爵がブラウバッハ村の大部分をマインツ大司教に寄贈しました。当時のマインツ大司教はエプシュタイン家の出身であったことから、村と城はエプシュタイン伯爵家の所有となりました。
ライン川を通る船舶から徴収する通行税は、重要な収入源でした。
エプシュタイン家は、当時ライン地方で最も有力な家系の一つでした。ブラウバッハに都市権を与えたことで、エプシュタイン家の支配はさらに強化されました。
13世紀には、マインツ大司教を4人も輩出しています。
この時代に、城の基本的なレイアウトが決定しました。
内郭、旧パラス、礼拝堂塔はエプシュタイン時代に建てられたもので、後期ロマネスク様式です。
カッツエンエルンボーゲン伯爵家時代
カッツエンエルンボーゲン伯爵がエプシュタイン伯爵の娘と結婚していたことから、1283年にカッツエンエルンボーゲン伯爵がこの城を手に入れました。カッツエンエルンボーゲン伯爵家は、1479年まで所有していました。
14世紀後半に大規模な建築活動が行われ、ホール館、ベルクフリート、礼拝堂塔、ツヴィンガーなど、現在のゴシック様式の城の外郭と外観の基本形がこの時代にできました。
1437年に聖マルクース礼拝堂のことが言及され、1571年から城全体の名前になりました。これ以前に礼拝堂が存在していたと考えられています。それ以前はブラウバッハ城と呼ばれていました。
買収によって勢力を拡大し、1442年の帝国台帳では、帝国の伯爵家の中では第3位に位置づけられています。14世紀、ネコ城(Burg Katz:正式名称Burd Neu-Katzenelnbogen)をはじめとするライン川とその周辺地域に多くの城を建設しました。
狭間胸壁は、カッツエンエルンボーゲン家の城の特徴です。
ヘッセン方伯時代
カッツエンエルンボーゲン家が途絶えると、血縁関係から伯爵料領ヘッセン方伯領となりました。
フィリップ寛大候(Philipps des Großmütigen)
1527年、宗教改革の導入に伴い、聖マルクース礼拝堂が世俗化され、その収益はブラウバッハ市民のための奨学金に当てられました。
また、シュマルカルデン戦争では、カール5世の軍隊から守るための防衛策がとられましたが、深刻な被害を受けることはありませんでした。
方伯家の3つの分家
フィリップ寛大候が亡くなると、ヘッセン方伯料は、マールブルク、ダルムシュタット、ラインフェルス系に分割されました。ブラウバッハとマルクスブルク城は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家に相続されました。
カッセルとダルムシュタット間で紛争があり、1608年頃、モーリッツ・フォン・カッセル(Moritz von Kassel)方伯がヴィルヘルム・ディリッヒ(Wilhelm Dilich)に、マルクスブルクだけでなくライン川沿いの城について建築記録を作成させました。
1623年のウィーン会議により、カッツエンエルンボーゲン郡の領有権は1803年までヘッセン=ダルムシュタットに維持されました。
三十年戦争では敵の軍隊がすぐそこにまで迫り、スウェーデン軍から逃れてきた農民たちが城に避難したよ。
戦争だけでなく、洪水やペストの流行もあって、大変な時代だったみたいね。
火器の発達にともない、稜堡のシャルフェ・エック(Scharfe Eck)とプルヴァー・エック(Pulver Eck)が建設されました。
続くプファルツ継承戦争でも、フランス軍がラーンまで迫ってきていて、再び危機的な状況に陥ったけど、それでも被害を受けずにすんだよ。
1705年、火災による被害をうけました。
ナッサウ公国時代
ブラウバッハは1803年にナッサウ=ウジンゲン(Nassau-Usingen)に譲渡され、1805年にはナッサウ公国の一部となりました。
マルクスブルク城は、障害者の家、および州刑務所として使用されいました。
プロイセン時代
1866年、ナッサウとマルクスブルク城はプロイセンの一部となりました。
城は荒れ果てていましたが、1868年に国王の目に止まります。
建築家であり城郭研究者でもあったボード・エープハルト教授(1865-1945)の手動により、ドイツ城郭保存協会(Vereinigung zur Erhaltung deutscher Burgen)がベルリンで設立され、皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II.)からマルクスブルク城が1,000マルクで譲渡され、協会の所有となりました。
ドイツ城郭保存協会は、1954年にドイツ城郭協会となり、マルクスブルク城は協会に譲渡されました。城の保存状態は良かったものの、放置されていたため、修繕作業が必要でした。
エープハルト教授は事務局をベルリンからマルクスブルク城に移し、家族とともにマルクスブルク城に移り住みました。
エープハルト教授のもと、1608年のディリッヒの図面に基づいて城を修復し、部分的に再構築していきます。
第二次世界大戦による破壊と戦後復興
アメリカ軍の砲撃により、ベルクフリートの一部、ライン館、大砲台、小砲台、ほぼすべての屋根が破壊されるなど、大きな被害を受けました。
ボード・エープハルトの息子、フリッツ・エープハルト一家が個人的犠牲を払って早急に瓦礫が撤去され、臨時の屋根が設けられるなど、応急処置が行われました。その後、30年の歳月をかけて段階的に再建。
城郭の科学的・歴史的研究、修復と保全維持の実行のために、国や自治体と連携。科学的・歴史的研究、修復と保全維持、民間モニュメントの所有権について、会員の多数の専門家からなる諮問委員会と作業部会が活動を行っています。
ドイツ語圏の城に関する資料、図面や写真を収集し、保全に役立てています。
マルクスブルク城の公式サイト
マルクスブルク城へのアクセス
西はライン川、東と北はミュール川(Mühlbach)とグローセル川(Großbach)に囲まれた好立地にあります。
B29を車で走れば城への道を示す看板が現れるから、看板の指示に従っていけば城にいけるよ。
城へ行く途中に駐車場があるよ。駐車場から城までは階段を登っていくんだけど、徒歩で5分~10分ぐらいかな。
聖マルティン礼拝堂近くに、「聖マルティンの道」という急峻な坂道を登っていく道があるよ。麓から歩いて登ってみたいというガッツのある方は、挑戦してみても良いかも。
夏にはブラウバッハ駅から城までの直通バスが30分おきに出ています。
宮古島のうえのドイツ文化村には、マルクスブルク城が再現されているよ
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