ラテン語で表現すると,lantgravius または comes terrae と言います。
侯爵の称号で,単なる伯爵の称号よりは上です。
遅くとも中世後期以降の神聖ローマ帝国では,方伯,辺境伯,および一部の宮中伯は帝国君主の一員であり,事実上,公爵として扱われるようになりました。
12世紀初頭,主に帝国南西部(アルザス,トゥールガウ,アールガウ,ブライスガウ地域など)で,帝国資産を管理する職に就いていた伯爵についた称号です。方伯に昇格しても,帝国侯爵の地位に昇格することは稀でした。
当初,方伯は国王あるいは皇帝の役人で,元々は帝国内に配置され,ドイツ国王から与えられた封土で上位の司法権を持っていました。
方伯は同時に,旧伯爵権で著しく細分化されていた地域において,すべての自由民と貴族の上の司法身分として初期地方泊の子孫が就いていました。
これまでの部族公爵の全方位的権力を弱め,帝国の公認なしに伯爵の企てを阻止するために方伯位は政治的に作られたものであり,第一に国王の司法権を管轄下におきました。
それにより古い王権を守ることになりました。
方伯位の所有者はたいてい他の伯爵権を有していました。これは,方伯としての権利よりも個人的に重要であり,方伯位はたいてい他の爵位の後に記載されていました。
方伯という言葉は,都市管理を任された城伯(Burggraf)と区別するためにも使用されました。
ヘッセン方伯とチューリンゲン方伯
ヘッセン方伯家とチューリンゲン方伯家は例外的な存在です。
これらの国では方伯位はルードヴィング家(Ludwing)に与えられ,そこでは重要な伯爵領権や荘園領権並びに他のレガリアを定めました。
これにより,最終的に方伯領の領域でいわば公爵権を行使し,帝国侯爵に任命されるまで,方伯権の司法権を他の自由民および貴族に対し本来の資産以外の領土権を強化するために使用することができます。
他のすべての方伯領はそれほど重要ではなく,方伯領に基づいているだけではなく,他の伯爵権に極めて基づいて帝国侯爵位を所有しています。
中世最盛期で最も重要なのはチューリンゲンの方伯です。
その方伯の称号は、テューリンゲンからヘッセン家へと聖エリザベートの子孫を通じて隣のテューリンゲンから移り,一方,チューリンゲンの方伯の称号自体はヴェッティナー公爵家の君主就任後、ザクセン公爵家により兼任されました。
1292年,皇帝により新しく設立されたヘッセン方伯は帝国侯爵として認可されました。
ヘッセン家のブラバント系は19世紀まで方伯位を保持していました。
ヘッセン・カッセル方伯は,1803年,ドイツ帝国代表者会議主要決議で議決後,神聖ローマ帝国の皇帝によって選帝侯の位を与えられました。
一時的にダルムシュタットに後退したヘッセン・ホンブルク(Hessen-Honburg)方伯は、1817年にドイツ連邦の主権国家として復活しました。
1866年に方伯が子どもを残さずに亡くなり,ヘッセン・ホンブルク方伯領は最終的にヘッセン大公国(ダルムシュタット)に戻りました。
同じ年に、プロイセン・オーストリア戦争の結果として,ヘッセン選帝侯領はプロイセンに併合され,ヘッセン・ホンブルク領もプロイセン王国に陥落しました。
ヘッセン家では1920年以降選帝侯並びに大公の称号を失いましたが,今現在,王子やヘッセン方伯の名前が再び使用されています。
当主だけがヘッセン方伯として公の場に登場し,他の家族すべて自分をヘッセン王子または王女として公の場では呼ばれています。