ドイツの古城(ブルク)の変遷

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中世以前

ブルクの起源を探し出すのは難しいのですが,先史時代にはすでに砦らしきものが建設されていたようで,谷,岩山,川,湖等,守り易いところに建設はされていたようです。その際,自然の地形は可能な限り活用していました。

狭い出入り口だけを設け,それ以外の部分は木柵又は石塁で囲ったものです。普段は使用しませんが,有事の際,家畜と共に逃げ込める避難ブルク(Fluchtburg)といわれるものです。

この程度の防御施設でも,襲ってくる敵に対してかなりの効果を発揮したと考えられています。

このころのブルクはヒューゲルブルク(Hügelburg)の形態を取ります。英語で言うところのヒル・フォートです,多分。

この頃のブルクに起源を持つ城の代表として,ヴュルツブルク(Würzburg)のマリエンベルク要塞(Festung Marienberg)があります。この要塞の始めは,ケルト人の砦だったといわれています。(外観に当時の面影はありませんけどね)

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ローマ時代

ローマ帝国はゲルマニアとの国境に土塁と木柵からなる国境城壁(Limes:Deutsche-Limesstraßeというのがありますが,その名残でしょうか?)を建築しました。

要所要所に見張塔(Wachturm)と城塞(Kastell)を設けます。そして軍隊(Legion)を常駐させていました。

ローマ軍の砦は四角形をしており,始めは一重の堀と土塁,木柵から成っていましたが,次第に石の城壁と幾重もの堀を備えるものへと発展していきました。

兵舎,馬屋,倉庫もすべて石造りになっていきました。石の城壁は,厚さ4m,高さ4~8mであり,四隅に見張塔が設けられました。

このローマ軍の砦(ラテン語でcastellum parvulum)は英語の“castle”,仏語の“chatâau”,伊語の“castello”の語源となっています。

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避難ブルクが城の起源とする説も在れば,ローマの城塞が城の起源だとする説(これは主にイギリスの城)もあります。ドイツの城はローマの見張塔が起源だとする説があるので,見張塔も紹介します。

ローマの見張り塔

ローマの城塞は重要な要所に設けられましたが,国境城壁のそれ以外の所は見張塔が設けられました。見張塔は,塔の周りに木の杭を密に打ち込んで囲み,その外側を水掘りで囲みました。塔の底面は7×7から14×14で,高さは15mから25mあり数階建てです。

1階には出入り口も窓も設けず,管理人の為の備蓄に使われていました。上層階にはバルコニーのような張り出し歩廊が設けられ,塔を1周して全ての方角が見渡せるようになっていました。

中世初期-最初のブルク

モット

最初のブルクは木製であり,モット(Motte)というものです。一般的にMotteと言われるていますが,ドイツ語で表現すれば,トゥルムヒューゲルブルク 〟Trumhügelburg〝(塔丘城?)と言います。

人工的に盛り上げた丘の上に2~3階の塔を設け,周りを木柵で囲みました。モットの麓には防御された村であるフォアブルク(Vorburg:仏語でベイリー)が設けられ,同じく木柵で守られていました。

時にはモットもフォアブルクも周りを水掘りで囲み,更に防御を固めていました。

「モット アンド ベイリー」と呼ばれる形態です。

900年頃,フランク王国は北からのヴァイキング(Wiking)襲来だけでなく,南からはサラセン人,東からはハンガリー人の攻撃を受けていました。

923年,ドイツ国王ハインリッヒ一世(Heinrich I:在位929-936)は諸侯にモットを造る許可を与えました。それと同時にそれらに対抗しうる騎兵も準備させました。これが騎士の起こりです。

そして各地の封建領主達,特に国境付近に住む封建領主はモットを造り,これらの襲来に対して自らを守るしか方法はありませんでした。

この時,数千ものモットが建てられました。これが,ドイツにおびただしい数の城が存在することになる要因の一つとなります。

それまでは,ブルク建設の許可が下りるまで,臣下ものもたちはブルクを築く事はできませんでした。ブルクを造る権利は王権に属し,臣下がブルクを築けば反乱の拠点ともなり得るので造らせなかったのです。

しかしヴァイキングやハンガリー人の襲来という事態から,臣下にブルクを造る事を許可せざるをえませんでした。国王の力の弱さを示しているともいえます。

後に続く騎士ブルク(Ritterburg)の起源をこのときのモットに見ることができます。

これらのモット弱点は,木製であることです。破壊槌や投石器に対して弱く,火に弱いのが致命的です。その為,始めは城壁の一部,後にはすべても石製になっていきました。

現存するモットはほとんどありません。モットは次第に水城へと進化していきました。それゆえ水城の登場は山城より早いとされています。

山城が登場するようになったのは水城よりもやや遅れ11~12世紀,山頂や山の突端部に立てられるようになりました。

初期のマールブルク城
初期のマールブルク城

上の写真は11世紀頃のマールブルク城の想像模型です。まだ塔のみで環状城壁は無いものの,塔への出入り口は高い位置にあり,周りに軽く掘りが掘られていることが,お分かりいただけますでしょうか。中世最盛期の12世紀には,この城も周りに環状城壁が建ち,城らしい形になってきます。

中世中期-十字軍の影響

中世最盛期,ドイツは国王の二重選挙が行われるなど,諸侯の対立が激しくなりました。それゆえ第二期ブルクブームが起こります。現存する城砦の基礎はこの時期にほぼ出揃うことになります。

十字軍が派遣された時代,十字軍士たちは中東より進んだ築城技術を学んできました。この時代,城の防御機能は飛躍的に良くなります。

シュタウフェン朝はフリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa)の時代です。赤髭王は帝国直属ミニステリアーレ(Ministeriale)を組織し,帝国城砦(Reichsburg)を造らせ配置しました。

この時に建てられた城は石造りの環状城壁を持ち,たいていは四角形の塔を持ちます。地域によっては四角い塔よりも丸い塔の方が多い所もあります。

塔と城壁だけの簡単なつくりでしたが,当時の兵器では手も足も出なかったようです。

中世以降‐衰退と復興

ブルクの衰退

銃器や大砲といった火器の登場により,ブルクの時代は終焉を迎えます。

どんなに城壁を分厚くしても,砲弾に耐えることはできませんでした。

ルネッサンス時代の領主や王たちは,住居として壮大なシュロス(Schloss)を建設するようになり,ブルクは荒廃していきました。住居と要塞は同居することがなくなり,シュロスと要塞(Festung)へと機能分化するようになります。

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16世紀初頭の農民戦争では,ブルクは圧政の象徴として,その殆どが破壊されてしまいました。

ブルクを住居として維持することができた貴族は,ごく少数に過ぎません。

19世紀のロマン主義による復興運動

19世紀になると,ロマン主義が流行します。

新興の裕福な市民層の中には,荒廃した城を買い取って修復し,自らを「貴族に列する」かのような振る舞いをするものが現れてきました。

裕福な市民層から城の復興を行うものが現れると同時に,中世の騎士物語や英雄譚が再発見され,オペラや演劇,文学作品の素材となりました。

ワーグナーの『タンホイザー』がその代表的な例でしょう。

現在の保全活動

城の個人所有者の殆どは,たとえ裕福であっても自分で管理していくことは難しいため,国や州から補助金を受けています。

ブルクの大部分は,国または州の所有となっています。

ブルクの維持にはひじょうに費用がかかるため少しでもその費用を回収しようと,ブルクを魅力的な観光スポットにしようとする試みが,各地で行われています。

多くのブルクは,現在一般開放されています。

博物館やレストラン,集会所などに使用されています。

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