城(ブルク)はどのような過程を経て建設されたのか

初期の頃は木造の城でしたが、火矢の攻撃に脆弱であったために、次第に石造りの城へと変わりました。

どうやって石造りの城を建設していたの?付近の農民たちを駆り出すことは想像できるけど……。

城の建設には、領民たちの労働力だけでなく、技術をもった職人たちも多く関わっていました。

ざっくりとした流れ

  1. 主君から城の建設許可をもらう
  2. バウマイスター(Baumeister:建築家)の雇用

流れとしては、私たちが家を建てる時の手続きと、大きく違っているところはありません。

城といっても、ここではブルクの建設について述べていきます。

ブルクは、王侯貴族よりも下級貴族である騎士が建てたものが大部分です。

目次

城の建設許可をもらう

城砦の建設に最適な場所を見つけたとしても、すぐに建設工事に取り掛かることはできません。

建設するためには、まず君主の同意を得る必要がありました

なぜ建設許可が必要なのか

マジャル人、サラセン人、ヴァイキングからの攻撃に備えるためにブルクが必要であることは主君も重々承知していました。しかしその一方で、そのような要塞は臣下自身の反逆の拠点となることも、主君は過去の苦い経験から分かっていました。

864年7月、カロリング朝のカール禿頭王とくとうおうは、エディクトゥム・ピステンセを発布し、自らの専権事項を明らかにしました。外敵に対抗するための防御施設を建てる場所と、国内問題を引き起こす要塞を取り壊す場所を決めました。

ゆえに、信頼できる家臣で、かつ、それなりの理由があることを証明できる者にのみ、城の建設許可を出していました。

理由としては、

  • 国境警備
  • 重要な交易ルートの保護
  • 修道院や都市の保護

です。

神聖ローマ皇帝オットー大帝(Otto. I.)は、マジャル人の侵攻から国を守るために国境付近の領主たちに城塞を造らせました。その際、周辺住民は築城参加の義務を負いましたが、有事の際はその見返りとして、城に避難する権利が与えられました。

その一方で、王は領主たちの城に対する開場権を持っており、いつでも自分の守備隊を配下の城に配置できました。

領主にとってひじょうに有利な規定だったよ。

中世初期の頃は建設許可が必要だったブルクですが、中世末期にもなると、代々一族が封土として受け取った土地を、許可がなくても建設できる自分たちの領地とみなす貴族が増えてきました。

違法にブルクを建築するとどうなるのか

主君の許しを得ずに城を建設した場合、国王や主君の軍隊によって攻撃されることを覚悟しなければなりませんでした。

めったに無いことですが、一応、主君が事後承諾した例もあるようです。

バウマイスターと職人たちの雇用

建設許可をもらえたら、最初に施主が行うことは、工事の計画と監督をするバウマイスターを雇うことでした。

バウマイスター

経験豊富な名工で、石工やレンガ職人として複数の建設現場で長い修行期間を過ごしたあと、教会や城の建設業者から専門的な訓練を受けた者です。

腕の良いバウマイスターは、貴族の間で口コミで広まっていき、引っ張りだこでした。

バウマイスターとの協議

施主とバウマイスターは建設費用を協議したあと、どのような城を立てるべきかを話し合います。

たいていの場合、バウマイスターがこれまで見たことがある城を参考にし、新しく確立された技術革新をバウマイスターが提案し、城の建設に生かされることになります。

  • 部屋をどのように配置し、どの建物で中庭を囲むのか
  • 何の職人が必要で、その職人は何人必要なのか
  • どのような建材が必要なのか

といったことなどを話し合って決めていきます。

高額な建設費用のために、ときに騎士は財産の一部を売却したり、借金をしなけらばならないようなことが多かったようです。

城の建設計画

現在の建築士が描くような立面図や間取り図はありません。

バウマイスターは木や床にスケッチを掘っていたと考えられています。そんな雑なスケッチでも、着工前には敷地内に棒や線を張って間取りが描かれていました。

礼拝堂の吹き抜けのような難しい建設段階になると、バウマイスターは詳細な設計図を作成しましたが、それ以外の部分は経験に頼っていました。

建設計画全体を知っていたのはバウマイスターだけでしたので、バウマイスターは建設期間中は解雇される心配はありません。工期中にマイスターが亡くなってしまったら、それこそ大惨事となりました。

城の建設に携わる人々

無給の農民たち

城の建設に駆り出された周辺の農民は、無給で働かなければならなかったので大きな負担となりました。

特別な知識を必要としない仕事は、すべて周辺から駆り出された農民たちに割り振られます。

農民たちが担当する主な仕事

  • 採石場での岩塊の採掘
  • 樹木の伐採
  • 建設用地の整地
  • 木材や石材、砂や石灰の連牛での運搬

有給の職人たち

今も昔も、手に職がある人は強いです。

  • 石工
  • レンガ職人
  • 大工
  • 屋根職人
  • 鍛冶屋
  • 配管工

これらの職人たちは食事と宿泊所が施主から無償提供され、さらによい給料を貰っていました。

このような職人たちは工事が終わると、次の工事現場へと移動していきました。

城壁や塔の建設

クヴェアフルト城(Querfurt)
クヴェアフルト城(Querfurt)
Mewes at German Wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons

守りの要である城壁と塔がまず建てられます。

地上付近の城壁は、厚さ2mになることが多く、住居用の塔は厚さ4mになることもありました。

しかし上の方に行くに従い、破壊槌や他の攻城兵器を恐れる必要がなくなるので、壁の厚さは薄くなるのが一般的です。

石積みはまず、見習いがハンマーとノミで荒削りにしたあと、職人やマイスターたちが小屋の中で細かい作業をして整えます。

その中でも彫刻家はとくに尊敬されており、柱や半円アーチ、ときには小さな彫像を掘ることもありました。

積み上げられた石積みは、どんな猛攻にも耐えられるようにモルタルでくっつけました。

セメント作成

石灰石を砕いて焼いて、セメントを作ります。

石灰石よりも大理石のほうが良いセメントが出来たので、多くの古代の大理石像がセメントにされてしまいました。

どのマウアーマイスター(Mauermeister:壁職人)も自分だけモルタルレシピを持っていて、石炭やワイン、バターミルクといった材料が含まれていることもありました

なに?その謎材料!?

石工の刻印

角石の前面に、製造者の刻印があることがあります。すべての石に刻印があるわけではありません。

刻印の登場により、日当で支払われていた職人の給料が、出来高払いになったのではないかと考えられています。

中世末期にはミュンスター建設者によって刻印が割り当てられ、刻印が重複しないように配慮されていましたが、12世紀、13世紀に存在していたかどうかは不明です。

当時の寿命と工期を考えると、同じ石工を他の建物で追跡するのは困難です。

三層構造の城壁

外側と内側の石壁は丁寧に作られます。丁寧に削られ、丁寧にモルタルで接合されていきます。

外側と内側の間は、砂利や瓦礫を詰め込み、モルタルが流し込まれているだけです。

塔の建設

塔は特に重要な防衛施設です。念入りに頑丈に作ります。

多くの場合、3階建てで右螺旋階段が取り付けられています。

城壁の建築

シュタールエック城(Burg Stahleck)の盾城壁
シュタールエック城(Burg Stahleck)の盾城壁
Harald Nachtigall, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

城壁や塔が人の高さよりも高くなると、足場を組んでいくことになります。

杭を打ち込み、梁を渡してロープで縛り、足場板を釘打ちしていきます。

足場は少しずつ上に向かうスロープ状になっており、石やモルタルなどの建材を引きずったり、ソリで引っ張ったりして運びました。

足場の梁穴の跡は、現在でも多くの城壁に見ることが出来ます。

昇降技術

重い石を吊り上げるために、建設用クレーンは早くから導入されていました。

クレーンの足場は木製で、ロープウインチがついています。クレーンの足場には、荷を持ち上げることができるように、ペダルホイールが取り付けられていました。

13世紀から16世紀の角石には、トングで挟み込むための挟み穴があけられています。この穴にトングをはめ込んで、クレーンで持ち上げていました。当時は2点で挟み込んで持ち上げるのあ一般的でした。

石を移動した後は、穴をモルタルでふさぎましたが、経年変化により、穴が目立つようになっています。

床の施工

床の高さは、バウマイスターが決めていました。

天井の横梁が敷かれる重厚な支持梁は、壁に設けられた穴に押し込まれたり、石の台座の上に敷かれたりしました。

大きな部屋の場合の床

大きな部屋の場合、横梁だけでは強度が足りないので、下から巨大な木の柱を差し込みました。

柱を差し込むための穴は、予め掘削しておきます。

木材は工事現場近くの工房で予め加工されたものを運び込み、現場で職人が調整します。

屋根の取り付け

初期の頃の屋根は藁葺でした。

しかし後期になると、火に強い瓦屋根を好むようになりました。

余裕があり、支えるだけの強度を持った屋根組があるのであれば、鉛板を採用しました。

配管工は、雨水を貯水槽に貯められるように雨樋を作成しました。

他の建物

木組み建築(Fachwerkbau)
木組み建築(Fachwerkbau)
KGW 1952, CC BY-SA 3.0 DE https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en, via Wikimedia Commons

城の他の建物は、ハーフティンバーで建てられました。「古きドイツの家」でイメージできる建物です。

木組みを作り、その間をヤマヤナギの棒で格子のようなものを作ります。

それに粘土、藁、獣毛、糞などを混ぜ合わせ、壁に塗っていきました。日本の土壁と似ています。

乾燥後は白漆喰を塗って仕上げました。

ヴォールトの作成

君主の間(Fürstensaal)
マールブルク城の君主の間(Fürstensaal)@Photo by ぺんた

ヴォールトを作るのは難しく、通常は城の礼拝堂にしか採用されていません

ますレンガを積み上げ、石を支える足場を作りました。

楔石を中央に差し込み、シームレスに収まるように採寸します。位置が定まるとヴォールトはそれ自体で維持されるので、足場を取り除くことができます。

水の確保

ロンネブルク城(Ronneburg)の井戸の回し車
ロンネブルク城(Ronneburg)の井戸の回し車 @Photo by ぺんた

飲水、料理、洗濯、掃除以外にも、厩の掃除やゴミの除去にも水は重要です。

ほとんどの山城には、深い深い井戸が敷設されています。

井戸は城の中にあることもあれば、中庭にもあることがあります。

中庭にある時は、木造の井戸小屋で保護され、ゴミや動物の排泄物で水が飲めなくなってしまうことがないように保護していました。

平時には近くの川に水運び人に運ばせていました。木の棒の両端にバケツをぶら下げて、水を運んでいました。

上述の雨水をためた貯水槽からの水は、贅沢品でした。

まとめ

城の建設の流れ自体は、現代の私たちが家を建てる時の流れと大差ありません。

  1. 城を建設するためには主君の許可が必要
  2. バウマイスターを雇い、どんな城を建てるのか話し合う
  3. 農民や職人を集めて建設する

ただ、今のように建機はありませんし、設計に便利なコンピューターもありません。

基本的に人力で、時に動物(牛や馬)の力を借りて物を運び、槌やノミで木や石を削って作っていきました。

設計はすべてバウマイスターの頭の中。

今のような便利な道具はなくても、何年もの歳月をかけて城を建設していきました。

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