モット・アンド・ベイリーとはどんな城?

英語のモット・アンド・ベイリー(またはモット・アンド・ベーリー:motte-and-bailey)は、ドイツ語では単にMotte(モッテ)と言います。ドイツ語では、Turmhügelburg(トゥルムヒューゲルブルク:丘陵城砦)と表現されることも多い建築様式です。

英語とドイツ語では、Motteの言葉が指し示す範囲が異なるので注意が必要。英語の「motte」は内郭部分のみを指しますが、ドイツ語の「Motte」は内郭および外郭・土塁などを含めた城郭全体のことを意味します。

紛らわしいので、本記事では日本でも一般的に採用されている英語の方を採用します。

人工的に盛り上げた丘のことを「モット」といい、盛土の上に塔を建て、周りを木柵で囲んだ城郭様式。北ヨーロッパの低地や丘陵地帯に広く見られます。

本記事では、モット・アンド・ベイリーがどのような城なのかを解説し、モット・アンド・ベーリーが盛んに建てられた時代の背景とその後について紹介します。

目次

モット・アンド・ベイリーの城

モットアンドベイリー
モット・アンド・ベイリー

初期の城塞ことモット・アンド・ベイリーは木製の城です。

石造りのイメージが強いヨーロッパの城だけど、木製の城も存在していたのね。

小高い人工丘のモットの麓には、同じく木柵で囲んで防御力を高めた村であるベイリーが設けられました。

外部からモットへは直接行くことができないようになっており、ベイリーからのみ行くことができるようになっています。

モットとベイリー全体を水掘で囲み、さらに防御力を高めていました。

モット

丘陵城砦(Turmhügelburg)
丘陵城砦(Turmhügelburg)
User:Matthias Süßen, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

城の内郭(Kernburg)部分がモットです。

モットは、水掘を掘った時の土を中央に集めることで嵩上かさあげし、水掘と丘の両方を同時に造りあげました。

人工的に盛り上げた築山の上に2~3階建ての塔を建て、周りを木柵で囲みます。モットの上に建てられたものは必ずしも塔ということはなく、住居のこともありました。

築山の高さによって、3つに分類されます。

  • 10m以上
  • 5~10m
  • 5m未満

現存するモットの大半は5~10mの中規模のものです。

直径は20~30mのものが一般的で、建設には高度な技術を全く必要としないので、簡単な構造のものであれば10日ほどで完成させることができました。

普段から農作業に従事している農夫たちなら、これぐらいの作業はお安い御用だったのかもしれないね。

人工的に築山を築くことが多いですが、自然の丘や古代の墳丘を利用することもありました。

建てられた塔に防御だけでなく住居としての機能をもたせたものはドンジョン(Donjon:仏語)と呼ばれています。防御機能のみの場合は、ベイリーに住居がありました。

ベイリー

城の外郭(Vorburg)部分がベイリーです。モットの麓に設けられた防御された村で、モットと同様に木柵で囲んで守られていました。

ベイリーは、ドイツ語ではVorburg(フォアブルク:外郭)ということもあれば、Niederburg(ニーダーブルク)やUnterburg(ウンターブルク)ということもあり、低い位置にある城ということが言葉からもわかります。

ベイリーは必ずしも1つというわけではなく、規模の大きなものになると複数のベイリーを持つ城もあります。

農場や使用人の家、納屋、馬や牛の厩舎などがあり、城の経済の中心でした。

日本の城のモット・アンド・ベイリー

「モット・アンド・ベイリー」様式の城は、何もヨーロッパに限った話ではありません。

日本の城も、モット・アンド・ベイリー様式に似た様式が存在しています。

戦国時代の掛川城の模型

山内一豊時代の掛川城の模型

日本版モット・アンド・ベイリー!

見た瞬間、そう思いました。

本丸(内郭)を守るために、二の丸や三の丸(外郭)が本丸を守り、本丸へは二の丸を通らないとたどり着けない構造になっています。

低地にある城は本丸だけでなく、二の丸や三の丸を含む城郭全体を水掘で取り囲むので、基本構造はモット・アンド・ベーリーと何ら変わっていません。

掻き上げ城

平地を削って堀にし、掘り上げた土を盛って土塁とした城を、日本では「掻き上げ城」といいます。

掛川城の例を見なくても、日本にもモット・アンド・ベイリー形式の城は存在します。

モット・アンド・ベイリーが盛んに建てられた時代

第一期建築ブームともいえる時代。

城は君主の許可なしに勝手に造ることはできませんでした。城砦を建てる権利は王権に属し、臣下が城砦を築けば、それはすなわち反乱の拠点ともなりうることを君主は経験的に知っていました。

ところが923年、ドイツ国王ハインリヒ1世(Heinrich I.:在位929-936)は、侵攻するマジャル人に対抗するために、諸侯に城砦を建てる権利を与えました。同時に、マジャル人に対抗できる騎兵も準備させました。これがドイツに封建制度が広まるきっかけになります。

各地の封建領主たち、特に国境付近に住む封建領主たちはこぞって城砦を築き、マジャル人の襲来に対して身を守りました。

当時の国王権力はひじょうに弱く、国王として軍隊を出すことはできなかったため、自分の身は自分で守らせるために封建領主たちに城砦の建設許可を出したともいえます。

ドイツでは数千もの城砦が建設される要因の一つ。

この時代に城を建築していったのは、王侯貴族ではなく主に騎士階級の人々です。モット・アンド・ベイリー様式の城砦は、後に続く騎士城(Ritterburg)の起源となっています。

モット・アンド・ベイリー様式の城砦が多く建てられた地域は、初期の騎士文化の証拠が多く見つかる場所と一致しています。

モット・アンド・ベイリーのその後

モット・アンド・ベイリーの最大の弱点は、木製であること。

破壊槌や投石機に対して弱く、火矢に対しても脆弱でした。

木製のモット・アンド・ベイリーは、はじめは城壁の一部が次第に石造りの水城へと進化していきました。それゆえ、水城の登場は山城より早いとされています(山城の登場は11~12世紀)。

モット・アンド・ベイリーを起源とする城

現存するモット・アンド・ベイリーはなく、多くは土塁や築山が残っているのみ。

しかし城の起源をモット・アンド・ベイリーとする城はいくつか存在しています。

モット・アンド・ベイリーを起源とする城として、イギリスのウィンザー城が有名です。

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