通称プファルツ城。正式名称のプファルツグラーフェンシュタイン城よりも、おそらくプファルツ城やファルツ城といったほうが人口に膾炙しているのではないでしょうか。
ライン川の中洲に立つ税関城で、ここでライン川を航行する船から通行税を徴収していました。
ライン川下りをする際にはこの城のすぐ横を通り、川の中州に立つのでひじょうによく目立ちます。ぶどう畑に囲まれた山の突出部にあるグーテンフェルス城(Burg Gutenfels)と一緒に写真に移っていることも多い城です。
プファルツグラーフェンシュタイン城の名前の由来は、そのままズバリ宮中伯(プファルツグラーフ:Pfalzgraf)の城だから。
城自体はいたってシンプルな構造をしています。
プファルツグラーフェンシュタイン城は、マルクスブルク城と同様に、ライン川沿いの城で戦争行為による破壊や損傷を受けていない城になるよ。
ライン川沿いの城で破壊されていないのは、確かマルクスブルク城とプファルツ城だけだったよね。
(ライン川沿いの城は、三十年戦争やプファルツ継承戦争でことごとく破壊されていますが、プファルツグラーフェンシュタイン城はそんな破壊を免れた貴重な城です)
川の流れと関係があるのでしょう。六角形の船の形をした城です。
ライン川に永遠に浮かぶ石の舟。プファルツグラーフェンシュタットの景色を眺めながら、永遠に錨を下ろす。
ヴィクトル・ユーゴー
城の姿は、芸術家たちに歌われ、描かれてきました。
プファルツグラーフェンシュタイン城の構成と見どころ
カウプ(Kaub)側から船に乗って、中洲の島に行きます。
こうして中洲に立ってみると、不思議な感じね。
中洲と入っても、この部分だけちょうど岩盤が突出しており、城はその岩盤の上に建っているので、地盤は安定していると思われます。
河原の石は、日本の河原の石のイメージとは違い、丸くはなく平べったい形をしています。川の流れが穏やかだからでしょうか。
プファルツ城内の見学
城は自由見学です。
入城受付の人に英語が良いかドイツ語が良いか聞かれたので、ダメ元で「ヤパーニッシュ(Japanisch:日本語」と言ったら、日本語の案内パンプレットを貸し出してくれたよ。
貸し出しだから、帰る時は返却しなきゃいけないんだけどね。
一部日本語ではなくドイツ語のままのところもありましたが、案内看板がドイツ語なので、問題はありません。
環状囲壁(Ringmauer)
1338年から1342年頃に、皇帝ルートヴィヒ・デア・バイヤー(Kaiser Ludwig der Bayer)が防衛のために作りました。6角形で高さ12mあります。
まずは案内にしたがって、階段を登って環状囲壁の歩廊(Wehrgang)へと向かいます。
大砲
大砲の他にカタパルトもありました。
武器は置いていないけれど、武器にあわせたであろう数種類の矢狭間があります。矢狭間にフタがされていて、外からは見えないようになっているのもありました。
部屋
質素ではあります。
ここで税関の役人たちが仕事をしていたのでしょうか。
牢獄塔
上の部分は鉄格子で蓋がされています。通行税を支払わずに捉えられた商人を紐で縛り、滑車を使って中に入れたのだそう。
下の歩廊からは牢獄への小さな窓(ハッチ)がついており、ここから食べ物を紐で吊るして囚人に与えていたようです。牢獄の空間は、何度見ても暗くて狭くて気が狂いそうな空間です。
ここの牢獄の何がすごいって、水面に筏を浮かべているところだよね、下が地面じゃなくて水なの!こんな牢獄、ぜったい嫌だ!
塔の中の牢獄は、糞尿で衛生的にひどい状態になるのが一般的ですが、ここの牢獄塔はそのような衛生面での心配はなさそうです。ただ…、下が地面ではなく水面…。ライン川が増水したときはきっと気が気でなかったに違いない…。
どちらにせよ、嫌なことに変わりありません。
ベルクフリート
ベルクフリートは、1327年に建てられた城の最古の部分です。最初は城壁などの設備はなく、塔しかありませんでした。
パン焼窯
ベルクフリートへは3階に入り口があり、歩廊から小さな橋を渡ってベルクフリートに入ります。かつては梯子で登っていたそうです。
そして入った真正面に、なぜかパン焼窯があります。パン焼窯は17世紀から18世紀に作られたものです。
パン焼窯の後ろに、上に登る小さな階段があります。
ベルクフリート
6階建てで五角形のベルクフリートの最上階は、そこそこ眺めが良いです。美しいライン渓谷の風景とともに、ライン川を航行する船を眺めるのは気持ちいいものがあります。
ライン川を航行する船を監視するのに、最適な場所であったことも頷けます。
ベルクフリートは、狭くて急な右螺旋階段を登ります。人がすれ違うことが難しいほどに狭いので、待避所が設けられています。
団体が来た時は、団体が通り過ぎるまで待つしかありません。
プファルツグラーフェンシュタイン城の歴史
この地への入植は923年に始まりました。
13世紀前半
ライン川の水運の関税権を持つこの村は、シュタウフェン時代の有力な帝国ミニステリアーレ家系であるファルケンシュタイン卿(Herren von Falkenstein)が所有していました。
ファルケンシュタイン卿はカウプ城の後期ロマネスク様式の内郭部分を建設し、街に強固な壁を建設しました。
1277年、フィリップ2世・フォン・ファルケンシュタイン=ミュンツェンベルク(Phillip II. von Falkenstein-Münzenberg)は、カウプを城と関税権とともに、ライン宮中伯ルートヴィヒ2世に売却しました。
カウプは、このときからライン宮中伯領となります。
1142年、国王コンラート3世(Konrad III.)は、ヘルマン・フォン・シュタールエック(Hermann von Stahleck)を宮中伯に任命。1195年にはライン宮中伯領がハインリヒ獅子公の手に渡り、1214年にはオットー・フォン・ヴィッテルスバッハ(Otto von Wittelsbach)の手に渡りました。
宮中伯の爵位は、19世紀初頭までヴィッテルスバッハ家のものとなりました。
ヴィッテルスバッハ家といったら、ハイデルベルク城やノイシュヴァンシュタイン城を建てた家系よね。プファルツ城もそうなんだ。
城と都市の管理、通行税の管理はプファルツ選帝侯の役人が城伯および税関書紀が行っていました。
14世紀
1324年、後の皇帝ルートヴィヒ・デア・バイヤー(Ludwig der Bayer、在位:1314~1347年)は、カウプに都市の地位を与えました。
これに関連して、グーテンフェルス城の強化、カウプ都市要塞の拡張、プファルツグラーフェンシュタインの建立が行われました。
これによって、ライン川の通行税を効率よく、より安全に徴収することが可能になりました。必要に応じて、航路を塞ぐことも可能でした。(当時、航路はプファルツグラーフェンシュタイン城の西側のみで、東側の第二航路は近代になって開発されたものです。)
1339年に初めて「プファルツグラーフェンシュタイン」という名前が登場します。意味はそのまま、宮中伯の城です。
-steinは、ライン地方のブルクによく見られる名称で、人気があったんだよ。
16~17世紀
バイエルン=プファルツ継承戦争でグーテンフェルス城が包囲され、三十年戦争ではカウプの街が軍隊に占拠され、プファルツグラーフェンシュタイン城も少なからず影響を受けましたが、破壊されることはありませんでした。
プファルツグラーフェンシュタイン城の駐屯員は20~24人で構成され、通過する船から引き続き通行税を徴収していました。
ナポレオン解放戦争
将軍ブリュッヒャー・フォン・ヴァールシュタット侯爵(Fürst Blücher von Wahlstatt)が1814年1月2日から5日にかけてプファルツ島を利用し、ボートの仮設橋でライン川を渡り、ブリュッヒャーがプファルツグラーフェンシュタイン城から直接軍事行動を指揮しました。
19世紀
1803年、プファルツはナッサウ公国に、1866年にはプロイセン王国に属していました。
1867年になって、税関業務を廃止しました。
中世のみならず、近世になってもまだ税関として使われていたのか。
第二次世界大戦後
1960年代にはライン川の船の信号所として使われていました。
1946年にラインラント=プファルツ州の所有となり、現在はラインラント=プファルツ州城郭管理局(Verwaltung der staatlichen Schlösser Rheinland-Pfalz)の管理下にあり、修復と維持管理が行われています。
プファルツグラーフェンシュタイン城の公式サイト
プファルツツグラーフェンシュタイン城へのアクセス
プファルツグラーフェンシュタイン城のある中洲へは、カウプ側から30分ごとに船が出ているよ。
城しかない島にいくんだから、船賃と城の入城料を一緒にしてしまえばいいのに…。なぜ別なんだろう…。