ライン川の中洲に浮かぶように建つプファルツグラーフェンシュタイン城(通称プファルツ城/ファルツ城)は、その印象的な姿から、「ライン川に浮かぶ石の船」とも呼ばれています。
詩人ヴィクトル・ユーゴーは、この城を以下のように表現しました。
ライン川に永遠に浮かぶ石の舟。プファルツグラーフェンシュタットの景色を眺めながら、永遠に錨を下ろす。
ヴィクトル・ユーゴー
中世においては、ここでライン川を行き交う船から通行税を徴収していました。
対岸の町カウプ(Kaub)と、山上にあるグーテンフェルス城(Burg Gutenfels)とともに、中世の税関ネットワークを形成していました。
ライン川下りをする際、船はこの城のすぐ横を通り、中州に立つのでひじょうによく目立っています。
城の立地 | 水城:ライン川の中洲(島) |
城の分類 | 水城(ブルク) |
城主の階級 | ライン宮中伯→ナッサウ公国→プロイセン王国→ラインラント=プファルツ州 |
最初の城の設立年代 | 1327年着工 |
破壊歴 | なし(三十年戦争やプファルツ継承戦争を無傷で乗り切った希有な城) |
プファルツグラーフェンシュタイン城の名前の由来は、そのままズバリ宮中伯(プファルツグラーフ:Pfalzgraf)の城だからです。

プファルツグラーフェンシュタイン城は、マルクスブルク城と同様に、ライン川沿いの城で戦争行為による破壊や損傷を受けていない城になるよ。





ライン川沿いの城で破壊されていないのは、確かマルクスブルク城とプファルツ城だけだったよね。
城の姿は、芸術家たちに歌われ、描かれてきました。
プファルツグラーフェンシュタイン城の構造と見どころ


Kora27, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0
この城の形は、ライン川の水流や氷流に耐えるために設計された六角形。五角形のベルクフリートを中心に、環状囲壁が取り囲む至ってシンプルな構造です。
カウプ(Kaub)側から船に乗って、中洲の島に行きます。



こうして中洲に立ってみると、不思議な感じね。
中洲はちょうど岩盤が突出した部分であり、岩盤上に立つ城の地盤は川の中にあっても安定していると思われます。
河原の石は、日本の河原の石のイメージとは違い、丸くはなく平べったい形。川の流れが穏やかだからでしょうか。
プファルツ城内の見学体験


城は自由見学です。



入城受付の人に英語が良いかドイツ語が良いか聞かれたので、ダメ元で「ヤパーニッシュ(Japanisch:日本語」と言ったら、日本語の案内パンプレットを貸し出してくれたよ。
日本語の案内パンフレットは貸し出しなので、帰る時は返却しました(今もそうなのかな?)。
一部日本語ではなくドイツ語のままのところもありましたが、案内看板がドイツ語なので、問題はありません。
環状囲壁(Ringmauer)
六角形で高さ12m。小塔(Tourellen)を伴うゴシック様式の防御構造物。
1338年から1342年頃に、皇帝ルートヴィヒ・デア・バイヤー(Kaiser Ludwig der Bayer)が防衛のために作りました。
まずは案内にしたがって、階段を登って環状囲壁の歩廊(Wehrgang)へと向かいます。
落とし格子




城壁通路(Wehrgang)を歩いていくと、落とし格子の裏側に出くわします。
落とし格子が現存し、そのローラーウィンチ機構を間近で見られる貴重な城です。
大砲
大砲の他にカタパルトもありました。
武器は置いていないけれど、武器にあわせたであろう数種類の矢狭間があります。矢狭間にフタがされていて、外からは見えないようになっているのもありました。




部屋
質素ではあります。
ここで税関の役人たちが仕事をしていたのでしょうか。
特異な牢獄塔
北側の塔には牢獄があり、上の部分は鉄格子で蓋がされています。
通行税を支払わない商人をここに収監していました。
下の歩廊からは牢獄への小さな窓(ハッチ)がついており、ここから食べ物を紐で吊るして囚人に与えていたようです。牢獄の空間は、何度見ても暗くて狭くて気が狂いそうな空間。



ここの牢獄の何がすごいって、水面に筏を浮かべているところだよね、下が地面じゃなくて水なの!こんな牢獄、ぜったい嫌だ!
塔の中の牢獄は、糞尿で衛生的にひどい状態になるのが一般的ですが、ここの牢獄塔はそのような衛生面での心配はなさそう。
しかし下が地面ではなく水面。
ライン川が増水すれば、水面に浮かべられた筏も揺らぎます。精神的にも過酷な空間だったことは間違いなさそうです・
ベルクフリート
五角形で6階建ての塔であるベルクフリートは、1327年に建てられた城の最古の部分です。
最初の城には城壁などはなく、塔しかありませんでした。
パン焼窯
ベルクフリートへは3階に入り口があり、歩廊から小さな橋を渡ってベルクフリートに入ります。かつては梯子で登っていました。
そして入った真正面に、なぜかパン焼窯があります。パン焼窯は17世紀から18世紀に作られたものです。
パン焼窯の後ろに、上に登る小さな階段があります。




ベルクフリート
ベルクフリートの最上階は、そこそこ眺めが良いです。
美しいライン渓谷の風景とともに、ライン川を航行する船を眺めるのは気持ちいいものがあります。
ライン川を航行する船を監視するのに、最適な場所であったことも頷けます。
ベルクフリートは、狭くて急な右螺旋階段を登ります。人がすれ違うことが難しいほどに狭いので、待避所が設けられています。



団体が来た時は、団体が通り過ぎるまで待つしかないんだよな。しかも西洋人って、でかいし。
五角形のベルクフリートは、上流に角を向け、水流から守っています。
1、2階部分は梁のある天井、3階以上は筒型ヴォールトです。


プファルツグラーフェンシュタイン城の歴史


この地への入植は923年に始まっています。
13世紀前半
ライン川の水運の関税権を持つこの村は、シュタウフェン時代の有力な帝国ミニステリアーレ家系であるファルケンシュタイン卿(Herren von Falkenstein)が所有していました。
ファルケンシュタイン卿はカウプ城の後期ロマネスク様式の内郭部分を建設し、街に強固な壁を建設しました。
- 1277年
-
フィリップ2世・フォン・ファルケンシュタイン=ミュンツェンベルク(Phillip II. von Falkenstein-Münzenberg)は、カウプを城と関税権とともに、ライン宮中伯ルートヴィヒ2世に売却します。
カウプは、このときからライン宮中伯領となります。
1142年、国王コンラート3世(Konrad III.)は、ヘルマン・フォン・シュタールエック(Hermann von Stahleck)を宮中伯に任命。1195年にはライン宮中伯領がハインリヒ獅子公の手に渡り、1214年にはオットー・フォン・ヴィッテルスバッハ(Otto von Wittelsbach)の手に渡りました。
宮中伯の爵位は、19世紀初頭までヴィッテルスバッハ家のものとなりました。



ヴィッテルスバッハ家といったら、ハイデルベルク城やノイシュヴァンシュタイン城を建てた家系よね。プファルツ城もそうなんだ。
城と都市の管理、通行税の管理はプファルツ選帝侯の役人が、城伯および税関書紀として行っていました。
14世紀:城の築城
- 1324年
-
後の皇帝ルートヴィヒ・デア・バイヤー(Ludwig der Bayer、在位:1314~1347年)は、カウプに都市の地位を与えます。
これに関連して、
- グーテンフェルス城の強化
- カウプの地域要塞の拡張
- プファルツグラーフェンシュタイン城の建設計画
が行われました。
法王関税を強化するなんて、国王は破門じゃ!
- 1327年
-
教皇ヨハネ22世と対立し、教会から追放されても、税を取り立てるためにプファルツグラーフェンシュタイン城がの建設が進められました。
これによって、ライン川の通行税を効率よく、より安全に徴収することができるようになったよ。
必要に応じて、航路を塞ぐことも可能。
航行する船は逃げ場がなく、税金を払うほかありません。
- 1339年
-
「プファルツグラーフェンシュタイン」という名前が初めて登場。意味はそのまま、宮中伯の城です。
-steinは、ライン地方のブルクによく見られる名称で、人気があったんだよ。
- 1344年
-
- プファルツグラーフェンシュタイン城
- 城塞都市カウプ
- 城塞都市バッハラッハ
- シュターレック城(Burg Stahleck)
上記の城塞都市および城が構築されることにより、ライン渓谷を支配する要塞システムが形成されます。
ローマ法王や大司教たちの抗議虚しく、ルートヴィヒ王は税関城をさらに増築・補強しました。
16~17世紀:戦争とバロック期の拡張
プファルツグラーフェンシュタイン城の近くにまで軍隊がやってきており、少なからず影響は受けましたが、破壊されることはありませんでした。
- 1504/05年:ランツフート継承戦争(Landshuter Erbfolgekrieg)
-
ランツフート継承戦争(またの名をバイエルン=プファルツ継承戦争)が勃発。ヘッセン方伯ヴィルヘルムが39日間にわたってグーテンフェルス城を包囲します。
- 1607年
-
砲塔(Batterie)が増築され、二層のアーチ構造と武器庫が整備されます。
- 1618年~48年:三十年戦争
-
カウプの町は軍隊に頻繁に占拠されます。
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プファルツグラーフェンシュタイン城の駐屯員は20~24人の「頭」で構成され、通過する船から引き続き通行税を徴収していました。
ナポレオン解放戦争
- 1814年
-
将軍ブリュッヒャー・フォン・ヴァールシュタット侯爵(Fürst Blücher von Wahlstatt)がシレジア軍約8万人と銃312丁を携え、ライン川を渡ります。
軍隊はボートを使用した仮設橋でライン川を渡り、ブリュッヒャー自身がプファルツグラーフェンシュタイン城から直接軍事行動を指揮しました。



中世の税関城が近代戦争でも巧みに利用さているのは、歴史の妙ですね。
近代以降と現在の保存活動
近代は領邦国家に分かれていたドイツが、統一国家へと統合されます。
その過程で、プファルツが所属する国家は以下のように変遷しました。
- 1803年:ナッサウ公国
- 1866年:プロイセン王国



19世紀、プファルツ選帝侯の他の城が個人に競売される中、この城はずっと国有資産であり続けたよ。
- 1867年
-
税関業務を廃止。
中世のみならず、近世になってもまだ税関として使われていたのか。
- 1946年
-
ラインラント=プファルツ連邦州の所有になります。
現在はラインラント=プファルツ州城郭管理局(Verwaltung der staatlichen Schlösser Rheinland-Pfalz)の管理下にあり、修復と維持管理が行われています。
- 1960年代
-
ライン川を航行する船のための信号所として使用されました。
プファルツグラーフェンシュタイン城の公式サイト
プファルツツグラーフェンシュタイン城へのアクセス
プファルツグラーフェンシュタイン城へは、対岸のカウプから30分おきに運行するフェリーでアクセスできます。
船代と入城料は別料金なのが不思議ですが、それもまた旅の思い出になるかもしれません。



どうせ城にしか行けないのだから、入場料と船賃を一緒にしてしまえばいいのに。

