日本ではよく雲海の上にそびえ立つ天空の城として紹介されることのあるホーエンツォレルン城。
晴れた日にはその美しい姿を見せますが、この城は天気によっていろいろと表情を変え、特に美しくときに妖しい、いや怪しい城となります。
たまたま訪れた時の天気が悪かったからなのかなぁ。コウモリが似合いそうな怪しい城にしか見えなかったよ。
城の立地 | 山城(山頂) |
城の種類 | ブルクだけど実態はシュロス |
城主の階級 | ツォレルン伯爵→ホーエンツォレルン侯爵→プロイセン国王→ドイツ皇帝→プロイセン王家+ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵家 |
1061年 |
シュヴェービッシュアルプ(Schwäbisch Alb)にある、ホーヘンツォレルン(Hohenzollern)家の発祥の城だったところです。ホーエンツォレルン家といえば、後にプロイセン王家であり、ドイツ皇帝を輩出した家系。
この城にはホーエンツォレルン家の発展の歴史があります。
現在の城は中世の頃に建てられた城の跡は殆ど無くて、新ゴシック様式で建てられた新しい城だよ。
ホーエンツォレルン城の見どころ
駐車場から歩いて山の上にある城まで歩いて約15分ほど。道はかなり急斜面。
入場料を払って中に入ります。
アドラー門(Adlertor)からの道
アドラー門から城の城の中庭への入り口である門塔の間は、約25mの高低差があります。
この高低差を埋めるために作られたこの道は、19世紀の戦争建築の傑作と言われており、4回巻いています。
この螺旋状のぐるぐるの緩い坂道は、歩いていても面白いです。
ホーエンツォレルン城のガイドツアー
城の内部は、ガイドツアーに参加することで見学することができます。
城を建てたものの、あまり住んでいなかったのか、ジグマリンゲン城と違ってあまり生活感を感じなかったんだよね。
家系図の間(Stammbaumhalle)
中に入って一番最初の部屋は家系図の間で、壁一面に家系図が描かれていました。ガイドさんがその家系図を使って代々の王様と皇帝の説明をします。
ツォレルン家はフリードリヒ(Friedrich)という名前が大好きで、父がフリードリヒなら3人の息子たちもフリードリヒだったりすることも珍しくありません。
同じ名前が多すぎて、ドイツ人でも理解が追いついていないんじゃないかと思ってる。
1世だの5世だのナンバリングされているとはいえ、称号が変わればナンバリングもまた変わるので、ややこしさが倍増です。
ちなみにこの部屋の壁、ブロックを積んで作られたのかと思ったら、壁にブロックの絵が描いてあるだけでした。
王侯貴族は、自分の家系を古代の王朝、できればフランク王やカール大帝にまで遡ろうと試みました。
ホーエンツォレルン家の起源をカール大帝にまでさかのぼり、ツォレルン家をプロイセン王家の先祖としました。
そういう時代の空気だったんだね。
信憑性の怪しいところもあるらしいけど、そこは問題じゃないらしい。
この先は靴の上から巨大スリッパを履いて中を見学します。
伯爵の間(Grafensaal)
伯爵の間は、祝宴の大広間です。
尖頭アーチ型のヴォールト金色の装飾が見事です。6つのシャンデリアも金メッキが施されています。
お祝いのときには、このシャンデリアにロウソクが灯されるよ。
暖炉が2つと、ホーエンツォレルン家の人物4人の肖像画が飾られています。
ガイドさんが肖像画を指しながらまたひたすら人物の説明が入ります。人物の説明しか印象に残っていません。ドイツ国王や皇帝を輩出した家系だけに、人物の紹介が多いです。
今でも家族の祝賀会場として使用されています。
宝物庫(Schatzkammer)
宝物庫(Schatzkammer)
最後の宝物庫は、小さな控えの間を通って入ります。パレードメイルがあり、王冠がありました。
ささやかながら、中世に遡る鎧や武器のコレクションがあります。
城の周囲
聖ミヒャエル礼拝堂(Michaelskapelle)
身廊と聖歌隊は元々あった15世紀のゴシック様式のものですが、他の部分は19世紀のものです。
新旧ゴシック様式の区別がすぐにはわからないように巧妙に設計されています。
この礼拝堂のステンドグラスは、南西ドイツで最も美しいとされています。(外からの写真ではわからないけど)
城の周囲を彩る人物像たち
城の周りには、歴代当主の銅像が建てられていました。
一番目を引いたのは、ビール腹(そこっ!?)
天気が良ければ、もっと素晴らしい眺めだったのでしょうが、曇りだったのでいまいちですね。
山城ならではの素晴らしい眺望も、おすすめポイントです。
美しいホーエンツォレルン城をお手元に
ホーエンツォレルン城の歴史
ホーエンツォレルン家の起源は、他の王侯貴族と同じように歴史的には定かではありません。
ホーエンツォレルン城は建築と破壊の繰り返しており、今の城は3番めの城になります。3番めの城の再建時の資金提供に応じ、2/3が旧プロイセン王家、1/3がホーエンツオレルン=ジグマリンゲン侯爵家に属しています。
最初の城
1061年の文書にホーエンツォレルン家が登場しており、この時すでにツォラーベルクに住んでいたとされています。環状囲壁に囲まれており、正方形の主塔と礼拝堂はありましたが、居住スペースは殆どなかったのではないかと考えられています。
ホーエンツォレルン家は分割相続により、コンラート1世・フォン・ニュルンベルクを祖とするフランケン=ブランデンブルク=プロイセン脈、シュヴァーベンを相続したシュヴァーベン脈に分かれます。
1192年にフリードリヒ3世が結婚により、ニュルンベルク城伯となります。
城の起源については殆どわかっていませんが、破壊された時の記録は文書として残っています。
最初の城の破壊
フリードリヒ11世・フォン・ツォレルン伯爵が1401年に死去すると、5人の息子たち(全員フリードリヒ)のうち、上の2人で資産を共同管理することになります。(ちなみに下3人は聖職者)
一人はエッティンゲン(Oettingen)伯爵の元で教育を受けたためエッティンガーと呼ばれ、もう一人はアイテル・フリードリヒ(Eitel Friedrich)になります。
エッティンゲン伯爵の城といえばハールブルク城
最初の頃こそ共同管理されていましたが、熱血漢のエッティンガーと冷静沈着なアイテルは性格が合わず、闘いを始めます。エッティンガーはその頃莫大な借金を抱え、盗賊騎士と成り果てます。
エッティンガーはツォレルン城に籠城し、アイテルと18の帝国自由都市が城を包囲し、攻城兵器から昼夜を問わず弾丸が投げ込まれます。
エッティンガーは友人に援軍を求めますが、皇帝から禁止されてしまったために援軍を送ることができません。
食料と水は不足し始め、10ヶ月にも及ぶ籠城戦は1423年5月にようやく終りを迎えます。
戦争に負けると、城は徹底的に略奪されちゃうし、壊されちゃうんだよね。この時は、当時の慣習に反して、礼拝堂までもが壊されちゃったんだよ。
礼拝堂まで壊されちゃうなんて、エッティンガーって人はそれだけ嫌われていたということかしら…。
そうかもね。しかもこのあと、皇帝は城の再建を「永遠に」禁止したからね。戦い自体も激しかったのかもしれないね。
2番めの城
「城の再建禁止令」が続く中、若き伯爵ヨス・ニクラス1世(Jos Niklas I.)は解除を求めます。フランク系の親族の支援も手伝って、ついに皇帝フリードリヒ3世の許可を得ることに成功します。
1454年、ヨス・ニクラス1世が定礎の儀式を行い、再建されます。
馬蹄形の城郭構造で、居住塔、礼拝堂、3つの主塔で構成されていました。
3つの塔のうち2つの塔は、再建に力添えをしてくれた人に敬意を払い、辺境伯の塔(Markgrafenturm)、皇帝の塔(Kaiserturm)と名付けられました。司教の塔はアウグスブルク司教になった長男にちなんでつけられています。
これら3つの塔の名称は、3番めの現在の城にも継承されています。
16世紀以降
16世紀になると、多くの王侯貴族が居住地を生活に不便な山城から、快適な都市部へと移ります。
ホーエンツォレルン家も例外ではなく、1576年にアイテル・フリードリヒ4世伯爵が当主になると、ついにヘヒンゲンに居住地をヘヒンゲン(Hechingen)に移しました。
ツォラーベルクにある先祖代々の城は住居としての役割をもはや果たしていませんでしたが、敵の攻撃に備えて、避難場所として使用するために所有し続けていました。
17世紀のはじめ、この城は防御壁が強化され、稜堡が築かれました。
三十年戦争(1618-1648)
ヨハン・ゲオルグ(Johann Georg)伯爵は皇帝側につき、カトリック同盟への貢献が認められて1623年に帝国侯爵に昇格しました。
多くの兵士が家族を連れ、周辺の村々の貴重品が城に運ばれ、カール・フォン・ホーエンツォレルン=ハイガーロッホ(Karl von Hohenzollern-Haigerloch)伯爵が家族や使用人たちと一緒に城に逃げ込みます。
1633年の夏、プロテスタントのヴュルテンベルク軍に城が包囲されます。
城では水も食料も不足し始め、冬になると飢えだけでなく寒さにも苦しむようになります。
伯爵は密かに城の脱出に成功し助けを求めますが、それも虚しくその先で亡くなり(ハイガーロッホ系はここで断絶)、城は9ヶ月にも渡る包囲戦の末、ついに開城となります。
ボロボロな状態だったけど、オーストリア側は城を開放して、侯爵家の軍隊だけではなく自分たちの軍隊も加えて、さらにメンテナンス費用も負担してくれたんだよ。
皇帝側もいい所あるね。
でも結局その支援金だけではすべて修理しきれなくって、18世紀初頭には崩壊してちゃったけどね。
オーストリア継承戦争(1710-1748)
当初は中立を保っていましたが、オーストリア軍がホーエンツォレルン城に駐留し、侯爵がハプスブルク家側であったため、必然的に戦乱に巻き込まれました。
プロイセンを支援するフランス軍はヘヒンゲンを占領。交渉の末、1744年に戦わずして城を明け渡しました。
オーストリア軍がたったいしたあと、城は放置され、崩壊がひどくなりました。
3番めの現在の城―プロイセン時代
1819年、当時のプロイセン皇太子で後の国王となるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世がホーエンツォレルン城を訪れ、発祥の城を再建することを決意します。
1846年、ホーエンツオレルン=ヘヒンゲン候、ホーエンツオレルン=ジグマリンゲン候との間で、ホーエンツォレルン城の共同再建に関する契約が結ばれます。
3月革命の影響から、1849年、フリードリヒ・ヴィルヘルム・コンスタンチン・フォン・ホーエンツォエルン=ヘヒンゲン侯爵(Friedrich Wilhelm Constantin von Hohenzollern-Hechingen)は封建領主としての地位を放棄し、プロイセンに帰属することを決定。
政情不安から、当初は居間や応接室のある城の建設計画のみだったのが、稜堡、砲郭、車道、門、跳ね橋を備えた要塞へと計画を変更しました。
資金難と政治的問題から何度も中断を余儀なくされながらも17年の歳月をかけ、1867年10月3日、ついに城の再建が完了しました。
19世紀のロマン主義
古い建物の一部が爆破され、新しい武器庫と塔、聖ミヒャエル礼拝堂の一部が修復されました。
修復のための爆破って、意味分かんない!
今では誤りとされる方法でも、当時の時代の空気としてはこれが当たり前の良きことだったんだよ。今のものさしで考えてはいけないよ。
ゴシック様式の2番めの城の要素を活かし、そこにネオゴシック様式を組合せて再建されました。しかし、2番めの城は粗悪な建材が使用されていたこともあり、活かすことをできたのは地下室と基礎だけでした。
第二次世界大戦後
プロイセン王家の東ドイツにあった領地は失われ、残った領地はかつての1%以下となりました。所有していた城は、戦争で破壊されたものあれば新政府に取り壊されたものもあり……。
唯一残された城がホーエンツォレルン城
悲しいね
悲しいけど、ホーエンツォレルン城はホーエンツォレルン家の発祥の城だから、ときの城主はホーエンツォレルン家の心の拠り所として、原点に連れ戻したと感じていたらしいよ。
ホーエンツォレルン城の公式サイト
ホーエンツォレルン城へのアクセス
山の麓に駐車場があるから、そこに駐めるといいよ。
公共交通機関を利用するなら、ヘッヒンゲン(Hechingen)駅とホーエンツォレルン城の駐車場を結ぶバス路線(夏季のみ)があるから使うといいよ。詳しい時刻表は、ホーエンツォレルン城の公式サイトに案内があるよ。