ハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)の歴史

バーデン・ヴュルテンベルク州

古城街道(Burgenstraße)の有名観光地ハイデルベルク城。プファルツ選帝候(Kurürst von der Pfalz)であるヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の居城。

過去2回の戦争による破壊と1回の落雷の憂き目に合い,最終的に再建することを断念し,廃墟として現在にいたります。

ネッカー川(Necker)を見下ろす山腹にある,古き栄華を偲ばせる城です。

ハイデルベルク城の訪問記は,そちらをご覧ください。

古き栄華ハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)
古城街道(Burgenstraße)の有名観光地ハイデルベルク城。プファルツ選帝候(Kurürst von der Pfalz)でもあるヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の居城。過去3回破壊の憂き目に合い,廃墟と化しました。...
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ハイデルベルク城の変遷

後期ロマネスク様式のブルクが次第に拡張され,強固な要塞となり,豪華な城へと変遷していく様子がCGで再現されています。非常にわかりやすいです。

破壊される直前の城は,どんなに華やかだったのだろうかと,想像力を掻き立てられます。

ハイデルベルク城の歴史年表

12世紀
ヴォルムス司教(Bischof von Worms)が小さなブルク・ハイデルベルクと村をつくりました。
1155年
フリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa)の異母弟であるコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェン(Konrad von Hohenstaufen)が叔父のヘルマン・フォン・シュタールエック(Hermann von Stahleck)と叔母のゲルトルート・フォン・シュヴァーベン(Gertrud von Schwaben)の所有からラインフランケン地域を受け継ぎます。おそらくここにはすでにブルクが建っていたと考えられています。
1214年
ルードヴィッヒ一世・フォン・ヴィッテルスバッハ(Ludwich I. von Wittelsbach)がシュタウフェン家の所有を受け継ぎます。
1225年
ハイデルベルクのブルクの名を文献にはっきりと確認できます。
1294年
オーバーバイエルン公ルードヴィッヒ二世(Herzog Ludwig II. von Oberbyern)から家系が分岐し,ライン地域をプファルツ伯ルドルフ一世(Pfalzgraf Rudolf I.)が受け継ぎます。国王アドルフ・フォン・ナッサウ(Adolf von Nassau)の娘と結婚,兄のルードヴィイッヒ・デア・バイヤー(Ludwig der Bayer)は国王になります。
1303年
この頃の文献によると,ハイデルベルクにはブルクが2つあったことが分かっています。ウンターブルク(Unterburg)は現在城がある場所。オーバーブルク(Oberburg)は僅かに跡が残っているのみです。この頃はまだ城の大部分が木製でした。
1329年
ルドルフ二世(Rudolf II.)がプファルツ選帝候に昇格します。
1386年
ルプレヒト一世(Rubrecht I.)がハイデルベルク大学を設立。二代目プファルツ選帝候です。
1400年
ルプレヒト三世(Rubrecht III.)がドイツ国王にななります。二重の環状城壁,堀,塔を持つ城を完成させます。今の城の原型がこのときにほぼ出来あがります。彼と王妃の姿は聖霊教会(Heiliggeistkirche)にあります。
15~16世紀
フリードリッヒ(Friedrich)とルードヴィッヒ五世(Ludwig V.),オットハインリッヒ(Ottheinrich)により,ブルクから要塞へと姿を変えます。谷側は強化され,山側に城門が設けられます。しかしその一方で芸術面にも力を入れ,居住部分はルネッサンスシュロスとなります。
1525年
農民戦争(Bauernkrieg)により城は要塞として有効に働き,多くの戦利品を得ます。
1559年
オットハインリッヒを最後にプファルツ選帝候家が途絶えます。プファルツ・ジンメルン家(Pfalz-Simmern)のフリードリッヒ三世(Friedrich III.)が引き継ぎます。
1619年
フリードリッヒ五世(Friedrich V.)がボヘミア国王に選ばれますが,ヴァイセンベルクの戦い(Schlacht am Weissen Berg)で皇帝軍に敗れます。在位僅か一年ゆえに冬王(Winterkönig)と呼ばれます。
三十年戦争
フリードリッヒ五世はプロテスタント派として戦い,城と町は大きな被害を受けます。
1649年
フリードリッヒ五世の息子,カール・ルードヴィッヒ(Karl Ludwig)の代になり,城の修復が行われます。破壊された部分は以前よりも良いものに改築されました。
17世紀後半
カール・ルードヴィッヒの息子,カール二世(Karl II.)の代になると,隣国フランスの脅威がありました。城をより強固なものにするために稜堡が設けられました。跡取となる子供がいなかったことから,後に起こる継承戦争を予想していたのかもしれません。
1685年
カール二世が子供を残さずに亡くなると,ノイブルク系のフィリップ・ヴィルヘルム(Philipp Wilhelm)が引き継ぎますが,婚姻関係から継承権を主張してきたフランス国王ルイ14世(Loui XIV.)が攻撃を開始し,プファルツ継承戦争が起こります。このとき皇帝軍はヴィーンからハンガリーでトルコ軍と戦っています。
1688,1689年
フランス軍の計略により,町や村,城が破壊されます。13,500kgの火薬がハイデルベルク城の破壊に使用されました。
1716年
カール・フィリップ・フォン・デア・プファルツ(Karl Philipp von der Pfalz)は城の再建を考えます。しかし,宗教の問題で町と対立し,マンハイムへ政庁を移します。その後も城は歴代所有者により再建が試みられ,一部が再建されていきます。
1764年
不運にも城に雷が落ち,フロードリッヒ館(Friedrichsbau),オットハインリッヒ館(Ottheinrichsbau)等を焼失します。これにより再建が断念されます。
19世紀
ロマン主義運動により城の価値が見直され,城とその歴史が研究されました。城を再建しようと言う意見もありましたが,廃墟の姿のまま復元・維持しようということになりました。史跡観光地となったのも,この頃からのようです。
(両者の意見が存在したことから,一部は再建され,一部は廃墟のままなのでしょう)
プファルツ継承戦争(Pfälzischer Erbfolgekrieg)
ハイデルベルク城の他,ライン川やモーゼル川沿いの城塞が廃墟と化した戦争です。プファルツ継承戦争は,大同盟戦争(Krieg der Großen Allianz),九年戦争(Neunjähriger Krieg),アウグスブルク同盟...

ハイデルベルク城の営業案内

年末年始は時間が変わることがありますので,公式サイトでご確認ください。

城の庭園と大樽

8:00~18:00

薬局博物館

10:00~17:30

Schloss Heidelberg: Staatliche Schlösser und Gärten Baden-Württemberg
Offizielle Homepage von Schloss Heidelberg: Öffnungszeiten, Eintrittspreise, Führungszeiten, mietbare Räume, Infos zu Heiraten im Schloss und vieles mehr.

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