ケーニッヒシュタイン要塞(Festung Königstein)は、チェコとの国境近く、エルベ川左岸の砂岩の岩山にヨーロッパ最大級の山岳要塞建つ要塞。
要塞の歴史・軍事的重要性・観光地としての魅力により、年間50万人以上が訪れます。
ケーニッヒシュタイン要塞は、12世紀に建てられたブルクに起源をもつ巨大な要塞。
その名は、王(König)の城(Stein)を意味しており、古くはボヘミア王の城でした。つまりは王城です。

雲海に浮かぶケーニッヒシュタイン要塞(Festung Königstein)
天候次第では、幻想的な要塞の姿が見れます。
Philipp Konetschni, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

雲海を見下ろす姿は、まるで天空の要塞ね。
この要塞では後期ゴシック様式およびルネッサンス様式、バロック様式、19世紀の防御施設を見ることができます。



歴史の長い城は、いろいろな時代の建物が一箇所で見られるのも魅力。
軍事的拠点としての城の役割を終えた後、独仏戦争や第二次世界大戦では監獄として使用されていたこともあり、「ザクセン監獄」との異名があった時代もありました。
本記事では、ケーニッヒシュタイン要塞の歴史と建築、戦略的意義を紐解いていきます。
ケーニッヒシュタイン要塞の見どころ
過去と現在が織りなすロマンティックなクリスマスマーケット
数字で見るケーニッヒシュタイン要塞は以下に示すようにまさに巨大。
- 高さ361mのテーブルマウンテンの上に立つ
- 城壁は高さ42m、長さ1800m
- テーブルマウンテンの面積9.5ha
要塞からはエルベ川を一望でき、エルベ川を航行する船を眺めることができます。
あまりにも堅固な要塞であるため抑止力となり避けられたため、戦時には安全な避難場所として国家備蓄および機密文書の保管場所としても使用されたほどです。
マグダレンブルク(Magdarenburg):歴史と見どころ


1622年に大型の快楽宮として門楼の背後に独立した建物として、マグダレンブルクが建設されました。


ケーニッヒシュタイン要塞のワインセラー
マグダレンブルクには、かつてアウグスト一世強王がハイデルベルク城のプファルツ選帝侯と争って勝利した大樽がありました。
249,838Lもの巨大な容量を持つ大樽です。
Jörg Blobelt, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
ケーニッヒシュタイン要塞の大樽がワインで満たされたのは一度しかなく、1818年には残念ながら老朽化のために残念ながら撤去されています。
アウグスト強王には敗北したとはいえ、ハイデルベルク城には大樽が保存されており、見学できます。


当初は快楽宮として建築されたマグダレンブルクですが、その後1819年には食料庫に改修されました。
アウグストの井戸(Augustusbrunnen):水源確保の歴史


Brücke-Osteuropa, CC0, via Wikimedia Commons
高い山の上に立つ山城にとって、水の確保は最重要課題。
ケーニッヒシュタイン城に設けられた井戸の深さは152.5mあり、ヨーロッパで2番めの深さを誇ります。



水は城の生命線。井戸が完成するまで、雨水や貯水槽に頼っていたよ。
ヨーロッパ最深の城の井戸は、同じくドイツのキフホイザー城


日本と違って、水は贅沢品。


軍事歴史野外博物館


旧武器庫、新武器庫、財務館、旧兵舎等が整備され、博物館として利用されています。
- 捕虜の生活
- 司令官の生活
などが、わかりやすく展示されています。



軍事オタクにはたまらないかもね。
さまざまなインテリアが収集され、常設展示やイベント展示など、訪問者を楽しませてくれます。
冷戦時代の地下壕
1990年、東西ドイツが再統一されました。
ドイツ再統一前、ドイツ民主共和国、いわゆる東ドイツ時代の遺物である地下壕が、そのまま残っています。
ケーニッヒシュタイン要塞公式サイト
ケーニッヒシュタイン要塞の歴史:その起源から現在まで


Stephan Hoppe, CC0, via Wikimedia Commons
エルベ川は古くから交易路として利用され、ボヘミア王の命により領地の北側を支配する拠点として、この地は発展しました。
城の歴史は中世初期にまでさかのぼり、ボヘミアとザクセンの間で争われた激動の時代を示すものとなっています。
発掘調査によると、青銅器時代にはすでに人が住んでおり、城として利用され始めたのは11世紀末であることが分かっています。
12世紀にはこの地に城がすでに存在していました。最古の城の建造物はブルク教会の壁で、12、13世紀頃のものとされています。
スラブ時代から中世時代
ケーニッヒシュタイン要塞のある場所は、スラブ時代(600~100年頃)にはすでに城があった可能性がありますが、残念ながらまだ確証はありません。
12世紀、この地に城塞が築かれ、1200年頃にはロマネスク様式の礼拝堂も建設されました。



ボヘミア王国の北部国境を守る前哨基地としての役割を果たしていたよ。
- 1233年
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「王の石」(castrum in lapide regis)の名で初めて文献に登場します。この名は、ボヘミア王ヴェンツェル1世(Wenzels I. von Böhmen)の記録に記されており、以来「ケーニッヒシュタイン」という名前が定着しました。
皇帝の城
1359年には、神聖ローマ皇帝カール4世がケーニッヒシュタインを訪れ、この城を「皇帝の城」(Kayserburg)と呼ぶようになりました。いわゆる帝国城塞です。
カール4世は、この要塞と周辺の狩猟地を高く評価し、頻繁に利用したと言われています。
- 1359年
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神聖ローマ皇帝カール4世がケーニッヒシュタインを訪れ、この城を「皇帝の城」(Kayserburg)と呼ぶようになりました。カール4世は、この要塞と周辺の狩猟地を高く評価し、頻繁に利用したと言われています。
戦略的および交易拠点としての重要性が高まりました。
帝国城塞とはどのような城なのか、詳しくは下記で紹介しています。


中世の防衛拠点として
マイセン辺境伯はドーナおよびボヘミアへと所有権の拡大を図り、ドーナ争乱(Dohnaischen Fehde)が勃発しました。
この時期に、台地を囲む城壁や防衛施設が増強され、堅固な要塞としての地位を確立されています。
- 1402年
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ドーナ城伯イェシュケ(Dohnaer Burggraf Jeschke)がケーニッヒシュタイン城に逃れ、マイセン辺境伯ヴィルヘルム1世(Wilhelm I.)が城を包囲。
- 1406年
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4年に及ぶ籠城戦の末、ついに城は陥落。
城があまりにも堅固で、兵糧攻めにするしか方法はなかったみたい。
それにしても、4年は長い!
- 1408年9月
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1407年に再びボヘミア軍が取り返しますが、1408年9月にマイセン辺境伯に占拠されます。
ボヘミア(現在のチェコ)を中心に起こった宗教戦争。
宗教改革の先駆者であるヤン・フス(Jan Hus)の思想を支持するボヘミアのフス派と、カトリック教会および神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントとの間で戦われ、フス派の敗北に終わりました。
1429年、1430年、1432年、フス派は何度も城を攻撃しましたが失敗に終わります。周辺の村々のほとんどは瓦礫と化しています。
- 1459年
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エゲル条約(Vertrag von Eger)により、ザクセンとマイセンの国境が確定。ケーニッヒシュタインはマイセン辺境伯に譲渡されました。
エゲル条約ブランデンブルク辺境伯による和平協定。ボヘミア王およびヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家、ホーエンツォレルン(Hohenzollern)家、ヴェッティン(Wettin)家といった有力ドイツ諸侯の間でスウスウ感にわたる協議の上に締結された。
これによりボヘミアとザクセン間の紛争が解決されたよ。
ルネサンス期の大規模改修


16世紀後半、ザクセン選帝侯クリスティアン1世(Kurfürst Christian I. von Sachsen)の治世下で、要塞は本格的な軍事拠点として拡張されました。
髭公ゲオルグ(Herzog Georg der Bärtige)は宗教改革に断固として反対していましたが、1516年に公爵が亡くなるとプロテスタントになりました。
- 1563年~1569年
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ヨーロッパ第2位の深さを誇るアウグストの井戸が掘削されます。アウグストの井戸と呼ばれるようになったのは、18世紀になってからです。
かなりの難工事だったようだよ。
- 1589年~1591年
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選帝侯お抱えの建築士パウル・ブフナー(Paul Buchner)が政庁部分も要塞部分も担当し、監督します。
- 監視塔のある高い城壁
- 三翼ファサードをもつ要塞門
- 門楼とシュトライヒヴェア(Streichwehr)
- 武器庫を兵舎に改築
など、防御力のある門が建設されました。
フリードリヒスブルク(Friedrichsburg)
クリスティアヌスブルク(Christianusburg)現フリードリヒスブルク(Friedrichsburg)が、祝祭を行うために建てられました。
Brücke-Osteuropa, CC0, via Wikimedia Commons
エルベ川を見下ろしながらのパーティは、さぞかし素敵だったことでしょうね
バロック時代
三十年戦争後、再び活発な建設活動がありました。
マグダレンブルクが建設されたのは、この時期です。


- 1667年~1669年
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ヨハン・ゲオルグ稜堡(Johann-Georgenbastion)
ケーニッヒシュタイン要塞の特徴の一つとも言えるようなヨハン・ゲオルグ稜堡が建設されます。
Stephan Hoppe, CC0, via Wikimedia Commons
19世紀:要塞としての大改修
ケーニッヒシュタイン要塞は19世紀にもなると宮廷としての役割を終えましたが、軍事施設としての役割は依然としてあり、近代要塞へと改修工事が施されました。
- 1631年建設のヨハニス・ホール(Johanniszaal)→新武器庫(Neuen Zeughaus)
- マグダレンブルク→食料庫
- 旧食料庫→兵舎
ケーニッヒシュタイン要塞はドイツ要塞システムに組み入れられ、台場が8つもある城壁が建設されました。
20世紀:刑務所から博物館へ
1870年の普仏戦争と2度にわたる世界大戦のとき、捕虜収容所として使用されました。
第二次世界大戦中は軍事病院としても使用されています。
また、ドイツ民主共和国(いわゆる東ドイツ)時代の一時期、共産主義に反する非行少年や若者を再教育する場所として使用されたこともあります。
観光施設として
東ドイツ時代からすでに観光地化の動きがあり、観光客が楽しめる展示施設へと次々と大規模改修工事が行われました。
年間約50万人が訪れる名所となり、要塞は歴史博物館として生まれ変わりました。


ケーニッヒシュタイン要塞では様々なイベントが行われており、訪れる人を楽しませてくれます。
Jörg Blobelt, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
ケーニッヒシュタイン要塞へのアクセス
付近に有料の駐車場があります。
公共交通機関で行く
マイセンおよびドレスデンからS-Bahnに乗り、ケーニッヒシュタイン駅で下車。