マイン川(Main)の下流、タウヌス山地(Taunus)の南嶺に位置する山城です。
フランクフルト(Frankfurt am Main)近郊にある下級貴族のクロンベルク家の城。
フランクフルトに近く、日帰り観光できる中世騎士の城だよ
クロンベルク家は下級貴族でしたが、政治的能力や領土運営がうまかったために裕福で、街とともに繁栄しました。
上級貴族なみに領土を拡大して繁栄したのに、家族間の宗教対立もあって没落しちゃったんだよね
ここでは、そんな山あり谷ありの歴史を歩んだ、クロンベルク城を紹介します。
クロンベルク城は、共同相続城砦です。
ゲルマンの伝統は分割相続です。しかし分割相続すると、所領は細分化されていってしまいます。これを防ぐために共同相続という手法を用い、共同管理、共同所有の形で本家および分家で相続することがありました。
所領だけでなく城も共同相続の対象となり、代々共同相続されます。
クロンベルク城の構造と見どころ
クロンベルク城は、下図のように大きく3つの部分で構成されています。
クロンベルク城の見取り図
上城(Oberburg):13世紀頃に建てられた最も古い部分
中城(Mittelburg):16世紀頃に建てられたシュロスな部分
下城(Unterburg):近世になって建てられた部分
時代とともに変化する城の変遷を見ることができるよ。
城では、お年寄りがボランティアで店番をやっていました。シルバーボランティは、一般的な光景です。
城の中庭では、
城の中庭ののどかな一コマ
- 日向ぼっこをしている人
- ボールを投げて遊んでいる子ども
天気の良い日のほのぼのとしたドイツの日曜日の風景が城の中にありました。
ベルクフリート
ベルクフリートは展望台として利用されています。
塔からはフランクフルト市が一望できる素晴らしい眺望があるようなのですが……
背が低いからよく見えなかった……
高さは42.5mあります。
他の城のベルクフリートと同じように、1階部分は地下牢となっていました。
城壁通路
塔や建物を結ぶ城壁の上には胸壁が残っており、通路が設けられているのがよくわかります。
クロンベルク城のガイドツアー
まずは城の歴史の簡単な説明から入ります。
最初は神聖ローマ帝国に仕えるミニステリアーレ(Ministeriale)の一家が住み、その家系が18世紀に途絶え、その後……。
次に上城に向かいます。
上城からの眺めは最高で、上城から下の中城や下城を眺めながら、それらの説明を受けました。
上城
上城からの眺めは最高で、上城から下の中城や下城を眺めながら、それらの説明を受けました。
シュタウフェン朝時代の典型的なブルクです。
1階部分に入り口はなく、梯子で3階から入っていたようです。
石階段を上って塔に入りましたが、きっとそれは後付け。
騎士文化が最も花開いた時代の建物だよ
説明を受けている近くの塔の跡には、かつて井戸がありました。
最上階の細くなっている部分は火器の発達した16世紀に増設されたものらしい。見晴らしが良いから見張り塔として使われたとか。
礼拝堂
上城に入るために通ってきた門は、ただの通路だと思っていましたが、礼拝堂だった建物でした。
礼拝堂も面影が全くないんだけど……。言われてみれば小さな礼拝堂に見えなくもない……
中城
1400年頃に建てられました。
防御性重視で居住性無視の上城と違って、暖房設備が整い、快適に住めるようになっているシュロス部分が中城です。
もともと分家の家族の人たちが住むために建てられたものです。
本家は上城に住んでいましたが、時代が下ると本家も中城に住みました。
快適な居住空間を求めて、本家も移ってきたんだね
城の内部
最初の部屋には城の模型と大きな絵。
1389年のクロンベルクの戦い(Kronberger Schlacht)の様子を描いたもの。
帝国自由都市フランクフルトとの戦争で、フランクフルト側に勝った戦い。絵は2枚描かれたようですが、もう1枚はフランクフルトの博物館にあるそうです。
この戦いの物語は,親から子へと代々語り継がれていきました。
次の部屋は食料置き場でしょうか。バター作りの道具が置いてありました。
台所
部屋全体がすす(?)で真っ黒になっています。
でっかい鋸のようなものがいっぱい置いてあり、そのギザギザを使って火からの距離を変化させることによって火加減を調節していたのだとか。
井戸には今でも水があります。
ガイドさんが懐中電灯を照らして、
懐中電灯の光が水鏡に反射するのがわかるかしら?まだ水があるのよ。今は「地下水」+「雨水」だけどね。
台所にはいろいろな鍋、アイロン、燭台が置いてありました。
ガイドツアーはこれで終了。
説明個所は少ないけど、1個所でいろいろな説明をたくさんしてくれたので、小さな城なのにこれでも1時間近くかかってました。
クロンベルク城の公式サイト
クロンベルク城の歴史
近くにザールブルク城があることから、この地は古くはローマ帝国の前線基地。中世時代はファルケンシュタイン公が支配する地域でした。
ファルケンシュタインの領主が断絶すると、下級貴族のクロンベルク家が頭角を現し、国や教会の高官として地位を確立していきました。
シュタウフェン朝時代
クロンベルクの名前が登場する以前に、他の名称で文献には登場しています。
フリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa)は騎士やブルクマン、自由領主たちを帝国ミニステリアーレとして帝国領の管理を任せていました。
- 1150年頃
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エシュボルン城(Burg Echborn)城主の名前で登場します。この頃はまだ名字がありませんでしたが、調査によりクロンベルクとエシュボルンの家系は同一であることがわかりました。
エシュボルン家は帝国ミニステリア―レの一人です。
エシュボルンは770年にロルシュ(Lorsch)修道院領として言及されており、ニッダガウ(Niddagau)で最も古い母教会がありました。
- 1216年から1223年
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ハルトムート・フォン・エシュボルン(Hartmut von Eschborn)は、アルトケーニッヒ山の斜面に新しい城を築きました。この新しい居住地を、クロンベルク(Cronberg)またはクローネンベルク(Cronnenberg)と名付けました。
王冠系がここに移住します。
- 1230年
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クロンベルクとして文献にはじめて登場します。
皇帝の十字軍やイタリア遠征に参加したとき、兄は翼を、弟は王冠を紋章の中に入れました。
以後、それぞれ王冠系、翼系として紋章とともに分家を受け継いでいきます。
クロンベルク家の繁栄
クロンベルク家は、類まれなる政治手腕と経営手腕により、富を築きます。何よりも帝国自由都市フランクフルトとの関係が、クロンベルク家に富をもたらしました。
- 1299年
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エバーヴァイン・フォン・クロンベルク(Eberwein von Cronberg)がヴォルムス司教になります。
この時代の教会職は、中世貴族にとって憧れの的だったよ。
- 1324年
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大司教区の世襲制酌取りとなります。
- 1327年
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オーデンヴァルト(Odenwald)のシュタルケンブルク(Starkenburg)城伯職を取得。
大司教に大金を貸与するなど、馬3,000頭分の価値に相当する大金を自由に扱えるほど、貸金業により成長していきます。
- 1341年
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クロンベルクはフランクフルトと同盟を結びます。クロンベルク家は、フランクフルトに領土を持っていたことがわかっていますが、どこにあったのかは定かではありません。
- 1356年
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大司教からロンネブルク城(Burg Ronneburg)を担保として受け取り、1407年まで城を拡張し続けました。
- 1357年
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マインツの世襲司厨長になり、ラインガウの副総督の職も担うようになりました。
都市フランクフルトとの衝突(1389年、クロンベルクの戦い)
14世紀になると、新興勢力として財力のある都市が台頭してきました。
帝国都市フランクフルトでは、関税や吏員権、視聴の任命権などを皇帝から次々と買い取っていったため、都市における皇帝の権威は消滅していきました。
クロンベルクも、この動きに巻き込まれることになるよ
フランクフルト軍の動き | クロンベルク軍の動き |
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クロンベルク家が所有するヴェッテラウ(Wetterau)の農場とニーダーヘキシュタット(Niederhöchstadt)の家屋を焼く | オッペンイム伯とハーナウ卿に援軍を申請する |
市民と職人の半数と募集兵の計2,000人の軍隊がクロンベルクに進軍 | |
当時の最新兵器ライフルを携えて、城壁に石球を打ち込む | |
マインツ、ヴォルムスを始めとする同盟都市に援軍を求めるが失敗に終わる | |
クロンベルク前に陣取り、周辺の畑や民家を焼き払い、木の皮を剥いて枯らす | 宮中伯の軍隊が向かっていることを知ると、進軍の準備をする |
騎馬隊とともにフランクフルト軍の側面を攻撃 | |
市長、旗手、市議会メンバー他613名が捕虜となる |
フランクフルト軍が敗北し、都市フランクフルトは当時としては破格の73,000ゴールドギルダーを6回の分割で支払うことになりました。
戦いではフランクフルトは負けたけど、実際にはそれほど敗北を感じていなくて、フランクフルトはますます栄えていったよ。
1394年、フランクフルトとクロンベルクは再び同盟を結んでいます。
フランク11世・フォン・クロンベルク裕福候(1461年没)の時代
フランクは金融取引の才能があり、父から受け継いだ遺産を資産運用によって増大させました。
周辺の都市や村を次々と買収し、資産面では上級貴族に匹敵するほどになりました。
皇帝ジギスムントの文書によると、フランクは自由領主に昇格し、上級貴族と同等となりました。
それまでは不自由民だったの?
裕福だけど、不自由な帝国ミニステリア―レの家系だったからね
クロンベルクの宗教問題と戦争
ハルトムート・フォン・クロンベルク(Hartmut von Cronberg:1488-1549)は理想に燃える帝国騎士でした。
帝国職を辞し、選帝侯を非難するようになります。
時代の変化に対応できなかった人物とも言えるんだけどね
農民戦争が勃発し、1522年、クロンベルク城はフィリップ・フォン・ヘッセン方伯とプファルツ選帝侯、トリアー選帝侯の軍に包囲されました。
この時に打ち込まれた砲弾が、現在の主塔に刺さっています。
クロンベルクは敗北し、都市と城はヘッセンの支配下に19年間入っていました。
ハルトムートはそのあいだ国を追放され、その後、戻されました。城が戻ってきた後、ハルトムートはこの城で8年間暮らしました。
宗教対立ゆえに……
クロンベルク家の宗教は割れていました。プロテスタントのハルトムートと、カトリックのヴァルター(Walter)。
いとこ同士の2人は敵対することなく、ハルトムート亡命中、ヴァルターはハルトムート復職のためにフィリップ方伯に働きかけてもいました。
しかし次第に一族は不和になって分裂し、最後は消滅していきました。
三十年戦争
宗教の違いによる分断が表出します。
クロンベルク家のプロテスタント派の人も、以前はカトリックのマインツ選帝侯国の公職に就いていましたが排除されました。
代わってカトリック派ヨハン・シュヴァイカート・フォン・クロンベルク(Johann Schweikart von Cronberg)がマインツ選帝侯につき、プロテスタント派を冷遇。
追放されたプロテスタント派の領土を獲得し、1630年には帝国伯爵に昇格。
ちなみに都市クロンベルクはどちらかというとプロテスタント派
市民に信仰の自由はなかったの?
領民に信仰の自由はなく、「領主の信仰」=「領民の信仰」を強いられていたよ。信仰を貫くためには都市を離れるしかない。
クロンベルク家の滅亡とその後
クロンベルク家の最後の一人が1704年に亡くなりました。彼は独身で人を避け、信心深い男でした。
一族の資産はマインツ選帝侯が差し押さえたため、プロテスタント派住民との対立が深まり、ついには衝突します。
- 1763年
-
フリードリヒ大王が勝利したことにより、マインツ選帝侯は降伏。
- 1796年
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フランスがクロンベルクを占領。
礼拝堂は馬小屋として使われ、家具は破壊されました。
- 1803年
-
帝国代表者会議主要決議によりマインツ選帝侯国は解体され、クロンベルクの都市と城はナッサウに譲渡されました。
上城は徐々に崩れ、外郭や内郭は周辺地域の採石場として使用されました。
城の修復
- 1888年
-
ヴィクトリア王女(皇后フリードリヒ)
皇帝フリードリヒ3世(Kaiser Friedrich III.)がわずか3カ月の在位で亡くなると、未亡人のヴィクトリアは、新しい住居を探していました。
タウヌス山脈の南斜面に位置し、風光明媚で気候も温暖なクロンベルクに特に惹かれました。
彼女の意向により、修繕工事が始まります。
旧領主たちの歴史を調べるのが、彼女の趣味だったみたい
- 1912年
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一般公開されます。
- 第二次世界大戦
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空襲により、貴重な芸術作品、兵器コレクションの殆どが姿を消しました。
- 1989年
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フランクフルトのとある金持ちが買い、その後クロンベルクの町が700,000DMで買い戻しました。
クロンベルク城へのアクセス
フランクフルト(Frankfurt am Main)からS4番の電車に乗り、終点のクロンベルク(Kronberg)で下車。
次に917番のバスに乗り、1駅先のBerliner Platzで降ります。
バスを降りたら旧市街(Altstadt)に向かって歩きます。
すぐに“Burg Kronberg”の小さな看板が見つかると思います。看板にしたがって石畳の道を進めば、城に辿り着けます。