日本ではよく雲海の上にそびえ立つ天空の城として紹介されることのあるホーエンツォレルン城。
晴れた日にはその美しい姿を見せますが、この城は天気によっていろいろと表情を変え、時に美しく時に妖しい、いや、怪しい城と映ります。
城山塔子たまたま訪れた時の天気が悪かったからなのか、コウモリが似合いそうな怪しい城にしか見えなかったよ。
| 城の立地 | 山城(山頂) |
| 城の種類 | 名前はブルク(軍事拠点)だが、実態はシュロス |
| 城主の階級 | ツォレルン伯爵→ホーエンツォレルン侯爵→プロイセン国王→ドイツ皇帝→プロイセン王家+ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵家 |
| 現在の所有者 | プロイセン家(2026年~) |
| 11世紀前半 |
シュヴァーベンアルプ(Schwäbisch Alb)にある、ツォラー山(Zollernberg)の山頂に建つホーエンツォレルン城は、ホーエンツォレルン(Hohenzollern)家の発祥の城。
ホーエンツォレルン家といえば、後にプロイセン国王やドイツ皇帝を輩出した名門家系。
ホーエンツォレルン城は、ホーエンツォレルン家発祥の城という場所だけでなく、ホーエンツォレルン家の精神的な拠点としての意味も持っています。



現在の城は中世の頃に建てられた城の跡は殆ど無くて、新ゴシック様式で建てられた新しい城だよ。
ホーエンツォレルン城は建築と破壊を何度も繰り返した城で、現在の城は「3代目」の城。
現在もホーエンツォレルン城はホーエンツォレルン家の私有財産であり、3代目の城の再建時の資金提供に応じ、以下のようになっていました。
- 2/3が旧プロイセン王家
- 1/3がホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵家
2026年1月1日、ジグマリンゲン家の持ち分が移転されたため、現在はプロイセン家の単独所有になっています。



現在も城主様(ゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン(Georg Friedrich Ferdinand Prinz von Preußen))が時折滞在していて、その際には旗が上がるよ。
本記事では、ホーエンツォレルン城の歴史を紹介します。
ホーエンツォレルン城の見どころについては、こちらの記事をご覧ください。


ホーエンツォレルンの名前の由来


現在では「ホーエンツォレルン」という名で知られていますが、元々は「ツォレルン」でした。
14世紀に一族の地理的・社会的地位の高さを強調するために「Hohen(高い)」という接頭語が付け加えられ、ホーエンツォレルンと名乗るようになりました。
- ホーエンシュタウフェン家(Hohenstaufen)
- ホーエンローエ家(Hohenlohe)
「Zoller」の語源はラテン語の「mons solarius(太陽の山)」。
3世紀頃までこの地に居住していたローマ人たちの礼拝の場であった可能性も指摘されており、「solarius」→「zolorin」→「zolre」→「Zollern」と変化したと考えられています。



ということは、「ホーエンツォレルン」は「高貴な太陽の山」という意味になるのかしら?



ホーエンツォレルン家の出世街道を考えると、全く名前負けしてないよね。
ホーエンツォレルン城の歴史
ホーエンツォレルン家の起源は、他の王侯貴族と同じように歴史的には定かではありませんが、城の歴史は、以下の事柄と密接に結びついています。
- ホーエンツォレルン家の歴史
- 特にシュヴァーベン系とフランケン=ブランデンブルク=プロイセン系への分裂と発展
- 城のある地域の政治的・軍事的状況


初代ホーエンツォレルン城:11世紀~1423年


ツォレルン山には樹木がなく、城兵に気づかれることなく敵が城に接近することはほぼ不可能であったため、ブルクの建設には理想的な場所でした。
- 1061年
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ホーエンツォレルン家の名が史料に初めて登場。すでにツォラー山に住んでいたと考えられています。
- 1267年
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城の建物が文書で初めて確認できますが、考古学的な調査によると、最初の城は11世紀前半にはすでに建設されていたと推測されています。
当時としては大規模で設備の整った城で、
- シュヴァーベン地方の城の王冠
- ドイツの地で最も堅固な家
とも称賛されていました。
当時の城は現在のものと比べるとかなり小規模なものであり、
- 環状囲壁
- ベルクフリート
- 礼拝堂
といたってシンプル。居住スペースが限られていたのではないかと推測されています。
1192年にニュルンベルク城伯の地位を得たフリードリヒ3世の死後、息子たちの間で所領の分割が行われました。所領がシュヴァーベンとフランケン(ニュルンベルク周辺)と遠く離れたことも理由の一つです。
兄のコンラート1世がフランク=ブランデンブルク=プロイセン系となり、フランケン地方の領地を継承。
弟のフリードリヒ4世(または2世)がシュヴァーベン系を継承し、一族の発祥地の地であるホーエンツォレルン城と周辺所領を継承しました。
初代の城の破壊
最初の城が破壊された時の記録は、文書として残っています。
原因は、当時の城主フリードリヒ12世(エッティンガー)。
フリードリヒ11世・フォン・ツォレルン伯が1401年に死去すると、5人の息子たち(全員フリードリヒ)のうち、上の2人が資産を共同管理することになりました(下の3人は聖職者)。
一人はエッティンゲン(Oettingen)伯爵の元で教育を受けたためエッティンガーと呼ばれています。
エッティンゲン伯爵の城といえばハールブルク城


エッティンガーは弟のアイテル・フリードリヒ1世と遺産相続や共同統治を巡って激しく対立。
気性の激しいエッティンガーと冷静沈着なアイテルは反りが合わず、争い始め、ついには弟を追い出してしまいます。
エッティンガーはその頃、多額の借金を重ねており、シュヴァーベン帝国自由都市と対立、強盗騎士のような行いをするといった素行の悪さが目立っていました。
エッティンガーは友人に援軍を頼んだものの、皇帝から帝国アハト刑を受けたエッティンガーに対し援軍を送ることはできません。
約10ヶ月に及ぶ包囲戦と兵糧攻めの末、食料と水が底をつき、ついに城は陥落しました。
城には、昼夜を問わず攻城兵器により弾丸が投げ込まれていたと伝えられています。
- 1422年夏
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アイテルと18のシュヴァーベン都市同盟、ヘンリエッテ・フォン・ヴュルテンベルク(Henriette von Würtemberg)軍はホーエンツォレルン城へ進軍し、包囲を開始。
城は険しい山頂にあったため、兵糧攻めを採用すると同時に、投石機の他、当時としては最新技術であった大砲を用いて昼夜を問わず攻撃。
- 1423年5月15日
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城は陥落し、徹底的に破壊され、皇帝ジギスムント(Sigismund)は、城の再建を禁止しました。
この1422年から始まった包囲戦は、ツォレルン家の乱(Zollernfehde)と呼ばれています。



戦争に負けると城は徹底的に略奪され、破壊されるのだけれど、当時の慣習に反して、礼拝堂まで壊されちゃったんだよ。



礼拝堂まで壊されちゃうなんて、エッティンガーって人は、どんだけ嫌われていたのよ!
援軍を禁止したり、城の再建を「永遠に」禁止したのはそれだけ戦いが激しかったのか、エッティンガーその人自身がひどく嫌われていたのか、その両方なのかも知れません。
2代目の城:1461年~


再建禁止令が出されていたホーエンツォレルン城ですが、エッティンガーの甥に当たるヨス・ニクラス1世伯爵(Jos Niklas I.)は再建解除を求めます。
フランク系親族の支援も得て、ついに皇帝フリードリヒ3世の許可を得ることに成功。
1454年に定礎式を行い、1461年に城が完成します。
最初の城よりも堅固で大規模な要塞として設計された馬蹄形の城は、以下のような構成になっていました
- パラス
- 聖ミハエル礼拝堂(St.Michaelkapelle)
- ベルクフリート3つ
- 皇帝の塔(Kaiserturm)
- 辺境伯の塔(Markgrafenturm)
- 司教の塔
皇帝の塔と辺境伯の塔は再建に力添えをしてくれた皇帝と辺境伯への敬意を示しており、司教の塔はアウグスブルク司教になった長男にちなんで命名されました。この3つの塔のベルクフリートの名は、現在の城にも継承されています。
第2の城の構造物のうち、唯一現存しているのが聖ミハエル礼拝堂です。
居城としての終焉
16世紀にもなると、多くの王侯貴族は生活に不便な山城から、快適な都市部のシュロスへと生活の場を移します。
ホーエンツォレルン城も例外ではなく、1576年、アイテル・フリードリヒ4世伯爵が当主になると、ついに居住地をヘヒンゲン(Hechingen)に移しました。
ホーエンツォレルン城に居城としての役割はなくなったものの、敵の攻撃に備えての避難場所として使用するために所有され続けました。
三十年戦争(1618-1648)
三十年戦争の危機が迫る中、当時の当主ヨハン・ゲオルグ(Johann Georg)伯爵は、稜堡(Bastion)の環状壁を増築し、城の要塞化を推し進めました。



この改修によって、ホーエンツォレルン城は難攻不落の城とみなされていたよ。
ヨハン・ゲオルグ(Johann Georg)伯爵は皇帝側につき、カトリック同盟への貢献が認められて1623年に帝国侯爵に昇格しています。
城は重要な避難場所と見なされ、ヘヒンゲンの城やシュテッテン修道院、近隣の村々から貴重品が運び込まれました。
カール・フォン・ホーエンツォレルン=ハイガーロッホ(Karl von Hohenzollern-Haigerloch)侯爵も家族や使用人たちとともに城に逃げ込みます。
プロテスタント勢力が優勢になると、カトリック派のホーエンツォレルン家は孤立しました。
- 1633年夏(7月頃)
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プロテスタント勢力のヴュルテンベルク軍が城を包囲。
侯爵家だけでなく、兵士の家族など多くの避難民が逃げ込んだ城の居住スペースは逼迫していました。
城は強固であったため、ヴュルテンベルク軍は兵糧攻めにでます。
地下通路を使って外部との連絡や物資の搬入が試みられましたが、避難民を賄うには十分ではありません。
冬になると飢えだけでなく、寒さにも苦しむようになります。
- 1634年1月
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カール侯爵は密かに城を脱出。皇帝軍に助けを求めましたが援軍は来ず、侯爵自身も逃亡先で病死してしまいました。
これにより、ハイガーロッホ家は断絶。
- 1634年4月3日
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食料が尽きた城はついに降伏。
城兵たちは名誉ある撤退を許されましたが、城はヴュルテンベルク軍に占領され、略奪されました。



周囲から運び込んだ貴重品の数々が、この時略奪されちゃったのかしらね。

城山塔子

戦争による破壊だけでなく、この時ペストも猛威を振るっていたから、ヘヒンゲン侯爵領は1700軒あった家が400軒にまで減ってしまったんだよ。
- 1635年11月1日
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ヴュルテンベルク軍による占領は長く続かず、皇帝側のバイエルン軍が偽の手紙を使った策略により、城を無血奪還します。
城の所有権はホーエンツォレルン家にありましたが、管理権は約1世紀にわたりオーストリアのハプスブルク家に委ねられ、オーストリア軍が駐屯します。



でも結局その支援金だけではすべて修理しきれなくって、18世紀初頭には崩壊してちゃったけどね。


オーストリア継承戦争(1740年~1748年)
オーストリア継承戦争時、ホーエンツォレルン城はハプスブルク家の管理下にありました。
ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国は当初、中立を保とうとしましたが、以下の理由で戦乱に巻き込まれることは避けられませんでした。
- 敵対関係:オーストリアと敵対していたプロイセンを支援するため、フランス軍がこの地に侵攻
- ハプスブルク家による管理:三十年戦争以降、オーストリア軍が駐留する権利を持つ
- 侯爵の立ち位置:ハプスブルク側
- 1744年冬
-
プロイセンを支援するフランス軍がヘヒンゲンの町を占領。その後、城を巡る交渉が行われ、無血開城されました。
ホーエンツォレルン城は、当時敵対していたオーストリア軍が駐留していた城であると同時に、フランスの同盟国であるプロイセン王家発祥の地。
フランス軍にとって同盟国であるプロイセン国王発祥の城を破壊することは、外交的にも政治的にも得策ではありません。
とはいえ、城の所有者であるシュヴァーベン系ホーエンツォレルン家はカトリックであり、オーストリア側に就いて戦っています。



なんだかすごく複雑な状況ね。
城の守備側(オーストリア軍)にとって勝ち目がない状況であり、フランス側にとっては同盟国プロイセン発祥の城を無傷で手に入れることが望ましく、交渉が成立。
無血開城に至りました。
3代目の城


3代目の城は、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(Friedrich Wilhelm IV.)の個人的な願望から始まります。
現在ホーエンツォレルン城は王族が常駐する場所というよりは、一族の歴史を誇示するためのモニュメントとしての性格を強く持っています。
- 1819年
-
当時まだ皇太子だったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世(Friedlich Wilhelm IV.)は、イタリア旅行の途中で一族のルーツを知りたいと、ツォラー山に登りました。
山の上は、廃墟と化した2代目の城。
この時の夕日の美しさとも相まって、再建することを決意しました。
後に彼は

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世

1819年の思い出は、私にとって非常に愛おしい夢物語のようだったんだ。
と語っています。
- 1846年
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城を再建するにはプロイセン家だけでは資金が足りません。
シュヴァーベン系ホーエンツォレルン家であるホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家とホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家にも声をかけ、共同債権に関する契約が結ばれます。
シュヴァーベン系が3分の1を負担し、プロイセン家が3分の2を負担し、以後、2025年末までこの所有比率(プロイセン家2/3、シュヴァーベン系1/3)が維持され、両家の私有財産となっていました。
- 1849年
-
1848年の革命の動乱を受け、ヘヒンゲン家とジグマリンゲン家は主権を放棄し、プロイセンに帰属することを決定します。同じ一族であるプロイセン国王に守ってもらうことを選びました。
- 1850年
-
国王となった彼は、ホーエンツォレルン家発祥の城を再び居住可能な状態にするために、「少年時代の夢」と呼んだ再建プロジェクトを開始しました。
当初は今や応接室のある城の建設計画のみだったのですが、稜堡、砲郭、車道、門、跳ね橋を備えた要塞へと計画が変更されています。



要塞化は、戦争の足音が聞こえてくる時代だったからなのかしら?
- 1867年10月3日
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資金難と政治的問題から何度も中断を余儀なくされたものの、17年もの歳月をかけ、ついに完成します。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟であるヴィルヘルム1世(後のドイツ皇帝)の治世下で城は完成・落成しました。
- 1869年
-
ヘヒンゲン家が断絶し、ヘヒンゲン家の資産はジグマリンゲン家へと引き継がれました。
3代目の城の特徴
既存の廃墟の上に、馬蹄形の宮殿として建設されています。
2代目の城の要素を活用しようと試みられましたが、2代目の城には粗悪な建材が使用されていたこともあり、活かすことができたのは地下室と基礎のみです。
設計はベルリンの有名な建築家であるフリードリヒ・アウグスト・シュテューラー(Friedrich August Stüler)が担当。
19世紀のロマン主義を具現化したネオ・ゴシック様式で建設されました。中世の騎士城を理想像とし、堅実で「英雄的な男らしさ」を持つプロイセン様式と評されています。
ホーエンツォレルン城には礼拝堂が2つあり
- 聖ミハエル礼拝堂(カトリック):1454年~1461年に立てられた2代目の城で唯一現存する建物
- キリスト礼拝堂(Christuskapelle:プロテスタント):プロテスタントのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の命により新たに増築



カトリックのシュヴァーベン家とプロテスタントのプロイセン家。両方の信仰が共存できる形になっているね。
第二次世界大戦後
プロイセン家は東ドイツの領土を失い、残された領地はかつての1%以下。
所有していた城は戦争で破壊されたものもあれば新政府に取り壊されたものもあり、
唯一残された城がホーエンツォレルン城。



悲しいね。



運命が、ホーエンツォレルン=プロイセン家を、数百年前に歴史への行進を開始した出発点へと連れ戻したんだ。
ホーエンツォレルン城は一族の遺産を守る重要な場所として、ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンにより宝物庫が整備されます。
- フリードリヒ大王の遺品
- ヴィルヘルム2世の王冠
かつてはフリードリヒ大王とフリードリヒ・ヴィルヘルムの棺も安置されていましたが、1991年にポツダムへ移送。現在は最後のドイツ皇太子ヴィルヘルムとその妻ツェツィーリエが敷地内に埋葬されています。



私たちが長年なおざりにしてきた私たちの始祖の城は、眠れる森の美女のような眠りから目覚め、私たちの家とすべてのドイツ人のための生き生きとした中心地とならなければならない。
- ホーエンツォレルン城は、一族の歴史的アイデンティティを守る聖域。
- すべてを失った一族が戻るべき唯一の残された故郷。
こうしてホーエンツォレルン城は、一族の歴史と精神を未来へと繋いでいくための「復活の象徴」として位置づけられています。
11世紀の誕生から、破壊と再建を繰り返してきたホーエンツォレルン城。
2026年、ついにプロイセン家の単独所有となったこの城。所有の形が変わっても、ここがホーエンツォレルン家の「原点」であることに変わりはありません。
単なる観光地ではなく、今もなお一族の誇りと歴史を守り続ける『生きたモニュメント』として、ホーエンツォレルン城はツォラー山の頂に君臨し続けています。
ホーエンツォレルン城の公式サイト
ホーエンツォレルン城へのアクセス



山の麓に駐車場があるから、そこに駐めるといいよ。



公共交通機関を利用するなら、ヘッヒンゲン(Hechingen)駅とホーエンツォレルン城の駐車場を結ぶバス路線(夏季のみ)があるから使うといいよ。詳しい時刻表は、ホーエンツォレルン城の公式サイトに案内があるよ。











