ロマンティック街道(Romantische Straße)の出発点、ヴュルツブルク(Würzburg)にあるマリエンベルク要塞は、マイン川を見下ろす山の上に立っています。
その歴史は古く、紀元前1000年頃からすでに人が定住しており、ゲルマン民族の移動時代から1866年のプロイセン軍の砲撃まで、この地域の政治の中心地でもありました。
ここは世俗領主が支配していたのではなく、司教が支配していた場所。ここはヴュルツブルク司教座になるよ。
世俗領主が城を建てるのは理解できるけど、聖職者も城を建てないといけなかったの?
教会や大聖堂でも、安全な場所とは限りません。特に中世の頃はマジャル人やヴァイキングといった多民族の侵略を受けていました。また、領主間の争いも絶えず、近世になると三十年戦争の被害を受けるなどしています。
ゆえに教会も城砦化して、自分の身は自分で守る必要がありました。とはいえ、やはり宗教施設であることに変わりはなく、教会と城の両方の特徴をあわせ持っているともいえます。
マリエンベルク要塞の構造と見どころ
奥に見える四角形の建物群が、中世の頃からある城域で、その下の上向きコの字型の赤い屋根の建物群がエヒター外郭(Echtersche Vorburg)、さらにその下の灰色の屋根の建物群がグライフェンクラウホーフ(Greiffenclauhof)で上から下へと拡張されました。
シェレンベルク門(Scherenbergtor)
城へは、シェレンベルク門を通って、中に入ります。かつてはフライングアーチ式の跳ね橋で守られていました。堀は、シェレンベルク・ツヴィンガー(Schrenbergzwinger)と呼ばれています。奥に見える塔は、この要塞で3番めに古いキリアン塔(Kilianturm)です。
門の入り口アーチのニッチの像は、マリエンベルク要塞の歴史と関係の深い聖キリアンと弟子のコロナート、トットナンです。
聖キリアンに関しては、資料がないため歴史的事実と伝説が混在しています。
686年に教皇からマイン地方に派遣されてきた人物で、ヘタン2世の父ゴスベルト(Gosbert)がキリアンによって洗礼を受けています。しかしゴスベルトのレビラト婚に反対したため、689年に殺害されました。
後に列聖され、聖遺物への巡礼を通じて、ヴュルツブルク教区と都市の発展に貢献しました。
内郭
聖マリア教会(Marienkirche) とベルクフリート(Bergfried)
1200年頃に建てられたベルクフリートは、高さ40mで、矢狭間が確認できます。
円形教会の聖マリア教会は、1600年の火災で焼失してしまい、1604年に再建されたものです。ロマネスク様式の建物は、ルネサンス様式になりました。
井戸寺院(Brunnentempel)
井戸の深さは、100mを超え、現在も水があります。
山城にとって水の確保は生命線。
領主館(Fürstenbau)
向かって左側の塔が太陽の塔(Sonnenturm)で、右側の塔がマリエン塔(Marienturm)です。写真ではわかりませんが、建物の手前には領主庭園(Fürst garten)があります。
太陽の塔は、この要塞で2番めに古い塔で、1300年頃に建てられました。
ロマネスク様式のパラスでしたが、1572年の火災で司教の居住区と太陽の塔を中心として焼失してしまったため、ルネサンス様式で再建されたものです。
マリエン塔は火災後に、新しく建てられた塔です。防衛上の意味は殆どありません。
領主庭園(Fürstengarten)
ここから見下ろすマイン川のヴュルツブルクの街の眺めが素晴らしく、多くの観光客が記念撮影をしていました。
領主館博物館(Fürstenbau museum)
世俗領主の城では、武器や鎧の展示を見ることができます。しかし司教の聖衣が展示されているのは、司教の城ならでは。
そして何よりも、相手に血を流させてはいけない坊主の武器こと、(刃のついた)メイスを見ることができます。
いくらメイスでも、刃がついていたら嫌でも流血するだろうが…!
と突っ込みたくなる武器の数々も展示されています。
ここに展示されている司教の聖衣やメイスを装備すると、まさにドラゴンクエストの僧侶!
ドラゴンクエストの僧侶を知っていると、ここの展示はそれだけで楽しめます。
他にも、要塞とヴュルツブルクの街の模型がいくつか展示されています。昔々のヴュルツブルク、第二次世界大戦で破壊されてしまったヴュルツブルク、その後復興したヴュルツブルク。見比べると、とても面白い。
他にもいろいろ展示されています。
マインフランケン博物館(Mainfränkischemuseum)
司教領の城だけに、宗教関係の彫刻が多く展示されています。イエス・キリスト、聖母マリア、天使ミカエル、アダムとイヴ。
ヴュルツブルクの歴史を紹介した部屋では、当然のことながらケルト時代からの説明がありました。マイン川の浅瀬のあるヴュルツブルクに早くから人が住みついていたなんて、ここを見るまで知らなくて驚きました。古い町だったんですね。
地上階のフロアは、フランケン地方と言えばフランケンワインということで、巨大なブドウの果汁絞り機がたくさん置いてありました。
これを動かすのに何人必要で、一度にどのくらいのブドウを絞ることができたんだろう?
果汁絞り機が置いてある所を進んで行くと、下に降りていく脇道がありました。何が置いてあるのかなと見に行くと、大砲が展示されていました。
稜堡(Bastion)
マリエンベルク要塞には、近世になって稜堡が多く建設されました。
稜堡の一つ一つに名前がついており、司教の名や聖人の名を関しているものが多いです。
マシクリ塔(Maschikuliturm)
マシクリ塔は内部を見学できます。
司教クリストフ・フランツ・フォン・ヒュッテン(Christoph Franz von Hutten 、在位:1724-1729))の時代に建てられ、1990年に修復が完了しました。
最初は独立した施設でしたが、後に他の防衛施設と通路で結ばれました。
マリエンベルク要塞周辺はフランケンワインの産地。美味しいドイツ辛口のフランケンワインはいかが
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マリエンベルク要塞の歴史
紀元前
要塞の発掘調査から、ハルシュタット時代後期(紀元前550~450年頃)のケルト人領主の居城であったことが示されています。地中海地域のギリシアの植民地と交易していました。
紀元前100年頃までは、ケルト人の時代です。
マイン川の浅瀬があり、浅瀬を見下ろす高台(マリエンベルク要塞のある城山)に砦が建てられていました。
フランク王国時代
6世紀頃、メロヴィング朝のフランク族がマイン川沿いの土地を征服します。この地域をフランケン地方と呼ぶのは、フランク族が支配したことに由来しています。
706年、公爵ヘタン2世(Hetan II.)が聖母マリアを祀るためにカステルに礼拝堂を建て、それが後に山の名前になったと言われています。(1000年頃に建てられた現在の円形教会とは異なります)
741年、カールマン(Karlmann)はヴュルツブルク司教区を設立し、スコットランド人のブルカルド(Burkard)を初代司教に任命しました。
752年にキリアンと弟子の2人(コロナート、トットナン)の遺骨を聖マリア教会に移し、788年に新しくできた大聖堂に遺骨が遺骨が移されたさい、カール大帝が立ち会っています。
聖遺物が大聖堂に移されたことから、カステルは次第に荒廃していきます。
シュタウフェン時代―領主的側面と宗教的側面をあわせ持つ司教領へ
次第に公爵と司教の権利を一人で兼ねるようになります。
1168年、フリードリヒ1世赤髭王のもとで、ヴュルツブルク司教はフランケン公爵としても認められました。
発掘調査により、中世時代に大規模な築城が行われていたことが明らかになっています。領主館の一部と初期ロマネスク様式のマリエン教会がこの時代に建てられたものです。
都市との対立
領主としての側面を持つようになったことから、独立したい都市との衝突するようになります。
独立を望む年に対し、司教側は無慈悲にこれを打ち破っています。
14世紀~15世紀の拡張ー火器への対応
戦争における火器の重要性が増すにつれ、それに対応できるように司教たちは城を強化しました。
都市の反乱を制圧した後、領主司教アンドレアス・フォン・グンデルフィンゲン(Fürstbischof Andreas von Gundelfingen)は1308年に新しい塔を市民に矯正して建てさせました。その塔は、現在の太陽の塔の核となっています。
塁壁には、15世紀の代々の司教の紋章が刻まれており、塁壁は15世紀に建設されたということがわかります。
16世紀以降―シュロス化
フランケン地方ではフェーデや戦争が相変わらず各地で続いていました。
1558年、司教メルキオール・ツォベル(Melchior Zobel)が帰宅途中に殺害されるなど、ヴュルツブルクでは司教と都市との争いが相変わらず続いています。
この時代になると、快適なシュロスを建ててブルクから移り住むのが一般的ですが、上記の理由から、司教は都市に住むことはできず、城山の要塞に住み続けるほかありません。マリエンベルク要塞は、ルネサンス様式のシュロス建築へと徐々に姿を変えていくことになりました。
聖マリア教会のゴシック様式の屋根が、鐘楼のある現在の新しい屋根になりました。
城の西側は、尾根続きになっているため最も脆弱な部分です。
司教ユリウス・エヒター・フォン・メスペルブルン(Julius Echter von Mespelbrunn)がシェレンベルク門の向かいにエヒター外郭とよばれる城を建て、この方面を強化し、強力な塔に囲まれたエヒター塁壁(Echterbastei)を建設しました。兵士の宿舎や厩舎として利用されていました。
三十年戦争による破壊と再建
1631年10月16日、激戦の末にスウェーデン軍によって襲撃され、城内は徹底的に破壊され、家具のほとんどが持ち去られました。
守備兵だけでなく、役人や聖職者たちも容赦なく殺害され、エヒター門の跳ね橋を倒れた人々の重みで持ち上げることができず、門翼を破壊して中に侵入てしまいました。
30年戦争後、マリエンベルク要塞はスウェーデン軍によって再建されることになります。半月堡やラヴェラン、稜堡が、この時に建設されます。
ただ、最後に改装工事を行ったのは、司教領ヨハン・フィリップ・フォン・グライフェンクラウ(Fürstbischof Johann Philipp von Greiffenclau:在位1699-1719)で、部屋を後期バロック様式にしました。
司教時代の終了
1701年にレンヴェック小城(Rennwegschlößchen)が新しい拠点として建設され、1719年に拠点が移されました。
マリエンベルクの司教領の宮廷としての歴史はここで終了します。
司教の館としての機能は失いますが、軍事施設としては使用され続け、かつて司教が住んでいた居住館は兵舎となります。
19世紀―軍事施設として
ナポレオン戦争のとき、要塞はすでに時代遅れのものとなり、何度も支配者が変わりました(フランスバイエルン、ヴュルツブルク)。その歴史的価値を顧みられることはありませんでした。
ただこの時、大規模な構造改革が行われたため、司教の古い住居は下記のような壊滅的な打撃を受けました。
- 塔の尖頭の変更
- 教会屋根の撤去
- ルネサンス様式の切妻の撤去
など。
要塞としては使用されなくなりましたが、兵舎や武器庫としては使用されました。
20世紀―復興そして破壊、再復興
19世紀、軍事施設として大きく姿を変えた要塞の修復が試みられます。歴史的・芸術的な意義を取り戻します。
第二次世界大戦
焼夷弾を受け、中庭を中心に大きな被害を受けました。領主館、南翼、北翼、マリエン教会が完全に焼失。
戦後
マリエンベルク要塞の再建が始まり、1990年秋に領主館にある博物館がオープンしました。
マリエンベルク要塞の公式サイト
マリエンベルク要塞へのアクセス
4月~10月は、駅から9番Festung行きのバスが運行されているよ。
要塞の近くに駐車場があります。車で行く場合は、そこを利用しましょう。
初めて行った時、ナビのない時代だったから駐車場がわからなくて、ワイン畑を歩いて登っていってしまったよ。それはそれで、この要塞の凄さを実感できたから良いけど…。疲れたね。