アルプレヒツブルク・マイセン(Albrechtsburg Meissen)

アルプレヒツブルク・マイセン、いわゆるマイセン城は、ドイツにおける最初の後期ゴシック様式の城です。ザクセンの中心地であり、マイセン司教および辺境伯の居城でもありました。

有名な陶磁器マイセン焼で有名なマイセン市にある山城で、ハーグ条約に基づく重要文化財となっています。

かつてここには王立磁器製造所がありました。

エルベ川を鏡面にして映し出されるマイセンのこの古城はとても美しく、ライトアップされたそのすがたは、さらに美しい古城となっています。

目次

アルプレヒツブルクの見どころ

エルベ川に映し出される城の鏡像が美しく、夜にライトアップされた城が川の水面に映る姿もまた美しいです。

エルベ川、石造りの橋、城下町、城の美しいハーモニーを、川の向こう岸から楽しむことができます。川の向こう岸は、絶好の写真スポットです。

アルプレヒツブルクはマイセン焼の発祥の地です。城のチケット、磁器工房のチケットそれぞれありますが、時間に余裕があれば、その両方がセットになったコンビチケットを利用し、両方を観て回るのがお得ではないでしょうか。

城を楽しむには,駐車場側の小道から丘の上の城へ登っていくルートのほうが,城の良さをより楽しむことが出来ます。

小道を登った先にあるものは,城から眺めるエルベ川の素敵な眺望です。

ドイツ語と英語のガイドが用意されており、英語はオーディオガイドを利用することになります。

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アルプレヒツブルク・マイセンの歴史年表

マイセン城のある場所には、青銅器時代からすでにゲルマン人が定住していたと考えられています。しかしこの時代には、この丘の上にはまだ城らしいものはありませんでした。

ドイツ人により城が建てられる以前、スラヴ人が利用した形跡はないとされています。

東の辺境地帯の守りの要

城が建てられたのは10世紀初期、カロリング王朝が断絶していわゆるドイツの歴史が始まった時。この地は東の辺境地帯でした。この頃、マジャル人の侵攻を食い止めることが、ドイツ国王の重要な課題の一つでした。

エルベ川上・中流域はスラヴ人の居住地で、マイセンはドイツ人支配とキリスト教化の拠点ともなっていました。

ドイツ国王はこの時期、国を守るために多くの城塞を築きました。

929年

国王ハインリッヒ一世(Heinrich I.)がソルブ人の主城であるガーナ城(Burg Gana)を陥落した際、城取りをするための新しい土地を探していました。そこで見つけたのが、後にマイセン(Meissen)と呼ばれる岩の上。国を治めるのに適した場所であり、「ザクセン・アクロポリス」とも呼ばれました。

当時の城は木製の建物と、木柵と土壁で取り囲まれた山城。エルベ川を見下ろす自然の三角地形を匠に利用していました。

965年

オットー大帝は辺境伯を任命して常駐させ、この地を平定させました。

968年

この地の征服が完了すると、オットー大帝はマイセン司教に寄贈します。マイセン司教の居城と教会は、この城にあります。

征服が完了したとはいえ、国境紛争が絶えない場所であることに変わりなく、国境線は何度も変わっていますし、ドイツの領土ではなくなったときもありました。

1030年頃

石造りの塔が建てられ、城と聖堂全体が石造りになり、拡大強化されます。

1050年

ザリエル朝の皇帝ハインリッヒ三世(Heinrich III.)は城伯を任命し、城伯もこの地に居を構えました。辺境伯と司教、城伯の居住地になります。北東の辺境伯、南東の司教、西に城伯の建物がありました。

マイセン城は同時に帝国城塞(Reichsburg)でもありました。

ヴェッティン(Wettiner)家時代

1089年以降、辺境伯領マイセンはヴェッティン家の所有になりました。

多くのドイツ人がエルベ川を越えて入植(東方植民)していくと、東方進出の拠点としてのマイセンの重要性は次第に失われていきます。

ハインリッヒ・フォン・アイレンブルク(Heinrich von Eilenburg)が皇帝よりマイセン辺境伯に任命されると、辺境伯は権力拡大の飽くなき要求から領土拡大を推し進め、東方植民を奨励。

現在のザクセン州はこの時代のマイセン辺境伯の領土とほぼ同じです。

東方植民については、下記記事で詳しく紹介しています。

13世紀

城の設備が強化され、東側は現在とほぼ変わらない防御施設になりました。石の橋はこの頃に建設されたものです。パラスと礼拝堂だけだった西側にベルクフリートが建てられ、橋を渡る者を監視していました。

アルプレヒトの城へ

城伯は次第に追いやられ、統治者でいることができなくなりました。城伯の管理下にあった建物は壊されます。

1471年

古いブルクの上に新しいシュロスの建設が始まりました。後期ゴシック様式で建設されていますが、ルネッサンスの影響も受けていたと言われています。

天井が高く、広々とした大広間と大きな窓があり、防衛拠点から統治拠点へと姿を変えました。

城は施主の辺境伯の名をとって、「アルプレヒツブルク(Albrechtsburg)」と呼ばれるようになりました。

1485年

エルンスト(Ernst)とアルブレヒト(Albrecht)がチューリンゲンとマイセンを統治していましたが,共同統治が禁止され,領土が二分されました。マイセン地区はアルプレヒトの領土となります。

政治の中心地がマイセンからドレスデンに移ると、城の重要性も失われました。

17世紀以降

三十年戦争

城は大きな被害を受けます。

1710年から1865年

王立磁器製造所が置かれ、ヨーロッパ最古の著名な磁器生産地となりました。職人たちが城に幽閉され、技術が外にもれないようにして製造されていました。

19世紀

磁器工房は他所に移され、工房があった場所は改修されます。19世紀の終わりには一般の人々も訪れることが可能となり、観光客で賑わうようになりました。

20世紀

法律が整備され、アルプレヒツブルクは国の所有するものとなり、管理されるようになりました。

アルプレヒツブルクへのアクセス

公共交通機関を利用して行く場合

アルプレヒツブルクとマルクト、磁器工房等を巡回するバスの利用が便利。4月から10月のハイシーズンは、30分毎に走っています。

車で行く場合

アウトバーンA4を7番で降り、B101号線を行くと、マイセンに行けます。

ドレスデン(Dresden)からはB6を使用してマイセン方面に行くと良いです。

駐車場はエルベ川沿い、ライプツィヒ通り(Leipziger Straße)にあり、駐車場から城へ直接続く道があります。駐車場から城へと緑の小道をエルベ川を眺めながら登っていくのは、見どころの一つです。

アルプレヒツブルク・マイセンの公式サイト

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