東方殖民と食糧生産

 1000年ごろ、ドイツとスカンジナビアには400万人しか住んでいませんでした。それが14世紀中ごろには1160万人膨れ上がりました。出生率は平均5人。その背景にはそれを支える食糧生産の大幅な増加があります。地層から採取された穀物花粉の分析からも、それは明らかになっています。

 12世紀、新しい入植地を探し求め、原生林を切り開き、荒野や湿地を開拓していき、農地が大幅に増加しました。この頃は,国土面積に対する農地面積は現在よりも広く、森林面積は現在よりも縮小していました。自然のままに残る土地はほとんどなくなり、人工的な土地ばかりとなり、そういった意味では現在とほとんど景観は変わっていません。

 また二圃式農業から三圃式農業へと変遷し、農機具も発達して木製のものだったものが先端部分を鉄製にしたものが広がったことにより,より深く効率よく耕せるようになり、単位面積当たりの食料生産が増加しました。

 そして更なる入植地を探し求め、東方へと広がっていきました。東方入植を促すため、領主は税制面で優遇するなどして農民を集めました。東方殖民はポーランド、ロシア、チェコ方面へと広がっていきました。しかし東方殖民地では当初税制面などで恵まれていましたが、次第に土地と切り離されて不自由な隷農民となってしまいました。この時代の東方殖民地が後のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)となります。西と東の境界は全くの偶然ではなく、国民性の違いもこのような歴史的背景と関係しています。
 

 入植に伴って新たな村や町ができました。現在のドイツの都市のほとんどは、12、3世紀頃に起源を持ちます。そして同時に多くのブルクが建てられました。貴族たちだけでなく不自由民のミニステリアーレたちもブルクを建てましたが、ミニステリアーレもまた14、5世紀には貴族化しました。

 12世紀の終わりごろまでに、開墾できる土地は開墾しつくされました。農業技術の発達により食糧も増産されたものの、肥料を施す知識はなかったため、14世紀ごろには地力が衰え始め、食糧生産は減少していきました。