ツヴィンガー宮殿はエルベ川からそう遠くない場所,ドレスデンの旧市街の北西端地域にあり,ドレスデンの歴史的中心地の一つとなっています。
ツヴィンガー宮殿は,ザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強王)(Friedrich Augusut der Starke)が住まうための宮殿ではなく,さまざまな式典を行うために建設した,いわば祝賀会場で,ドイツを代表するバロック様式の建築物です。
第二次世界大戦などをはじめ,何度も大きな損害を受け,破壊されてしまいました。現在の建物はその後再建されたものです。それゆえ残念なことに、フレスコ画など現在では失われてしまっているものがあります。
付近にはゼンパー歌劇場(Senperopa)や博物館といった名所がいくつかありますので,それらの名所もセットで廻ってみるのも良いかもしれませんね。
ツヴィンガー宮殿の見どころ
宮殿自体の見どころもたくさんあり,そのすべてを詳細に紹介することはできません。
その見どころの一部を紹介いたします。
ツヴィンガー庭園(Zwinger Garten)

ツヴィンガー宮殿はもともと建物と庭園の複合施設として計画された施設です。
途中,何度も計画が変更されたりしましたが,果樹園と庭園というコンセプトの元に造園された庭園は,一つの見どころとなっています。
庭園は無料で散策することができます。
アウグスト強王の抱いた庭園の果樹園の再現と維持をするための努力が行われていることが,動画から伺えます。
ツヴィンガー池(Zwingerteich)
1812年に要塞としての機能が放棄され,堀が埋め立てられると新しい庭園の形が生まれました。
20世紀になり,かつての都市城塞の堀が再び発掘され,庭園として整備されました。
ニュンフェンバート(Nymphenbad)
バロック様式の噴水システムです。
クローネン門(Kronentor)

両側に長いギャラリーが続き,旧城壁の前に立っており,門(Tor)のてっぺんを飾る王冠(Kronen)が特徴的な建物です。
王冠と双頭のワシは,アウグスト強王のポーランドの王冠を表しています。
都市の外から城壁を通り中に入るための門で,都市防衛の重要性からクローネン門の堀の上にかかる橋は石製ではなく狭い木製の橋で,敵に攻撃されたときにすぐに落とせるようになっています。
クローネン門を飾る彫像の数々は,ツヴィンガー建築に携わる多くの彫刻家が作成したものです。上層階にはフレスコ画がありましたが,第二次世界大戦で失われてしまいました。
ウォールパビリオン(Wallpavillon)

ツヴィンガーの建築集大成であり,象徴となる建物です。ヨーロッパで重要なバロック様式の建築物の一つに数えられます。
第二次世界帯電のドレスデン空襲で深刻な被害を受けましたが,その後再建されました。
この建物はアウグスト強王の構想スケッチを元に,建築家が具体的なデザインの落とし込んで建設されました。

1階には都市城壁につながる一連の階段があり,直接つながっています。2階は祝賀ホールとなっています。
多くの彫刻がウォールパビリオンを飾っており,第一層はペルモーザー(Permoser)およびヘルマン(Heermann)作と考えられています。
第二層はギリシア神話およびアウグスト強王の政治権力を表現しています。
4つのコーナーパビリオン

2階建てのパビリオンが四隅に配置されており,これらをまとめてコーナーパビリオンといいます。
数学物理サロン(Mathematisch-Physikalischer Salon)
数学と物理学に関する機器を収集しており,博物館としては1719年と早くから使用されています。
2階部分はもともと食堂,プレイルーム,ダンスホールとして使用されていましたが,1729年には博物館として使用されるようになりました。
1階部分は噴水のある洞窟ホールがあり,アポロとミネルヴァの大理石の彫像が立っていました。しかし1813年,戦争により天井が崩壊してしまい,今はありません。
天井にはかつて「オリンポスのプシュケの反乱」のフレスコ画がありましたが,1945年に失われました。
フランスパビリオン(Französischer Pavillon)
その名は1945年まで展示されていたフランス絵画に由来します。
2階の壁と床はザクセン大理石で覆われており,それゆえ1階は「大理石ホール」と呼ばれています。
2007年以降,大理石ホールはクラシックコンサートに利用されています。
ドイツパビリオン(Deutscher Pavillon)
1719年の結婚式に合わせて完成し,都市パビリオンとゼンパーギャラリーの中間に位置するパビリオンです。
ドレスデン都市収集芸術品の修復作業場がここにあります。
上層階にあったフレスコ画「4つの大陸」は1849年の火災により消失してしまっています。
陶磁器パビリオン(Porzellanpavillon)
ドイツパビリオンと同様に1719年の結婚式に合わせて完成し,ドレスデン陶磁器コレクションを収蔵しています。
以前は違う名称でしたが,1962年に陶磁器を展示するようになり,陶磁器パビリオンと呼ばれるようになりました。
ゼンパーギャラリー(Sempergalarie)
ゼンパーギャラリーはツヴィンガー宮殿の中で最も規模の大きな建物で,砂岩で建てられています。
さまざまな砂岩製の彫像がギャラリーを飾っており,その数なんと160体以上あります。ゼウス,モーゼ,ゲーテなど,ギリシア神話とキリスト教に関係する人物像などの彫刻です。
1847年から1854年にかけて建てられたイタリアのルネッサンス最盛期の様式の建物で,建築家ゴットフリート・ゼンパー(Gottfried Semper)によって建てられました。
絵画を収容する新しいギャラリーを建設する必要があるとされ,フリードリッヒ・アウグスト二世によりゼンパーに委託されました。
ゼンパーギャラリーの歴史に関する文書は第二次世界大戦で失われてしまっており,詳しいことがわからなくなっています。
ツヴィンガー宮殿へのアクセス
ドレスデン駅からドレスデンの市街地に向かって徒歩10~15分ほどの場所にあります。ドレスデン駅はICE停車駅になっていますので,公共交通機関を利用する場合でも行きやすいのではないでしょうか。
ツヴィンガー宮殿の名前の由来
ツヴィンガー(Zwinger)とは,本来,外側の城壁と内側の城壁の間の空間を指し示す中世の歴史用語です。
ツヴィンガー宮殿のある場所も,かつては外側と内側の都市城壁の間にあるただの空間にすぎなかったので,やはりツヴィンガーと呼ばれていました。
フス戦争の際の1427年以降,都市防衛を強化するために外側の城壁が建設され,内側の城壁の外側にあった堀は埋められていきました。その結果,この場所に城壁間の空間,ツヴィンガーが形成されました。
この城壁と城壁の間にできたツヴィンガーはツヴィンガー庭園として整備されました。庭園となりましたが,まだこの頃は城塞のツヴィンガーとしての機能を果たしていました。
時代とともにツヴィンガーは庭園や果樹園として整備され,宮殿が建設され,18世紀初頭にはもはやツヴィンガーという名は体を表さなくなっていました。
しかしツヴィンガーという名称だけが現代にも引き継がれることになります。
内側の城壁はもうみることはできませんが,外側の城壁の名残をクローネン門(Kronentor)の南西の建物にみることができます。
本来の意味のツヴィンガーであった頃の面影はほとんど残っていませんが,ここが都市城壁の間の空間であったことに,思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ツヴィンガー宮殿の歴史年表
- 1216年
- 文書でcivitasと言及されており,この時代にはドレスデンに防衛施設があったことが示されています。しかしこの時代はまだ,現在ツヴィンガー宮殿がある場所は都市城塞の外側でした。
- 1427年
- フス戦争の際,都市防衛を強化するために外側の城壁が建設され,ツヴィンガーが形成されます。
- 1549年
- 選帝侯モーリッツ(Moritz)がツヴィンガー庭園の整備に着手します。彼は妻とともにザクセン造園の創始者とされ,彼の造園知識は公文書として記録されています。
- 1569年~
- 建築家ロクス・クヴーリン・フォン・リナール伯爵(Rochus Quirin Graf von Lynar)が,旧シュロスの西側で防衛施設の建設と改造工事を行い,ルナ稜堡が誕生します。この頃の建築物はまだ木製です。
- 1701年
- 宮殿が火災により消失します。宮殿と,当時3万人の市民が住んでいたドレスデンの拡大を選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強王)が計画します。当時時代遅れと成っていた宮殿と庭園でしたが,イタリアやフランス旅行から帰ってきた選帝侯は,それらの国でインスピレーションを受け,結果として新しい建築様式が取り入れられることになります。
- 1709年~
- ツヴィンガー宮殿の建設が開始されます。建築を委託された建築家マテウス・ダニエル・ペッペルマン(Matthäus Daniel Pöppelmann)はベルサイユ宮殿の庭師でもあり,プラハでバロック建築の研究をするなどヨーロッパの様々な都市を訪問し,さまざまな建築物からツヴィンガーの構想を練ります。
- 1719年
- ツヴィンガー宮殿はフリードリッヒ・アウグスト二世の結婚のために建設工事は一時的に中断します。結婚式のため,未完成の部分はカバーや装飾品などで隠してごまかしました。中断された建設工事は1728年に再開されます
- 1733年
- 選帝侯フリードリッヒ・アウグスト一世(強王)が死去します。息子のアウグスト二世は,ツヴィンガー建設を一旦懸案事項とし,計画を練り直しました。
- 1746年
- ツヴィンガー宮殿の重要性が急激に低下し,中庭に木製のオペラ劇場が建設されます。しかし1748年に消失し,残った礎も20世紀の改修工事で失われました。
- 七年戦争(1756年から1763年)
- 宮殿は要塞の一部であり,建物は兵器庫として使用されました。都市が包囲,宮殿も要塞の一部であるために破壊されましたが,1759年に再び都市と宮殿を復旧しようという機運が高まります。東側に公園と噴水ができました。このときゼンパーの構想はすべて実行されたわけではなく,未完成のまま終わっているものもあります。
- 19世紀初頭
- 選帝侯のコレクションの中心地として使用するための改修工事が行われました。当時の時代の空気と,現在では誤っているとされる知識は,ときに宮殿に損傷をもたらしました。
- ナポレオンの時代
- 要塞の解体命令により,堀が埋め立てられ,橋が取り除かれました。しかし宮廷建築家は池と庭園の再建と維持をし続けました。
- 1847年
- ゼンパーギャラリーの工事が始まります。工事は1854年まで続き,新しい博物館として開館しました。
- ドレスデン5月革命
- 都市パビリオンが完全の消失します。このパビリオンは当時最も重要な植物図書館であり,6000の植物標本と800の書籍が失われてしまいました。
- 第一次世界大戦
- 経済状況の悪化にもかかわらず,復興事業は続けられていきました。しかしハイパーインフレのため,さすがに断念せざるを得なくなります。
- 1945年
- ドレスデン空襲により深刻な被害を受けます。戦後,ソビエトの軍事政権は文化的建物の保護と再建を命令し,ツヴィンガー再建に向けた予算がつけられ,1947年より再建工事が始まりました。復興費用にはツヴィンガー宝くじの収益金が用いられています。
- 1963年
- ウォールパビリオンが一般公開されます。ツヴィンガーの外観は,ほぼ戦前と同じになりました。
ツヴィンガー宮殿の営業案内
開館時間
夏期(4月~10月)
6::00~22:00
冬期(11月~3)
6:00~20:00