東方植民(Ostsiedlung)―中世ドイツの膨張

Sachsenspiel

12世紀、急激に人口が増え、新たな集落が次々と形成され、景観の様子がそれまでとは一変しました。

以前は、広大な原生林が広がり、湿原や沼地、荒れ地があちこちに存在し、人々は小さな集落に身を寄せ合って生活しているに過ぎませんでした。

東方植民とは、ドイツ人が東方へと入植地を求め、大量に移住していった運動のことを言います。

目次

大開拓時代

12世紀、新しい入植地を探し求め、原生林を伐採し、沼地を干拓し、耕作可能な土地を広げていきました。耕作地が優勢となり、未耕作地のほうが珍しい状態になりました。

ヴェーザー(Weser)川やエルベ(Elbe)川の河口のような湿った土壌では、オランダからの入植者が技術的知識を駆使して開拓し、中間山間部の斜面など、これまで耕作地には適さなかったような場所も耕作できるようにしていきました。

この頃は、国土面積に対する農地面積は現在よりも広く、森林面積は現在よりも狭かったです。

現在の風景に純粋な自然は残っておらず、完全に人工的な風景となっています。

村や都市の発展

中世以前のドイツでは、かつてローマ帝国が支配していた地域で、司教区や修道院の影で細々と存在していたに過ぎませんでした。

小さな農場や集落は大きくなって村となり、現在でも農村集落の主流となています。

それが入植に伴って今まで以上に大量に村や都市が形成されるようになります。隣接する地域を開拓して耕作地を増やし、既存の集落の近隣だけでなく、遠くにも新しい村が作られていったのです。

現在のドイツの都市の多くは、この12世紀から13世紀に設立されています。

城の建設

中世中期以降の約200年の間に、現在ある城のほとんどが建設されました。

実際に王侯貴族が建設し、居住したものは少なく、ほとんどがミニステリアーレと呼ばれる不自由民や使用人によって建設されたものです。(ミニステリアーレは14、15世紀頃に貴族化します。)

ドイツ人の入植地域

国内だけでなく、北、東、東南へと、それまで未開拓だった土地が開拓されて行きました。

神聖ローマ帝国の国境が東へと移動し、様々な民族が混在する地域(現在は多くが消滅している)が出現するようになります。

東方入植を促すため、封建領主は税制面で優遇するなどして農民を集めました。

東方殖民はポーランド、ロシア、チェコ方面へと広がっていきました。

しかし東方殖民地では当初税制面などで恵まれていましたが、次第に土地と切り離されて不自由な隷農民となってしまいました。

この時代の東方殖民地が後のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)や東欧における政治的な境界線や民族関係は、このような歴史的な同化や植民活動の結果と関係していると思われます。

ドイツ人の入植地図
東方植民

上図のピンク色の部分が、ドイツ人が入植していった地域です。

10世紀はザーレ(Saale)川が国境でしたが、11世紀後半から12世紀になるとシレジア地域(ポーランド南西部からチェコ北東部)に農民が入植し、都市が建設されていきました。

東ホルシュタイン(Ostholstein)、メクレンブルク(Mecklenburg)、マルクブランデンブルク(Markbrandenburg)、ポメラニア(Pommern)などにも移り住みます。

13世紀には、ドイツ騎士団が加わり、騎士団の支配下でドイツからの移民とその子孫たちがリヴォニア(ラトビア北東部からエストニア南部)に設立した年に移住し、後のバルト貴族の祖先たちもこの地に定住しました。

東方植民の推進

ポーランドやハンガリーの領主は、入植者が持ち込む新しい技術欲しさに、移民推進策をとります。

司法的にも、ドイツ移民に有利になるようにします。

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