ハイン城(Burg Hayn)―ザリエル朝の狩猟の館

Rudolf Stricker, Public domain, via Wikimedia Commons

フランクフルト国際空港から東南東に約5km、ドライアイヒ(Dreieich)にある城跡。

その歴史は古く、城郭軍の最古の部分は11世紀にまで遡ります。

城の地勢水城
城の種類ブルク
城主の階級帝国ミニステリアーレ→ハーナウ伯爵
最初の城の築上年1080年頃

ハイン城は、もともと帝国御用達の狩猟用の森林を管理し、皇帝が狩猟をするときに宿泊する場所として建てられた館に由来する小さな城です。

本記事では、ハイン城の見どころと歴史について紹介します。

目次

ハイン城の構造と見どころ

ハイン城(Burg Hayn)
ハイン城(Burg Hayn)

ハイン城は周囲を水堀で囲んんで防備を固めた水城です。隣接する池に映る城の姿が美しいですね。

夜は城がライトアップされ、廃墟の美しさを引き立てています。

ベルクフリートとパラス

橋を渡ると、ベルクフリートとパラスがお出迎え。ベルクフリートの上には、その背後にある協会の頭がちらりと見えます。

ベルクフリート

円筒形のベルクフリートは、1180年頃に建てられたものです。当時は30mの高さがありましたが、1792年には今の14mの高さになってしまいました。

失われた部分は、道路建設に使われちゃったんだよね

パラス

パラス

パラスには、さまざまな時代の建築様式の痕跡がみられます。

地下室には1180年のロマネスク様式が残っていますが、上層階はゴシック様式、ルネサンス時代の要素が入り混じっています。

墓地?

もともとは別の場所にあったものを、ここに移したそうです。

井戸

井戸

ロマネスク時代からこの城を見つめている井戸です。

丘陵城塞(Turmhügelburg)

丘陵城塞:ハイン城の最古の部分

1080年に建てられたもの。後期ロマネスク様式の環状囲壁もあります。

1180年には帝国城塞として拡張されました。

手前には野外ステージが設けられており、時折イベントが開催されています。

城をバックに行われるイベントって、かっこよさそう。絶対かっこいいでしょう!

壁の厚さは3m。平面の広さは12.5✕13.2mです。最初は住居塔として使用されていましたが、後に第2ベルクフリートという位置づけになりました。

野外ステージと塔の間に、堀跡があります。

ドライアイヒ博物館(Dreieich-Museum)

博物館には、ハイン城の復元模型が展示されています。

それが時代とともに大きくなり、環状囲壁ができ、環状囲壁の内側に建物が増えていきます。

ハイン城の公式サイト

ハイン城の歴史

Brühl, Public domain, via Wikimedia Commons
Brühl, Public domain, via Wikimedia Commons

古い伝説によれば、ハイン城はカール大帝(Karl der Große)がこの地を気に入り、狩猟の館を建てたのが最初だと言われています。

9世紀頃にはすでに狩猟小屋が存在しており、王家の狩猟の森として保護されていました。王と従者たちは狩猟のためにこの小屋に滞在していました。

しかしこれは伝承に過ぎず、科学的な研究ではカロリング朝時代ではなく、11世紀頃のザリエル朝が起源とされています。

帝国ミニステリアーレの時代

皇帝ハインリッヒ4世(Kaiser Heinrich IV.)の側近、帝国ミニステリアーレのエバーハルト・フォン・ハーゲン(Eberhart von Hagen)に封土として与えたのが始まりです。

1080年頃

湿地帯に浮かぶしいさな島に、5階建ての住居塔と建てたのが始まりです。環状囲壁と堀に囲まれた簡素な城塞でありながら堅固な城塞です。

以後、ハーゲン=ミュンツェンベルク(Hagen-Münzenberg)家の居城となりました。

1180年頃

住居塔は環状囲壁に組み込まれ、拡張されました。丸いベルクフリートとパラス、小さな礼拝堂が環状囲壁で取り囲まれました。

城壁は城だけでなく都市も取り囲み、さらに広い堀で取り囲まれ、城の外側にブルクマンが住み、ツヴィンガーでは猟犬が買われていました。

「神聖ローマ帝国ドイツ民族の犬小屋(Des Heiligen Römischen Reiches Deutscher Nation Hundestall)」なんて呼ばれていたよ。

城と都市の間は、今は存在しない城門が唯一の通路。通路を制限することで、都市から城は守られていました。

1255年

ハーゲン=ミュンツェンベルク(Hagen-Münzenberg)家が断絶。残されたハイン城は共同相続城塞(Ganerbenburg)として共同管理されました。

共同相続

ゲルマンの伝統は分割相続です。しかし分割相続すると、所領は細分化されていってしまいます。これを防ぐために共同相続という手法を用い、共同管理、共同所有の形で本家および分家で相続することがありました。

所領だけでなく城も共同相続の対象となり、代々共同相続されます。

共同相続城塞の時代

ファルケンシュタイン家が5/6を、ハーナウ家が1/6を所有しました。共同相続するにあたり、城の建物も大きく改修しなければなりません。以下のようなことが行われました。

  • パラスの拡大
  • 協会の拡大
  • 小さな建物が城内に複数建造
  • 城門の巨大化

城下町(街というより村)には、狩猟用森林の管理人が主に住んでいました。

1418年

ファルケンシュタイン家が断絶し、イーゼンブルク(Isenburg)家とザイン(Sayn)家が相続。

1460年

住居等が焼失。

1486年

ルードヴィッヒ・フォン・イーゼンブルク伯爵(Ludwig II. von Isenburg)がザイン家の部分を取得。城を後期ゴシック様式に改修します。

改修したにも関わらず、住んだ形跡はなかったみたい。

住居としては機能していませんでしたが、役所および防衛施設としては18世紀まで使用されていました。

イーゼンブルク家の時代

1701年

イーゼンブルク家は領土交換により、城のハーナウ家の所有分を手に入れ、単独所有者になります。

城は採石場として利用されており、崩壊の憂き目にあっていました。しかしイーゼンブルク伯爵の法的闘争により石の利用が禁止され、これ以上の崩壊を免れました。

1750年

住居塔が崩壊。崩れ落ちた石を使用してノイ・イーゼンブルク(Neu-Isenburg)のユグノー集落の協会が建設され、ベルクフリートとパラスの石も道路建設に使用されました。

結局、城の石が使われて、崩壊してるんかい!

1861年

イーゼンブルク領はヘッセン・ダルムシュタット大公国に帰属しますが、ハイン城はイーゼンブルク家の私有資産として残ります。

歴史郷土史協会として

1931年

イーゼンブルク家はドライアイヒェンハイン歴史郷土史協会(Geschichts- und Heimatverein e. V. Dreieichenhain)に売却。以降、協会が城の保全と修復活動、イベントなどを行っています。

ハイン城へのアクセス

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