ハイデルベルク(Heidelberg)から東へ約70kmのところにある山城。
クリンゲンバッハ川(Klingenbach)がヤグスト川(Jagst)に注ぐ合流点にある小山の尾根にあるシュタウフェン朝時代の中世の城です。
目次
クラウトハイム城の見どころ
このブルクの最古の部分である高さ30mベルクフリートには,シュタウフェン朝時代の建物の特徴がひじょうによく保存されています。貝殻石灰岩の土台の上に,シュタウフェン朝時代特有の瘤のあるブロックが積み重なっています。
中世の古いブルク故に,ベルクフリート,パラス,礼拝堂,盾城壁といったブルクの基本構造を確認することが簡単にできます。
ホールはこの時代には珍しい初期ゴシック様式で建てられています。
農民戦争により部分的に破壊され,一部はネオゴシック様式で再建されているとはいえ,中世の面影を色濃く残すこじんまりとした城です。
クラウトハイム城へのアクセス
A81出口を出て,メルヒンゲン(Merchingen)を経由してクラウトハイム(Krautheim)方面のオスターブルケン(Osterburken)で降ります。
クラウトハイムに入ったら,ケーニッヒアルブレヒト通り(König-Albrecht-Straße)を南に進み,ブルクヴェーク通り(Straße Burgweg)に駐車します。
駐車場からは城まで歩きます。
クラウトハイム城の歴史年表
- 先史時代
- 山の突出部にすでに集落が存在し,避難ブルクがあったことがわかっています。14世紀に造られた都市城壁はこの古い時代の環状城壁の上に建てられました。
- 1172年
- この地域の領主がブルクの建設を始めます。最初はベルクフリートのみの簡素なブルクです。入り口は地上10.5mのところに木製のはしごがかけられていました。
- 12世紀終わり頃
- 城が大幅に拡張されます。パラス,堀切,マントル城壁はこの頃に造られました。堀切には跳ね橋がかけられていました。
- 1230年頃
- 礼拝堂が建立されます。礼拝堂はブルクへの通路としても使用されており,礼拝堂の地下室は使用人たちが使用していました。この頃国王ハインリッヒ七世(König Heinrich VII. )とその父親との闘いがあり,クラウトハイムは反国王派に付きます。戦争には負けましたが,戦争に参加するための資金援助を受けており,その資金で礼拝堂を拡張することができました。
- 1306年
- 国王アルプレヒト一世(König Albrecht I.)によって都市の権利を与えられます。
- 1525年
- 農民戦争で城が破壊され,略奪されます。都市は反乱勢力側に付き,8,000人の兵士を集めますが,ケーニヒスホーフェン(Königshofen)で全滅します。
- 1612年
- マインツ大司教がパラスの隣に新しい建物(シュロスバウ)を建てます。
- 三十年戦争
- 何度も所有権が変更します。
- 1625年
- ヴァレンシュタイン(Wallenstein)が都市を占拠し,同時に腺ペストを持ち込みました。
- 18世紀
- 屋外エリアが一部取り壊され,庭園が建設されました。
- 1845年
- バーデン大公レオポルド(Großherzog Leopold von Baden)によって,荒廃した城が復元されます。
- 1977年以降
- バーデン・ヴュルテンベルク州によって,大規模修繕工事が行われます。
クラウトハイム城の営業案内
夏期(5月~9月)
土曜日、日曜日および祝日 14:00~17:00
平日はクラウトハイムの役所に予約をすればいつでも可(役所で鍵を管理しているため)。