ロマンティック街道の終点は、誰もが知る世界的に有名な新白鳥城ことノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)。
建築様式と内装は、19世紀ロマン主義の代表作。
1869年、ノイシュヴァンシュタイン城は、バイエルン国王ルートヴィヒ二世(狂王)が静養所として自分のために中世騎士の城をイメージして建てた城のような建築物。
ゆえに、
城砦マニアの方にはオススメしませんが、ファンタジー好きの方にはオススメの城です。
軍事的機能や王宮には不可欠な部屋がなく、ルートヴィヒ二世こだわりの装飾が美しい趣味の城となっています。
防御力も攻撃力もないので本当の意味で城ではないのですが、あまり気にしないでおきましょう。ロマン主義の城はそんなもの……。
ディズニーのシンデレラ城をはじめ、ノイシュヴァンシュタイン城をモデルにした建築物は数多く存在しますし、漫画やアニメでもモデルにしたであろう建物は多く登場します。
- ディズニーランドの「眠れる森の美女」の城
- ラスベガスのエクスカリバーホテル&カジノ
ディズニーランドはシンデレラ城として有名ね
- 伝記映画『ルートヴィヒ二世』:オリジナルのロケ地
- グリム童話映画『白雪姫』:王宮として登場
- スターウォーズのパロディ『Spaceball』
- ニーベルンゲンの宝探し
などなど
城は未完のままですが、ドイツロマン主義の重要なインテリアが数多く展示されており、19世紀末の最新技術(電池式ベルや電話回線、水道、水洗トイレなど)を見ることができます。
ノイシュヴァンシュタイン城の構成と見どころ
全長約150mの岩山の上に、多数の塔、装飾用タレット、バルコニーなど数多くの建物群があり、渓谷、アルプス山麓、湖などの自然と見事に調和した美しい場所。
騎士の城をイメージし、ロマネスク様式を意識した二重、あるいは三重の窓。
ヴァルトブルク城がモデルと言われていますが、ルートヴィヒ二世が建てようとしたのはワーグナーの『タンホイザー』に登場する幻の城であった可能性が高いとされています。
見る角度によっては、ただの近代的ビルディングなんだよね。
マリーエン橋(Marien Brücke )はノイシュバンシュタイン城の絶好の写真スポット
多くの人がそこに向かうので、すぐに気が付きます。
やや距離があります。山道なので登るのはたいへんですが、着いた先には宝石のような素晴らしい眺望が待っていました。
ノイシュヴァンシュタイン城とその後ろの湖を写真に収めることができ、写真集で見るようなノイシュバンシュタイン城の写真を撮ることができます。
よく見るノイシュヴァンシュタイン城の写真はここから撮ったものなんだとわかる、納得の風景。
ノイシュヴァンシュタイン城へ
ゲートハウス
両側に円形の階段塔。
ゲートハウスは唯一の左右対称の建物で、屋根が胸壁風に仕上げられているのが特徴です。
ノイシュヴァンシュタイン城で一番最初に建てられた建物で、ルートヴィヒ二世はパラスが完成するまでここから工事を眺めていました。
ゲートハウスの地上階は厩舎。
四角塔(Viereckturm)
高さ45mのこの塔は、装飾を目的として建てられました。
全方位展望台からは、アルプス山脈の麓を広く見渡すことができます。
城のガイドツアー
パラス内部は、ガイドツアーに参加することで見学できます。
ちなみに、パラスの各階のフロア面積は6,000平米(約77m四方の正方形の大きさと同等)あります。
最初の部屋では城の歴史と見学における諸注意がありました。
食堂(Speisezimmer)
周囲の絵は、ワーグナーのタンホイザーの場面を描いたものです。
吟遊詩人の世界をテーマにしています。
寝室(Schlafzimmer)
この部屋のどこか、わかりにくいところにトイレが隠されています。
寝室はゴシック様式を意識したものとなっており、ルートヴィヒ二世お気に入りの部屋でした。
王のベッドの天蓋は、14人の彫刻家が4年以上の歳月をかけて完成させたものです。
広さが控えめな居間(Wohnzimmer)は王の居室であり、ヴァルトブルク(Wartburg)で見た家具にそっくりなものがありました
書斎へと続く人工洞窟と温室があります。このような城には必要のないものを作ってしまっているので、城ではなく王様のための遊園地と言われる一因です。
玉座の間(Thronsaal)
一見すると教会のような玉座の間は20m×12mの広さがあります。
玉座の間なのに玉座がないのは、国王が亡くなってしまったために製作されなかったからです。
ミュンヘンの諸聖人宮廷教会をモデルに設計されました。ロマネスク、ゴシック、ビザンティン美術の折衷形態。
周囲には十二使徒をはじめとする宗教的絵画で彩られています。
玉座の間は、王の意向により、『パルツィバル』の聖杯広間の舞台と国家元首の象徴の統一です。
吟遊詩人の間(Sängersaal )
城で最も大きな部屋で27×10mの広さがあります。
『ローエングリン』や『パルツィバル』をテーマにした装飾があり、反対側にはヴァルトブルク城を模した支柱風の回廊があります。
吟遊詩人の間は玉座の間と同様に、宮中行事のためのものではなく中世の騎士・吟遊詩人文化を表現したウォークイン・モニュメントに過ぎません。
要は、実用的な部屋ではなく、それっぽい部屋に過ぎなかったんだよ。
実用的ではありませんが、リヒャルト・ワーグナー没後50年を記念した演奏会は開催されています。
ノイシュヴァンシュタイン城の公式サイト
ノイシュバンシュタイン城の歴史
現在ノイシュヴァンシュタイン城が立っている場所には、かつて表および裏ホーエンシュヴァンガウ城(Burg Vorder- und Hinterschwangau)の城跡がありました。
ノイシュヴァンシュタイン城自体は歴史の浅い城だけど、以前に立っていた城まで遡れば、歴史の古い城と言えなくもないかな?
中世時代の城と、近世に建てられた城の名が一致していないので、こんがらがらないように注意!
中世の城の名 | 現在の城の名 |
---|---|
シュヴァンシュタイン城(Burg Schwanstein) | ホーエンシュヴァンガウ城(Schloss Hohenschwangau) |
表および裏シュヴァンガウ城(Burg Vorder- und Hinterschwangau) | ノイシュヴァンシュタイン城 |
ややこしい……
さらに言うと、ノイシュヴァンシュタイン城は当初ノイホーエンシュヴァンガウ城という名で、1886年から現在のノイシュヴァンシュタイン城になったややこしさ!
帝国騎士シュヴァンガウ卿の時代
- 1090年
-
「Castrum Swangowe」という名が文献に登場し、これはノイシュヴァンシュタイン城のある場所に立っていた小さな2つの城のことを指しています。
最初は裏ホーエンシュヴァンガウ城のみでしたが、手狭になったため、表ホーエンシュヴァンガウ城を建てました。
1191年まではヴェルフェン(Welfen)家、1268年まではシュタウフェン(Staufen)家に仕えた帝国ミニステリアーレのシュヴァンガウ卿の城でした
吟遊詩人のヒルトボルト・フォン・シュヴァンガウ(Hiltbolt von Schwangau)はこの一族出身だよ。
- 1363年
-
オーストリア公ルドルフ(Herzog Rudolf IV. von Österreich)がチロルを支配下に於いたとき、シュヴァンガウ卿は表および裏ホーエンシュヴァンガウ城をはじめ、フラウエンシュタイン城(Burg Frauenstein)などを開城しておくことを約束。
この頃のシュヴァンガウはたいへん栄えており、多くの客人が訪れ、マルティン・ルターも滞在していたとされているよ。
- 1536年
-
シュヴァンガウ家が断絶します。
- 16世紀
-
アウグスブルクの貴族がシュヴァンシュタインを取得し、城を完全に再建します。
ヴィッテルスバッハ家の時代―ノイシュヴァンシュタイン城の建設へ
1567年、シュヴァンガウ地域はヴィッテルスバッハ家の支配下に置かれ、アウグスブルクの貴族から城を購入します。
19世紀、表と裏ホーエンシュヴァンガウ城は両城とも廃墟となり、裏ホーエンシュヴァンガウ城跡は展望台に改造されていました。
ルートヴィヒ二世は父がシュヴァンシュタイン城跡に1837年頃に建てたホーエンシュヴァンガウ城で幼少期を過ごし、シュヴァンガウの城跡にはよくハイキングで訪れていました。
ルートヴィヒ二世の夢の城
バイエルン国王ルートヴィヒ二世(狂王)在位:1864年 – 1886年
1867年5月、再建されたヴァルトブルク城、7月にはフランスのピエールフォン城(Château de Pierrefonds)を訪れています。
国王はこの2つの城から、ノイシュヴァンシュタイン城のインスピレーションを得ました。
- 1864年
-
国王に即位すると、大規模な城郭建築プロジェクトとして、表ホーエンシュヴァンガウ城の再建をはじめました。
自分の考える中世を体験できるプライベートな隠れ家を作りたい
構想からして、王様による王様のためのテーマパーク
城を建てるため、表ホーエンシュヴァンガウ城や旧ベルクフリート跡は爆破されました。
- 1869年
-
城の建設が始まります。
2月にゲートハウスの建設が始まり、9月5日にパラスの定礎が行われました。
国王の希望と要求は建物とともに増大し、設計と費用は何度も見直しされました。1872年に完成予定でしたが、何度も延期されました。
- 1871年
-
ヴェルフェン基金から助成金を受け取るようになりますが、建築計画のために財政状況はどんどん悪化。
建設費は国家財源があてられたわけではなく、国王の私財から支払われていました。しかしそれでも足りず、借金をして捻出していました。
- 1884年
-
王が初めてパラスに住みました。
- 1886年
-
パラストゲートハウスの外観がほぼ完成。
国家元首の債務を巡る争いから、国王は無能力者とされ、6月11日に退位させられます。同月13日、国王は謎の死を遂げます。
国王が城で過ごした日数はわずか172日。その頃の城は、まだまだ大規模な建築現場の様相を呈していました。
城の一般公開と建築継続
国王の死後、わずか6週間で城は訪問者に一般公開されました。
入場料の一部が、建築債務の返済にあてられました。
1899年、建築債務を完済。
城の見学が円滑にできるように、完成に向けて建築工事は続けられたよ。
1886年には着手さえされていなかったケメナーテが1892年には建設されましたが、建設中止になったものも多くありました。
- 騎士の家とケメナーテを結ぶ連結翼
- ケメナーテを装飾する予定だった聖女像、花嫁の間
- ベルクフリート下部に予定されていた三層のシュロス礼拝堂
- テラスや噴水のある庭園
- ムーア人の間
- 騎士の浴場
これらの建物が完成していたら、さぞかし美しい建物になっていたでしょうね……
部屋数は多いですが、用途が全く考えられていない部屋が多くありました。
計画段階では、200室以上ありました。
ヴィッテルスバッハ家から国有資産へ
1918年11月11日、バイエルン政府はヴィッテルスバッハ家の資産を国有資産とすることを宣言。
国有資産家には長いこと争いが続いていたけれど、全てが国有資産になることはなく、ヴィッテルスバッハ家は存続できたよ。
ノイシュヴァンシュタイン城は国有となり、2つの世界大戦を生き残りました。
現在も国有資産として、バイエルン州政府が管理しています。
観光資産としての城
ノイシュヴァンシュタイン城は、外国人にとって人気の場所No1。ドイツの城を訪れる観光客の約30%がノイシュヴァンシュタイン城を訪れる人気っぷり。
特にアメリカ人と日本人に大人気。
しかしドイツ人へのアンケートではなんと19位。
あんなとこ行くの、アメリカ人と日本人だけだよ(笑)。本当の城じゃないしさ。
ノイシュヴァンシュタイン城の価値は認めつつも、城とは認めたくない歯がゆさが、どこか垣間見えます。
ノイシュバンシュタイン城への行き方
人気の場所だけに、ツアープランが数多く存在します。
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