エルツ城(Burg Eltz)の歴史と見どころを紹介!―破壊を免れた美しい中世の城

Burg Eltz

モーゼル川(Mosel)、正確にはその支流のエルツ川(Eltzbach)沿いにある城。

三方をエルツ川で囲まれ、高さ70mの岩山の上に立つ岩山城です。

城の立地岩山城
城の分類ブルク
城主の階級エルツ伯爵
最初の城の設立12世紀初頭

太古の昔から重要な交易ルートであったモーゼル川とアイフェル川(Eifel)、肥沃なマイフェルト(Maifeld)を結ぶ街道に建てられています。

モーゼル川沿いの城はプファルツ継承戦争でことごとくフランス軍に破壊されていますが、当時のエルツ一族の者がフランス軍の将校であったため、エルツ城は破壊を免れています

一度も破壊されていない城だからといって、必ずしも難攻不落の城と言う意味ではないよ。

エルツ城の過去を紐解けば、破壊こそはされていませんが、降伏した歴史が存在します。

城の最も古い部分は中世初期の頃から存在し、美しく絵になる城であるため、世界中からたくさんの観光客が訪れています。

ドイツ中世の城の中で、最も保存状態がよい城。

ドイツの写真集にもよく登場する城だけあって、森の中に立つ城の姿は素敵よね。

エルツ城は典型的な共同相続城砦(Ganerbenburg)です。

共同相続

ゲルマンの伝統は分割相続です。しかし分割相続すると、所領は細分化されていってしまいます。これを防ぐために共同相続という手法を用い、共同管理、共同所有の形で本家および分家で相続することがありました。

所領だけでなく城も共同相続の対象となり、代々共同相続されます。

エルツ城では、分家家系の名前が建物の名称となっています。

岩山の上は狭いため、一族の人数が増えるにしたがい(一時期900人)上へ上へと増築(11階)を繰り返し、部屋数は100を超えました。

この人口密度はストレスになるからと、一族の中には周辺の村や都市に住む人もいたよ。

ここでは、

  • エルツ城の見どころ
  • エルツ城の歴史

について詳しく紹介します。

目次

エルツ城の構成と見どころ

動画では、現当主の伯爵様が城を案内しています

辺鄙なところに立つエルツ城に行くのは大変でしたが、そこには美しい景色に溶け込む素敵な城がありました。

エルツ城の中庭からの眺め

左側の建物:ケンペニヒの家
右側の建物:リューベナッハの家

周囲を高層建築に取り囲まれているため、中庭から見上げる空は狭いです。

城の内部の見学

この城はガイドツアーに参加することで内部を見学できます。

ガイドツアー

ガイドツアーは、リューベナッハの家のレセプションホールから始まります。レセプションホールは、ロマン主義の時代に武器庫になりました。

武器はもともとセキュリティーの高い部屋に保管されていたんだけど、展示するために移動したんだね。

展示されている銃

15世紀の壁掛け式が鉤型銃が最も古く、16世紀に開発された火縄銃やホイールロック式の銃も展示されています。

15世紀の礼拝堂のオリエル(Kapellenerker)

後期ゴシック様式。

ヴォールト部分のマルアの受胎告知、ガラス絵の聖人崇拝、壁画としてキリストの磔刑が表現されています。

エルツ城の台所

エルツ城の台所

1490年の中世後期のもの。

鍋の高さを調節することによって、火力を調節していました。

博物館

リューベナッハの家の倉庫や美品室だった5つの部屋が博物館になっており、自由に見学することができます。

博物館はそれぞれの家系が所有してきたコレクション、当時の生活を思わせる品々が数多く(約500点)展示されていました。

博物館の入り口では聖人像が迎えてくれます。展示品は鉄砲や時計もあれば、東洋から持ち込まれたとおぼしき品々が展示されていました。

さまざまな武器が合体?

斧とピッケルと銃が合体した武器がありました。

この武器は一体どうやって使っていたのかしら?

遠距離戦は銃で、近距離戦は斧やピッケル部分で使っていたのでしょうか?

主人の食事の準備をする召使いと食事をする城主といった食事の様子を再現した展示がありました。

二股のフォーク

当時のフォークは現在のような四股ではなく二股です。

二股のフォークとはいえ、とても上品なです。

鹿に乗ったディアナ

1600年頃にアウグスブルクで製作されたもの。

エルツ城の公式サイト

エルツ城の歴史

エルツ城(Burg Eltz)
エルツ城(Burg Eltz)
Francisco Conde Sánchez, CC BY-SA 3.0 DE https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en, via Wikimedia Commons
12世紀初頭

モーゼルラント(Moselland)とマインフェルトを結ぶ街道沿いのエルツ川の谷にブルクがあったことがわかっています。この街道は帝国にとって需要な貿易ルートであり、戦略的に重要な拠点でした。

1157年

皇帝フリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa)による寄贈証書に、ルドルフ・フォン・エルツ(Rudolf von Eltz)が証人として名を連ねています。

この時代の城は、後期ロマネスク様式の住居塔プラット・エルツとケンペニヒの家の地下にロマネスク様式の住居跡で確認できます。

共同相続の城へ

1268年

エリアス(Elias)、ヴィルヘルム(Wilhelm)、テオデリヒ(Theoderich)の三兄弟が一族を分割し、城と領地を分割しました。以来、エルツ城は複数の分家が共同体として生活する典型的な共同相続城砦となりました。

3つの家系の呼び名

  • 金獅子のエルツ(Eltz vom goldenen Löwen)
  • 銀獅子のエルツ(Eltz vom silbernen Löwen)
  • 水牛の角のエルツ(Eltz von den Büffelhörnern)
城砦和平書(Burgfriedenbriefe)

共同相続の平和的共存、権利と義務、城の管理・維持について定めたもの

エルツ・フェーデ(Eltzer Fehde)

ルクセンブルク家出身のトリアー選帝侯バルドゥイン(Balduin)は、トリアー(Trier)、コブレンツ(Koblenz)、ボッパルト(Boppart)で和平を実現しようとしました。

帝国自由騎士は、選帝侯のこの政策をフェーデの権利を制限するものと考え、反対しました。

1331年6月15日、ヴァルデック(Waldeck)、シェーネック(Schöneck)、エーレンブルク(Ehrenburg)、いずれもフンスリュック(Hunsrück)地方の騎士たちは軍事同盟を結び、選帝侯に対抗します。

トルツェルツ城(Burg Trutzeltz)

トルツェルツ城(Burg Trutzeltz)

エルツ城を見下ろす岩山に立つこの廃城は、バルドゥインが建てさせた対の城

この城からエルツ城に向けてカタパルトで弾丸を撃ち込みました。その時の弾丸が今でも城の中庭に眠っています。

補給路を断たれたエルツ軍は降伏し、フンスリュックの他の城も同様に降伏しました。

エルツ城が攻撃を受けたのはこのときだけで、エルツ史上、唯一の軍事的紛争だったよ。

1336年1月9日

エルツ和平が締結され、選帝侯バルドゥインの手にゆだれられました。

1337年

ヨハン・フォン・エルツ(Johann von Eltz)が永世城伯に任命されました。

15世紀―盛んな建設活動

エルツ城の見取り図

エルツ城の見取り図

A:ベルクフリートのプラット=エルツ(Platt-Eltz)
B–B7:ケンペニヒの家(Kempenicher Haus)
C–C2:リューベナッハの家(Rübenacher Haus)
D–D3:(Rodendorfer Haus)

1300年頃

小ローデンドルフの家が建てられる。ローデンドルフという名称は、1563年にカテリーネ・フォン・ブラントシャイト・ツー・ローデンドルフ(Katherine von Brandscheid zu Rodendorf)と結婚し、その所領を得たことに由来します。

1441年

銀獅子家が西側にリューベナッハの家(Rübenacher Haus)を完成させます。エルツ=リュベナッハ(Eltz-Rübenach)という名称は、1277年に銀獅子家のリヒャルトがリューベナッハのフォークトを務めたことに由来します。

16世紀初頭

大ローデンドルフの家が加わります。

1567年4月7日

1564年にトリアー大学長を務めるようになったヤコブ・フォン・エルツ(Jacob von Eltz:1510-1581)が、トリアー選帝侯に選出される。反宗教改革の主要な指導者の一人。

エルツ家が騎士団の最高指揮権と統率権を得ました。

1604年から1661年

ケンペニヒの家が建てられます。

巧みな外交術で戦争を乗り切る

三十年戦争(1618-1648年)

唯一のプロテスタント系のエルツ=ビアスカステル=ブラウンシュヴァイク(Eltz-Bliescastel-Braunschweig)家の巧みな外交戦略により、無傷で乗り切ります。

プファルツ継承戦争(1688-1689年)

ヨハン=アントン・フォン・エルツ=ユッティンゲン(Johann-Anton von Eltz-Üttingen)はフランス軍の商工だったため、エルツ城の破壊を防ぐことに成功しました。

ハイデルベルク城をはじめ、多くの城がこの時破壊されたんだよね。

1733年

皇帝カール6世(Karl VI.)は、宗教改革の混乱とトルコ戦争での功績を認め、金獅子家系に帝国伯爵の称号を与えました。公証人の選定、公文書館や裁判官の任命権、農奴の解雇権などの特権を得ました。

フランスによるライン支配時代(1795-1815年)

フーゴ・フィリップ伯爵(Graf Hugo Philipp)は移住者として扱われ、ラインとトリアーの領地を没収されました。彼自身は「市民伯エルツ」と呼ばれるようになりました。

分家の統合

1786年

エルツ=ケンペニヒ家が断絶。

1815年

リューベナッハ家とエルツ・リューベナッハ家の所領を買い取り、フーゴ・フィリップ伯爵が唯一の城主となります。

19世紀以降

1845年から1888年

ロマン主義による中世への関心が高まる中、カール・ツー・エルツ伯爵(Graf Karl zu Eltz)は先祖伝来の城の修復に力を注ぎました。注意深く本質的な修繕を心がけ、大きく改変されることなく修繕されました。

1890年

『エルツの領主と伯爵の歴史』を編集させ、出版します。

2009年から2012年

景気対策と記念碑保護の観点から440万ユーロの費用を投じた大規模な修繕作業が行われました。

エルツ城へのアクセス

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