フランクフルト・アム・マイン市の北西に位置するエプシュタイン城。タウヌス山地の山の尾根筋に立つ山城。中世時代はこの地域の有力な貴族の邸宅でした。
しかし今となっては廃墟。
その背景には「廃墟の姿のほうが美しい」という19世紀のロマン主義の影響を否定できず、わざと破壊された面があります。
この城の魅力は以下の3つ。
- 防衛や建築史の観点から、基本的に中世末期の特徴を残す
- 約300年にわたりライン・マイン地方の有力貴族の居城だった
- 廃墟にいたった経緯と風光明媚な立地
上記の3つは割とありきたりな魅力ですが、歴史的に
城の東側半分と西側半分で所有者が違っている時代が長く、城の東西で歩んだ歴史が異なる不思議な城
というのが最大の特徴です。
本記事では、エプシュタイン城の見どころと歴史を紹介します。
エプシュタイン城の構成と見どころ
現在残っている建物は、主に14世紀から15世紀にかけて建てられたものです。
後期ゴシック様式の教会があるエプシュタインの旧市街地は、城山に寄り添うように存在しています。
かつては領主が住み、行政、経済、防衛の機能を併せ持っていました。
外郭とツヴィンガーがおりなす不規則な丸みを帯びた多角形をしています。
在りし日のエプシュタイン城と都市
博物館には、栄えていた15世紀頃の城と都市の模型がありました。
ベルクフリート
現在の高さは24.50m。
かつては廻縁があり、高さ約33mあったとされています。
1804年に取り壊され、1872年には更に短くなってしまいました。1889年に鉄製の螺旋階段が設置されています。
17世紀には牢獄として使用されていました。
ベルクフリートの基部周辺には、1912年に再建されたアルタンがあります。
ベルクフリートからの眺め
ベルクフリートから眺める旧市街とタウヌス山地が美しいのよね
井戸
深さ25m。
1803年以降、一時廃棄物処理場として使用されていました。
エプシュタイン市によるエプシュタイン城の公式サイト
エプシュタイン城の歴史
Ferdinand Luthmer, Public domain, via Wikimedia Commons
発掘調査により、この城は10世紀に築かれていたことが証明されています。国境警備のための帝国城砦として築城されました。
巨人伝説は2つあります。
- 騎士エポが築いた城壁を夜な夜な巨人が破壊続けました。騎士は鉄の編みで巨人を捕らえ、ベルクフリートに閉じ込めました。巨人は屋上に登って身を投げ出し、首の骨を折って死にました。
- 巨人が美しいベルタ・フォン・ブレムタルを誘拐しました。騎士エポは彼女を解放し、巨人を網で捕らえて谷に落としました。騎士は乙女と結婚し、城を建設しました。
伝説には、築城者エポ=エバーハルト(Eppo = Eberhard)という史実が紛れ込んでいます。
939年のフェーデに倒れたドイツ王コンラート一世の弟のケーニヒスズンダーガウ伯爵エバーハルト(Königssundergau-Grafen Eberhard)が築城者ではないかと考えられています。
巨人の首の骨と伝えられたエプシュタイン城にありましたが、実際にはクジラの骨で、ナッサウの古美術館に展示されているよ。
ベルクフリートの下に、築城者の名前にちなんで城の名になった「石」=「岩」が残っています。
有力貴族エプシュタイン伯爵の誕生
- 11世紀
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塔城があったとされています。長方形の内郭があったのか、内郭に相当するロマネスク様式の城があったのか分かっていませんが、とにかく城がありました。
- 1100年
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縄張り図によると、内郭は中庭を中心とした八角形の城郭群であったことがわかっています。
- 1122年
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はじめて史料に登場した城は帝国の所有物でした。貴族は城とそれに付随する権利や資産を没収されていました。
- 1124年
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東半分をマインツ大司教に寄贈。その少し前に、ウダルリッヒ・フォン・イドシュタイン=エプシュタイン(Udalrich von Idstein-Eppstein)は西半分を皇帝領として受け取っています。
城は西半分と東半分で異なる運命をたどるようになるよ。
城は1つなのに東半分と西半分で所収者が異なり、違う歴史を歩むなんて、不思議な城ね。
- 1180年から1190年
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マインツ選帝侯はハインハウゼン(Hainhausen)の領主にエプシュタイン城を所領として与えました。ハインハウゼンの領主たちはエプシュタインに移り、新しい所在地にちなみエプシュタイン伯に改名しました。
所領として与えたのは東半分で、西半分は依然として帝国資産のままです。
エプシュタイン家は、ライン・マイン地方で最も有力な貴族家系へと成長。
13世紀のマインツ大司教のうち、4人がエプシュタイン家出身。帝国宰相として、政治に大きな影響力を持っていました。中央集権的なドイツ国家の誕生を妨げた人物も、ハプスブルク家のルドルフをドイツ王にした人物もエプシュタイン家の人物です。
領地を拡大し、ナッサウ=ヴィースバーデン(Nassau-Wiesbaden)伯爵と衝突するようになり、城は外郭が拡張されていきます。
エプシュタイン伯爵家はマルクスブルク城も所有していました。
後期ゴシック様式の要塞へ
- 1318年
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都市エプシュタインは都市権を得ます。
- 1350年
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大火災により焼失してしまいます。
しかしピンチはチャンス!再建・改修により、後期ゴシック様式の近代的で防御力の高い要塞へと、15世紀まで城は強化され続けます。
ベルクフリートはさらに高くなり、居間や管理室などを備えたパラスが再建され、東半分に巨大な建物、長厩舎、砲台を備えたツヴィンガーができました。
城と都市が一体化し、巨大な一つの要塞になりました。
- 1417年
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ナッサウ軍に一度だけ征服されますが、エプシュタイン軍がすぐに反撃して取り戻します。
エプシュタイン伯爵家の衰退
- 1433年
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エプシュタイン家は2つの系統に分かれます。そのうちエプシュタイン=ミュンツェンベルク(Eppstein-Münzenberg)家は、最後の当主が無能であったため、ひどく衰退してしまいました。
- 1492年
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領土や権利が売却され、財政難のため城の西半分がヘッセン方伯に売却され、方伯は城の一部を拡張してケメナーテを建て、行政庁として使用しました。
西半分は1492年にヘッセン=マールブルク(Hessen-Marburg)家に、1604年からはヘッセン=カッセル(Hessen-Kassel)家に所有権が移ります。
- 1507年
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最後のエプシュタイン=ミュンツェンベルクが残りの資産をエプシュタイン=ケーニヒシュタイン(Eppstein-Königstein)系に譲渡すると、城は貴族の住居、権力の座から単なる行政の中心地となります。
- 1535年
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エプシュタイン=ケーニッヒシュタイン家が断絶。東半分はシュトルベルク(Stolberg)伯爵に相続されます。
三十年戦争では、ヘッセン、皇帝、スウェーデン、選帝侯、フランスによって代わる代わる占領されました。
ナッサウ公国の時代、そして廃墟へ
- 1802/03年
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城はすべてナッサウ公国に譲渡されました。
東半分には役所が置かれていましたが、西側半分は放置されていたため荒廃が進み、人が住める状態ではなくなっていました。
ナッサウには多くの城がありましたが、エプシュタイン城は何の役にも立たないとされ、放置されました。工場、流刑地、学校にすらなっていません。
この時代、城はさまざまな用途に用いられてきたけど、エプシュタイン城は放置されてしまったんだね。
- 1804年~1819年
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ナッサウは西半分を競売にかけ、取り壊すことにしました。
15世紀に建てられたケメナーテと階段が取り壊されます。パラスは現在の廃墟に至るまでに取り壊されました。屋根を取り外し、建物が壊され、壁が取り壊され、資材が投げ込まれました。
城は一部を残して売却され、ナッサウの手元に残った門番小屋、カトリック教会とその隣の建物だけが残るのみです。
東半分も、石を建築資材として使用するために取り壊されました。
歴史的資産としての城へ
- 1824年
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フランツ・マリア・フォン・カルネア・ステファネオ・ディ・タポリアーノ・ツー・クロンハイム・ウント・エッペンシュタイン男爵(Freiherr Franz Maria von Carnea-Steffaneo di Tapogliano zu Kronheim und Eppenstein)が、祖先の城と勘違いして城を購入します。
名前が似てるから、勘違いしちゃうのもわかる
- 1830年
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男爵の死後、ツヴィンガーをエプシュタイン市民が競売で落札、内郭を買い取りました。
- 1889年
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シュトルベルク家が、フランクフルトの建築家兼建設業者フランツ・ブルクハルト(Franz Burkhard)にこの城の管理を任せたときから、この城の保存と再生が始まりました。彼は歴史に興味があり、城の発掘調査を行い、過去の姿を少しずつ明らかにしました。
- 1929年
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戦後、歴史的なモニュメントとして保存するための活動が続けられます。
現在、エプシュタイン市、マイン=タウヌス郡、ヘッセン州、ドイツ城郭協会と寄附者が資金を出し合い、改修が続けられています。
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