ロマンティック街道(Romantischestraße)はネルトリンゲン(Nörtringen)の南東、リース(Ries)盆地の縁に立つ山城。南ドイツで最も古くて大きい保存状態の良い城の一つです。
城の立地 | 山城 |
城の分類 | ブルク |
神聖ローマ皇帝→エッティンゲン(Oettingen)伯爵家→エッティンゲン=ヴァラーシュタイン(Oettingen-Wallerstein)侯爵家 | |
設立年代 | 10世紀後半 |
長さ220m、幅は最大120m。シュタウフェン朝最大の宮廷であるヴィンプフェン城を超えています。
皇帝の城よりも大きいの!?
でもシュタウフェン朝時代はハールブルク城も帝国城砦の一つだったから、別におかしいことではないよ。
バスツアーではこの城に停車しない可能性もありますが、近くを通りかかる時、山の上にこの城を見ることができるかもしれません。山の上の城を探してみてください。
ハールブルク城の見どころ
落とし格子のある城門
落とし格子は外されてしまっている城が多い中、ハールブルク城には落とし格子が残っています。
右側に見えるのは白い塔(Weißenturm)です。
土産物屋にはなぜかパン屋の看板。 昔はパン屋だったそう。ガイドツアーのチケット等はここで購入します。
ハールブルク城の庭園
小規模ながら、ハールブルク城には左右対称の庭園があります。
ツアー開始時刻まで時間があったので、庭園を散策して時間を潰しました。
仮装をしてダンスをしていた人たち
ここのスタッフの方たちなのでしょうか。ダンスをしていました。
ダンスを見たかったのですが、ちょうどガイドツアーと重なって姉妹見ることができなかったのですが、写真撮影には快く応じてくれました。
ハールブルク城のガイドツアー
ツアーはドイツ語だけど、日本語のツアーガイド冊子が有料であるよ。
ガイドツアー参加者が15人ぐらい集まると、ガイドツアーが始まります。
カウベルをぶら下げた人の良さそうなドイツおばさんがガイドさんでした。カウベルが良い音出してます。
ツアーが始まると、まずは注意事項の説明から始まります。内部は撮影禁止です。
聖ミヒャエル城教会(Schloßkirche St. Michael)
城が出来た当時はまだ食べ物が乏しくみんな飢えていたの。 昔はね、チョコレートもフライドポテトも無かったのよ。ジャガイモを食べるようになったのはずっと後になってから。スパゲッティだって無い、胡椒も無い。みんな○×粥、□△粥、★◇粥、etc.を食べていたのよ。分かる?
バナナは?
バナナだって無いのよ。それに昔は暖房が無くて冬はとっっっても寒かったのよ
子ども向けの説明をするガイドさんは初めて見ました。子供向けの説明は大人にとってもイメージしやすくていいですね。
ガイドさんはちょっとバイエルン訛りが入ってて聞き取りにくいけど、しゃべり口が凄く面白くて隙が無い。
ちなみにガイドさんは、この後の見学もずっと男の子の傍にいました。元気の良い子供を捕まえておけば、展示品を触ったり、いたずらされる危険性は少ないですからね。
生活するのに一番大切なものは何ですか?
水!
そう、水です。家畜を飼うのにも水がいるし、洗濯するのにも料理をするのにも水が要ります。今は枯れていますが井戸は50mの深さがあります。昔は130mの深さがありました。
ガイドさんはまた男の子に向かって
ハムスターの回し車って知ってる?井戸から水を汲み上げる時はね、ハムスターの回し車みたいなのがあって、その中に人が入って走ってまわして水を汲み上げていたのよ。(動作付き)
とまあ、肝心の教会の説明にはいる前の前置きがひじょうに長かったのですが、ガイドさんの話し方がとても面白かったし、楽しかったです。
教会で翼廊を飾ってある像は、ここの三代にわたる福音派の伯爵夫妻の墓標だそうです。他にカトリック派がどうとか福音派がどうとかいう説明がなされました。傍系によって宗派が違っていました。
日本人にとってあまりピンとこないことかもしれないけれど、宗派の違いはヨーロッパ人にとって重要なことです。
教会を出て給水塔(Wasserturm)へ向かう。塔の前で軽く説明。
塔に入ってすぐ階段を上って歩廊を歩く。
これが1500年からある木。500年の歳月が経っているの
1500年というと、日本の室町時代。室町時代から城を見てきた木ということになります。
3種類の矢狭間
防衛歩廊(Whergang)にある3種類の矢狭間は15、16世紀に作られたものだそうです。
近くの敵を狙うのと遠くの敵を狙うもの。始めて見るのは木製ボールが付いた鉄砲狭間。触ってぐりぐりと回してみると、よく回ります。
ボールの穴に銃身を挿し込んで撃ったらしいです。ボールの素材となっている弾性木材は、銃の衝撃を吸収するだけでなく、銃の支えとなったので、安定して撃てたようです。
防衛歩廊からは、城全体を見渡すことができます。
その先に紋章入りの楯が掛けてありました。城主とその家来達のものらしいです。
更にその先には、牢獄で囚人の人形が置いてあります。4人まで収容できるそうです。ここは三十年戦争で破壊されてしまいましたが、その後再建されたものらしいです。
カステンハウス(Kastenhaus)
カステンハウス(Kastenhaus)には、初めて見る羽ペンがありました。
ガイドさんは羽ペンを持って羽ペンについて説明します。
ガチョウの左の翼から1枚だけ取れます。ここの部分にインクが溜まります。
使い心地を考えて左の翼を使うのでしょう。左利きの人には右の翼を使うということはあったのでしょうか。疑問が生じます。
この建物は、1階は厩舎(現在居酒屋)、2階は武器庫で3階は司法局として使われたらしいです。男の子を巻き込んでの鍵についての説明もしていました。
次の部屋にはエッティンゲン=ヴァラーシュタイン( Oettingen-Wallerstein )家の家系図が展示されており、現在の侯爵様ご一家の家族写真(さすがに品があります)があります。
昔はかなり若くして大人になりました。女の子は14歳で大人扱いになりました。
という説明をガイドさんはしていきます。
その他、時計のからくりとドイツ最初の皇帝フランク王国のカール大帝(Karl der Große)の絵がありました。
再び外に出て歩廊へ。矢狭間から見る外の景色は,高かった。こんな所、攻める気にはなりません。
盗賊塔(Diebsturm)
盗賊塔は旧ベルクフリートです。ハールブルク城の中で最も古い要素の一つ。下の方は丸みを帯びたてぼこぼこした背丸切石、上の方は普通に平らな石で上と下で感じが違います。
もともとは穀物倉庫だったそうです。
塔の1階部分は敵の侵入を防ぐため,出入り口とういうものはありません。梯子を使って上層階から入り、1階は穀物倉として使うのが普通です。この城の最も古い部分で最初の城になります。
そして近世になって牢獄として使われました。
深さ8m、照明無し、窓無し、一日中真っ暗。
想像するだけでかなり酷。今は見学者のために明かりがついています。下を覗くと、やっぱりそれらしい囚人の人形が置いてありました。
ホール館(Saalbau)
東側ベルクフリートはファウル塔(Faulturm)で、ホール館とつながっています。
祝賀の大広間を見学しました。
「戦争と平和」をモチーフにした絵画があり、ギリシア神話のヘルメス神、アテナ神の説明がありました。他にも、ペルセウスとアンドロメダの絵があります。
内部の見学は以上で終わり、城の外に出て、見学しなかった他の建物の説明がありました。
以上でガイドツアーは終了となりました。
美しいハールブルク城をお手元に
ハールブルク城の歴史
現在ハールブルク城を所有するエッティンゲン家は、バイエルンで最も古い貴族家系の一つに数えられています。
帝国城砦として
おそらくハールブルク城はシュタウフェン時代よりも前から存在しており、その始まりは10世紀後半。
城の研究者たちは「オットー朝ランデスブルク」と表現していて、マジャル人の侵攻に対する国防のために建てられた城だったよ。
もともとリース地域は皇帝を輩出しているシュタウフェン家の領土でした。
シュタウフェン朝の国王ハインリッヒ(Heinrich)がビザンツ帝国の皇帝夫妻に宛てた手紙の中で「我々の城」とされており、シュタウフェン家の所有だったことは間違いありません。
ハールブルク城は、皇帝が滞在し、ミニステリアーレが管理する帝国城砦の一つで、シュタウフェン家のリース地方における権力の中心地でした。
伯爵領の拡大
エッティンゲン家そのものは、1141年にルードヴィッヒ・フォン・エッティンゲン(Ludwig von Oettingen)が初めて記録文書に登場し、1147年におそらく伯爵位を叙爵したと考えられています。
当時はアルトミュールタール(Altmühltal)周辺地域、クライヒガウ(Kraichbau)、バンベルク(Bamberg)を中心とするマインボーゲン(Mainbogen)に領地があり、モザイク状でした。
エッティンゲン家は13世紀から14世紀にかけて、買収により領土を拡大していきます。
帝国領から伯爵領へ
ハールブルク城は抵当物件としてエッティンゲン伯爵家のものへやってきたんだ。
- 1251年
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国王コンラート4世がハールブルクの村をエッティンゲン伯爵ルードヴィッヒ3世に抵当物件として差し出す。
- 1295年
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ハプスブルク家のアルプレヒト(Albrecht)国王が、ハールブルクの市場と城をエッティンゲン伯爵ルードヴィッヒ5性に抵当物件として差し出す。
- 1347年
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皇帝カール4世が帝国の借用金を確認する。
- 1418年
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皇帝ジギスムント(Sigismund)が、エッティンゲン伯爵への帝国借用金の返済ができないと宣言し、ハールブルク城はエッティンゲン家の所有となる。
帝国が財政難に苦しむ中で、エッティンゲン家はうまくやったんだね。
エッティンゲン家はシュタウフェン家と婚姻関係があり、皇帝の側近として活躍していたから、皇帝としても借金しやすかったのもあるかもしれないね。
以後、17~18世紀の領土売買を除き、領土は1806年までほとんど変化はありませんでした。
面積的には、ヴィッテルスバッハ家やハプスブルク家の領土と並ぶ広範囲な世俗的領土を所有していたよ。
エッティンゲン家の階級を考えると、身分不相応とも言えるぐらい広い!
ハールブルク城を居城に選び、ホール館が建てられ、大砲や砲身が設置されました。
宗教改革と三十年戦争
1524年、カール・ヴォルフガング伯爵が福音派の宣教師をハールブルクに招き、1539年から宗教改革が導入されます。タイムラグが有るのは、1525年に農民戦争があったからです。
シュマルカルデン戦争
ハールブルク城が包囲されます。帝国軍とプロテスタント軍がハールブルク城を占領します。
ミュールベルクの戦いで敗北したため、カール・ヴォルフガング伯爵は1548年まで亡命を余儀なくされ、2人の息子たちもまた1555年まで亡命しなければなりませんでした。
三十年戦争(1618~1648年)
スウェーデン国王グスタフ・アドロフが城に駐屯軍を配置。
城は何度も包囲され破壊行為を受けますが、大規模破壊を受けることはありませんでした。しかし領土は完全に荒廃し、戦費の負担が重くのしかかっていました。
エッティンゲン=エッティンゲン侯爵家の下、醸造所が建てられ、白い塔や井戸が建設されました。
関連:三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg)
18世紀
祝賀の大広間が建設され、聖ミヒャエル城教会がバロック化されました。
1731年、福音派のエッティンゲン=エッティンゲン侯爵家が断絶します。
相続争いの結果、カトリック派のエッティンゲン=ヴァラーシュタイン(Oettingen-Wallerstein)家が2/3を、エッティンゲン=シュピールベルク(Oettingen-Spielberg)家が1/3を相続し、ハールブルク城はエッティンゲン=ヴァラーシュタイン家の所有となります。。
エッティンゲン=ヴァラーシュタイン家は、1774年に帝国侯爵に昇格します。
第二次ナポレオン戦争
フランス軍がオーストリア軍の守るハールブルク城を砲撃しますが、なんとか持ちこたえます。
この時の包囲戦の防衛成功が、毎年6月に行われるボックフェスト(Bockfest)の起源となっています。
祭りとして残るぐらい、この時の防衛成功は大きな出来事だったんだね・
19世紀以降
ハールブルク城は司法機関の所在地となります。
1818年に「ハールブルク侯爵裁判所」となり、1852年まで王立裁判所と警察当局の所在地でした。
第二次世界大戦以降
2系統あるエッティンゲン侯爵家のコレクションやアーカイブをハールブルク城へ移します。
改装工事とガイドツアープログラムを充実させ、博物館としてオープンします。
ハールブルク城の現在の城主はヴァラーシュタイン城とバルデルン城の城主と同じエッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯爵家(Oettingen-Wallerstein)です。
ハールブルク城の公式サイト
ハールブルク城へのアクセス
アウトバーン7号線(A7)をローテンブルク(Rothenburg ob der Tauber)で降りてブンデス(Bundes)25号線を南下してロマンティック街道を行くのもよし。
アウトバーン8号線(A8)をアウグスブルク(Augsburg)で降りて、ブンデス(Bundes)2号線を北上、ドナウヴェルト(
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