フランクフルト(Frankfurt)の北東約20kmのところに位置し、フランクフルトから日帰り観光できる場所。城はもちろんのこと、ゲルンハウゼンの町は木組み建築の家々が立ち並ぶ美しい街並みを楽しむことができる場所です。
ゲルンハウゼンなんて、聞いたことないわね。
日本人にとって馴染みはないかもしれないけれど、ここには中世ドイツの皇城ことカイザープファルツ(Kaiserpfalz)があった重要な場所だったんだよ。
つまり、ゲルンハウゼン城は帝国城砦の一つ。バルバロッサの城とも呼ばれています。
皇城ゲルンハウゼンは、キンツッヒ(Kinzig)川が大きく蛇行する中洲に建てられた水城。
ライプツッヒ(Leipzig)、エアフルト(Erfurt)、フルダ(Fulda)、フランクフルトを結ぶ交易路がキンツッヒ渓谷を通っており、マイン川やライン川へと繋がる航行可能な川のあるゲルンハウゼンは、交通の要所でした。
城自体は廃墟です。遺構からプロヴァンス地方やアルザス地方の影響が見られます。
ゲルンハウゼン城の構成と見どころ
ゲルンハウゼン城は軟弱地盤に建っているため、長さ1.5mの打ち込み杭の格子の上に壁が建てられています。
杭を打ち込んでいるとはいえ、石造りの建物を建てるとなると木製の杭は当然ながら荷重に耐えきれずにたわみ、すぐに壁や支柱が曲がってしまいます。そのため、多くの修繕作業が行われました。
表面に丸みをもたせた背丸角石(Buckelquader)と平らに削られた角石が、建物に異なる印象を与えています。
背丸角石(Buckelquader)
シュタウフェン朝時代、表面に出ている面がボコッとなっている方形の石が大流行しました。この時代特有なので、シュタウフェンの壁とも呼ばれます。
表面は、きれいに整えられていることもあれば、粗削りのままのこともあります。
環状城壁と同様、この時代のものはこのような石が用いられていることが多いので、すぐに時代が分かります。
このような角石は高度な石工技術が必要とされ、技術が大いに飛躍しました。
ゲートホール(Torhalle)
ゲートホールはゲルンハウゼン城の中で比較的よく保存されているというより、唯一原型をとどめている建物で、1170年の都市の建設とともにゲートホールの建設が始まっていたことがわかっています。
ゲートホールの上には、かつて礼拝堂がありました。
ゲートホール内部
2つの身廊と3つの張間で構成され、2つのアーチ型の開口部が中庭に開いています。
ロマネスク様式の建物としては広々とした設計。シンプルな中に力強さを感じます。
ライオンのティンパヌム
おそらくホールの暖炉にあったのではないかと考えられ、弱者に対する強者の勝利を象徴していると言われています。
パラス(Palas)
中庭のファサード以外、ほとんど残っていません。環状囲壁の一部であった北壁の残骸が残っているのみです。
わずかしか残っていませんが、地下室、1階、2階のある建物であったことは想像できます。
1階には小部屋、2階は大広間になっていたと考えられており、発掘調査から地下室は5つの部屋に分かれていたことがわかっています。
パラスのポータル
アーチの上部にあるのは、『バルバロッサの頭(Barbarossakopf)』と親しみを込めてよばれている飾り。
門上部を飾る装飾に、フランスのプロヴァンス地方の影響が見られます。
暖炉跡
鋸歯状のモチーフで装飾された半円形の窓は、ひじょうに貴重なものです。
皇帝と后の玉座がここにあったのではないかという説があるよ。
ゲルンハウゼン城の歴史
ゲルンハウゼン城の建設
建物がいつ建てられたのか、出来事を文書に記録する習慣がまだなかった時代だから、不明点がたくさんあるのは致し方ない。
城は、フリードリッヒ一世(赤髭王)(Freidrich I. Barbarossa)の時代に建てられたとされています。
- 1157/58年
-
当初は重要な地方貴族に属していましたが、マインツ大司教が反皇帝政策の一環として、購入しました。
- 1165年
-
皇帝フリードリッヒ一世はゲルンハウゼン城を完全に手中に収め、ただちにプファルツの建設に着手し、権力の拡大・確保に努めました。
- 1165年から1183年
-
時期ははっきりしていませんが、この頃にマインツ司教領から帝国領へと所有権が移りました。
所有権の変更理由と経緯は分かっていません。
文書に登場する城と、現在の城との関係も実はよく分かっていないんだ。
- 1170年
-
フリードリッヒ一世が都市ゲルンハウゼンを建設。これも文献に登場する城と現在の都市が同じものであるかどうか、確証されていません。
1170年の都市の建設から中世後期まで、ゲルンハウゼンには多くのドイツ国王や皇帝が滞在していました。
しかし皇帝がプファルツに住んでいたことを明確に示す文書はなく、「ゲルンハウゼンで文書を作成させた」という記録が残るのみです。
- 1180年
-
ここで開催された帝国議会でハインリッヒ獅子公が解任されたことは明らかですが、どの建物で行われたのかははっきりしていません。
ゲルンハウゼン城の崩壊と保存活動
- 1250年
-
シュタウフェン朝最後の皇帝フリードリッヒ二世が死去。
以降、権力の中心はオーストリアに移り、帝国の他の地域では諸侯間の争いが激化しました。
- 1330年以降
-
都市と城は何度も城に抵当に入れられました。
これは、政治の拠点としてではなく、資金源としてのみ利用されていたことを表しています。
プファルツを管理するためのブルクマンはプファルツに住み続けていましたが、皇帝から相手にされなくなったため、事実上の独立状態となり、独自の支配体制を形成。
皇帝から忘れ去られてしまった存在なら、事実上の支配者として君臨せざるの得なかった面もあるのかもしれない…。
14世紀には都市ゲルンハウゼンと帝国そのものと対立するほどの勢力に成長していたんだよ。
外郭は一種の小都市のようになり、ブルクマンはここに住居や別館を立てました。その一方で、内郭は老朽化していきました。
15世紀以降の修復作業
1431年には、内郭の崩壊が目に見えてわかるほどになりました。
ブルクマンは皇帝ジギスムント(Sigismund)にこの惨状を訴え、基礎の沈下が続いていた西側の修復作業がはじめて行われました。
倒壊の危機にあった門の横の塔の上部を除去し、南東隅に新しい守衛所を設置しました。
礼拝堂の中庭の壁は保全しきれませんでしたが、1810年まで教区教会であったため、壁は半円アーチ窓を持つものに作り直されました。
19世紀―取り壊し禁止へ
- 19世紀初頭
-
ブルクマンの建物が取り壊され、1930年から31年にかけて南側の環状囲壁で発掘調査が行われました。上層階はおそらく新しい木組み建築があったと思われます。
- 1816年
-
ヴィルヘルム一世・フォン・ヘッセン=カッセル方伯は、ロマン主義の廃墟愛好家の一人として、ゲルンハウゼン城がこれ以上取り壊されることを禁止しました。
- 1827年から1860年
-
特に門と礼拝堂の建物の保全と、パラスの壁の修復が行われました。その際、礼拝堂の一部や中庭の建物も撤去されました。
破壊が禁止されているのに、壊されているじゃん!
- 1930年以降
-
西側で沈下が続いていたため、工事が行われました。
ゲルンハウゼン城の公式サイト
ゲルンハウゼン城へのアクセス
ゲルンハウゼン駅から木組み建築の街並みを楽しみながら、城を目指すと楽しいよ。
帝国城砦は他にもたくさんあるよ
コメント