ドイツ・テューリンゲン州のアイゼナハの山の上に静かに佇むヴァルトブルク城。
ヴァルトブルク城の歴史は、ドイツ史そのものです。
11世紀の設立から、ルードヴィング(Ludwing)家の支配、聖エリザベート(hl. Elisabeth)の生涯、13世紀の文化的な開花、そしてルターの聖書翻訳という世界史的な転換点。
さらに、19世紀のドイツ統一運動の象徴としての役割や、東西ドイツの分断と再統一を見つめてきた現代。

本当に歴史の教科書がそのまま城になったみたい!
このようにヴァルトブルク城は、数々の歴史の舞台となってきました。
本記事では、この古城が歩んだ壮大な歴史の軌跡を詳しくご紹介します。
ヴァルトブルク城の構成と見どころについては、下記ページをご覧ください。


ヴァルトブルク城の始まりー伝説と歴史が織りなす創成期


ヴァルトブルク城の創成期は、確かな歴史的記録と、人々の間で語り継がれる魅力的な伝説が混じり合い、神秘的なベールに包まれています。
「跳躍伯」の伝説と城名の由来
ヴァルトブルク城の正確な築城年は不明です。
伝説では1067年ですが、歴史研究者たちは1073年を最も可能性の高い創設時期としています。
ヴァルトブルク城の名称と築城伝説
築城伝説は、ヴァルトブルク城の名前とも関連しています。
テューリンゲン伯ルートヴィヒ跳躍伯(Graf Ludwig von Türingen der Springer)がこの地を訪れたときのこと。



待て(wart)、山よ、汝我が城(Burg)となれ!
と叫んだ言葉に由来するものです。



ロマンチックすぎる…中世のプロポーズかと思っちゃった。
また、別の伝説では狩りの途中で訪れた山を気に入り、家臣の到着を「待った(Wart)」ことから、「待つ城」と名付けたとも言われています。
一説には、ルートヴィヒがこの地を不正に取得するため、自領の土を運んで地面に撒き、「これは自分の土地だ!」と主張したという大胆な伝説も残っています。
学術的には、ヴァルトブルクの「Wart」は「周囲を監視できる場所」と解釈されています。
これは、フランクフルト・アム・マインからアイゼナハやエアフルトを経由してライプツィヒに通じる重要な街道を見下ろす、戦略的に重要な立地に築かれたことに由来しています
この地理的優位性が、城の存在意義と初期の発展に大きく寄与したと考えられます。
最初の記録
- 1080年1月
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ヴァルトブルク城が古文書に初めて登場するのは1080年1月、『ザクセン戦争に関するブルーノの書』(Brunos Buch vom Sächsischen Kriege / De bello Saxonico)。
皇帝ハインリヒ4世の軍が「ヴァルトベルク」という名の城の近くで野営し、城の守備隊に奇襲されて敗走した出来事が記録されています
城山塔子これは、ヴァルトブルクが軍事拠点としてすでに機能していたことを示す、貴重な一次資料なんだよ。
城を築いた人々ールードヴィンガー家の台頭
リーネック(Rieneck)伯の傍系出身で、後に重要な存在となるルードヴィング家の祖先であるルートヴィヒ髭伯(Ludwig der Bärtige)が、1040年頃にシャウエンブルク城(Schauenburg)を築き、小さな開墾領を築きました。
その息子(または孫)であるルードヴィヒ跳躍伯がヴァルトブルク城の創設者と見なされています。


ルートヴィヒ跳躍伯:1024年-1123年
ドイツ国王選挙の際にロタール・フォン・ズップリンゲンブルク(Lothar von Süpplingenburg)を支持した功績により、息子の代の1131年に方伯を叙爵。
この昇格により、ルードヴィング家はチューリンゲン地方における権力を盤石なものにしました。
Nilaxus, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
ヴァルトブルク城の創設者とみなされているルートヴィヒは、もともとはリーネック(Rieneck)伯爵の傍系でした。
ドイツ国王選挙の際にロタール・フォン・ズップリンゲンブルクを支持したことにより、方伯を叙爵します。


ルートヴィヒ2世鉄伯の時代:築城の黄金期
跳躍伯の系譜を継いだのが、ルートヴィヒ2世鉄伯(Ludwig II. der Eiserne)です。
1128年ごろに生まれ、皇帝フリードリヒ1世赤髭王(Friedrich I. Barbarossa)の妹ユッタと結婚。帝国との強固な関係を築き、築城・統治において卓越した手腕を発揮しました。



後のヴァルトブルクの黄金時代は、鉄伯ルートヴィヒの時代から始まったと言っていいだろうね。
ヴァルトブルク城と聖エリザベート:慈愛の王女が過ごした日々


Rudolf Moroder, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
ヴァルトブルク城の歴史を語る上で、一際輝く存在が、聖エリザベート(Elisabeth von Thüringen)。


ハンガリー王女エルジェーベトとして生まれ、後に中世ヨーロッパで最も人気のある聖人の一人となった彼女の生涯は、ヴァルトブルク城と深く結びついています。
ヴァルトブルク城への到着:幼い王女の運命
エリザベートは、ハンガリー国王アンドレアス2世(Andreas II.)の娘として1207年7月7日に生まれたと伝えられています。
まだ幼い4歳であった1211年、彼女の運命は大きく動きます。



4歳は幼すぎるでしょ!
テューリンゲン方伯ヘルマン1世の使節がハンガリーでの求婚に成功し、エリザベートは将来の結婚の準備のため、テューリンゲンを治めるルードヴィンガー家のもとへ引き渡されました。
彼女は乳母、教育係、護衛といった王室の従者を伴い、遠い異国テューリンゲンへと旅立ち、ヴァルトブルク城に迎え入れられます。
宮廷での生活と結婚、そして別れ
ヴァルトブルク城で花嫁修業を積んだエリザベートは、ヘルマン1世の長男であるルートヴィヒの妻となる予定でしたが夭折したため、弟のルートヴィヒ4世と結婚しました。
1221年に結婚し、1211年から1228年までの17年間を、花嫁として、そしてルートヴィヒ4世の妃として、この城の宮廷で過ごしました。



実際の結婚は、成長した14歳になってからなのね。
しかし幸せな日々は長くは続きません。夫ルートヴィヒ4世は1217年に父の跡を継ぎましたが、1227年に十字軍遠征中に病で亡くなってしまいます。
夫を亡くしたエリザベートは1228年にヴァルトブルク城を出て、マールブルクへと移り住むこととなりました。


華やいだ宮廷文化の中心で
エリザベートがヴァルトブルク城で暮らした13世紀初頭は、アイゼナハにおける方伯の宮廷が、特に西ヨーロッパやフランスの影響を受けた華やかな宮廷文化を育んでいた時代でした。
宮廷には、下記に挙げる高名な詩人たちが招かれ、滞在しています。
- ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(Welter von der Vogelweide)
- ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)
- ハインリヒ・フォン・フェルデケ(Heinrich von Veldeke)
ヴォルフラムの叙事詩『パルチヴァール』の一部はこの宮廷で生まれたとされ、彼の別の作品『ヴィレハルム』はヘルマン1世の依頼作とされています。


「ヴァルトブルクの歌合戦」という伝説的な歌の競技も、この宮廷を舞台として繰り広げられたと伝えられており、当時の文化的な賑わいを物語っています。



この宮廷は、まさに中世の知と芸術の温床だったんだよ。
ヴェッティン家による支配と城の変遷


Wolfgang Sauber, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
聖エリザベートがヴァルトブルク城を去った後、城の歴史は新たな章へと突入。
彼女の夫であるルートヴィヒ4世の死後、その弟であるハインリヒ・ラスペ(Heinrich Raspe)が方伯領を治めていました。
しかし彼が1247年に亡くなると、テューリンゲン継承戦争が勃発し、1263年まで続きました。
この戦いに勝利し、ヴァルトブルク城を手に入れたのが、ヴェッティン(Wettiner)家です。



ここからヴァルトブルクは約650年にわたり、ヴェッティン家の城として時代を生き続けていくんだよ。
ヴェッティン家の時代の建築活動
ハインリヒの息子であるアルブレヒト堕落伯(Albrecht der Entartete)は、その生涯でヴァルトブルク城に56回滞在したことが記録されており、季節を問わず利用していました。



この城が依然として重要な拠点であったことがうかがえるね。
そんなヴァルトブルク城を大きく揺るがしたのが、1318年の落雷による大火災。
複数の年代記がこの火災の規模を伝えており、パラスをはじめ、城内の主要な建築物が深刻な損傷を受けました。
フリードリヒ平穏伯による再建と黄金期
この大災害からの復興を担ったのが、アルブレヒトの息子であるフリードリヒ平穏伯(Friedrich der Freidige)です。
- わずか5年でパラスを再建
- 他の建物も同じく再建
この再建プロジェクトは、中世後期のヴァルトブルク城建築史において最も重要な時代とされています。
城は再びその威容を取り戻し、ヴェッティン家の権力を象徴する存在として君臨し、今日の城の中核部分を形作る基礎となりました。
フリードリヒの伝説は、現在パラスに描かれたモーリッツ・フォン・シュヴィントのフレスコ画にも登場しています。



中世の再建王ともいえる存在だね。
城の地位の変化と文化遺産
15世紀に入ると、ヴァルトブルク城はヴェッティン家の主要な居城としての重要性を徐々に失っていきます。
城は副次的居城となり、1478年から1480年にかけての木組み建築に見られるように、この時期の建築活動は控えめなものにとどまりました。



山の上の不便なブルクより、都市部のシュロスの方が、生活環境は良いからね。
ヴァルトブルク城とマルティン・ルターードイツを変えた聖書翻訳


Zairon, CC0, via Wikimedia Commons



我ここに立つ。ほかに道なし。
この有名な言葉を残したマルティン・ルターが、ある日姿を消しました。
だれもが命を狙われると恐れた中、彼が身を潜めていた場所こそが、ヴァルトブルク城でした。
ここでルターは、キリスト教世界を揺るがす重要な翻訳作業に取りかかり、ドイツ語と信仰の歴史を変えていったのです
帝国追放と「ユンカー・イェルク」
時は1521年。
ルターはローマ教皇によって破門され、ヴォルムス帝国議会では皇帝カール5世(Kaiser Karl V.)から帝国追放刑を言い渡されました。
この窮地を救ったのが、ルターを深く信頼していたザクセン選帝侯フリードリヒ賢公(Kurfürst Friedrich der Weise)です。
ルターを「誘拐されたように見せかけて」ヴァルトブルク城に匿いました。



ユンカー・イェルク(Junker Jörg)という偽名を名乗り、騎士の格好をして潜んでいたよ。
ヴァルトブルク城での活動
ルターの滞在は、1521年5月4日から1522年3月1日まで、わずか10か月足らずでしたが、ルターにとって最も生産的な創作期間の一つになりました。
友人が必要な書物が届けると、精力的に執筆活動を開始。下記題材を含む全13本の論文を書きました。
- 告解について、教皇に命じる権限があるか
- 修道誓願について
- ミサの濫用について
- すべてのキリスト教徒に、騒乱と反乱を避けるよう忠告する



この人、隠れているのに働きすぎじゃない?
ドイツ語訳聖書の誕生:言葉の革命
最も歴史的に重要な業績は、ギリシア語原典から新約聖書のドイツ語訳に着手したことです。
ルターは友人にあてた手紙で、こう記しています。



私はイースターまでここに滞在し、ポストゥラ(説教集)を書き、新約聖書をドイツ語に翻訳する。それが我々の望みである。
ルターが訳したドイツ語の新約聖書は
- 一般民衆でも聖書が読めるようにした
- 明快で日常に根ざした表現
という点で革命的なものでした。
この聖書翻訳は、神学的に世界史的な重要性を持つだけでなく、各地の方言が混在していたドイツ語を統一し、後の標準ドイツ語の基礎を築き上げています。



標準ドイツ語がザクセン方言をベースにしているのも、ここヴァルトブルクで訳されたからなんだよ。
この時期には「ヴァルトブルクポストゥラ(クリスマスの説教集)」も書かれ、ルター自身がこれを「最高の本」と評価しています。
ルター聖書の最初の完全版は1534年に出版され、ドイツ全土に広まっていきました。
インクの染みの伝説
ルターが滞在したのは、ヴァルトブルク城のヴォクタイ(城代の執務区域)南側の2部屋。
現在は「ルターの間(Lutherstube)」として一般公開され、多くの巡礼者の目的地となっています。
ルターが悪魔にインク壺を投げつけてできたという伝説的なインクの染みが残っているとされており、彼の苦悩と信仰の深さを物語る逸話として語り継がれています。
ヴァルトブルク城とゲーテ:ロマンを愛した文豪の提言


ドイツ文学の巨匠、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749-1832)は、ヴァルトブルク城とその歴史的・文化的価値を深く理解し、この城の未来に大きな影響を与えました。
ヴァルトブルク城はルターの避難所であり、聖エリザベートの住まいでもありましたが、ゲーテの手によって「文化と芸術の象徴」へと再評価されることになります。
ゲーテ初訪問ー自然と中世に触れる
ゲーテが初めてヴァルトブルク城を訪れたのは、1777年9月のことです。
ザクセン=ヴァイマル公爵カール・アウグスト(Herzog Karl August von Sachsen-Weimal)の枢密顧問官として、アイゼナハ州議会に出席した際に城に宿泊しました。
ゲーテにとって、最初の印象は、自然への陶酔と、荒れた中世城郭への畏敬。



この地に立つと、現在にいながら過去に触れている気がする
テューリンゲンの森を一望するその景色、古びた石の壁、中世の空気。これらがゲーテの創作意欲を刺激しました。
詩と芸術への昇華ーヴァルトブルクが生んだ作品群
滞在後、ゲーテは次のような詩を残しています。
- 『ロマン派の詩』
- 『現在の中に過去』(後の『西東詩集』)
ヴァルトブルク城とミンネザングの伝説に強く影響を受けた作品をの殺しています。


また、彼はヴァルトブルク周辺の風景をスケッチに残し、恋人シャルロッテ・フォン・シュタインに宛てた手紙の中で、城のもたらした幸福感を繰り返し語っています。
城を文化史博物館に
1815年、ゲーテはヴァルトブルク城の荒廃を目の当たりにし、大臣仲間のクリスティアン・フォン・フォークト(Cristion von Vogt)宛の書簡で提案しました。



収蔵品はヴァルトブルク城の礼拝堂の装飾にもってこいで、騎士の城にふさわしい飾り付けになるよ。
この構想は、後に大公妃マリア・パヴロヴナとその息子カール・アレクサンダー(ヴァルトブルク修復者)の手によって実現に向かいます。
ゲーテが構想した芸術の間
ヴァルトブルク城の復元建築家フーゴ・フォン・リトゲン(Hugo von Ritgen)も、ゲーテが語った「象徴的価値」を重く受け取り、以下のものに生かされています。
- 歌合戦の間
- 礼拝堂
- フレスコ画
中世と19世紀ロマン主義が融合したフレスコ画が描かれ、その中には、ゲーテやシラーをモデルにしたような人物像もあります。



えっ、あの中にゲーテそっくりの人がいるって本当?
ヴァルトブルク祭(Wartburgfest)ードイツ統一への胎動


ヴァルトブルク城の歴史において、国民的な情熱と政治的な要求が結実した重要な出来事。
それが、19世紀初頭のドイツを揺るがしたヴァルトブルク祭です。
この祭典は、単なる学生の集まりではなく、後のドイツ統一へと繋がる重要な転換点となりました。
歴史的な日:1817年10月18日
1817年10月18日に開催されたヴァルトブルク祭は、二つの重要な記念日を兼ねていました。
- マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革の火蓋を切って落としてからちょうど300周年
- ナポレオン解放戦争のライプツィヒ戦勝から4周年
ヴァルトブルク城という「宗教改革の象徴」に、約500人の学生たちが全国から集結します。



当時、ドイツの大学生のほぼ20人に1人がここに集結したよ。
19世紀初頭のフランス革命とドイツ解放戦争における市民的蜂起の表れであり、人々の間に高まっていた自由とナショナリズムの機運を象徴するものでした。
自由への“行進”と“火”
祭典当日、学生たちはアイゼナハ市内を出発し、長い行列をなしてヴァルトブルク城を目指しました。
城の中では、象徴的な儀式が次々に行われます。
- ヴァルトブルクの火祭り
自由を抑圧する象徴として、「反ドイツ的」な書物や旧体制の象徴などを炎に投じます。 - 炎の演説
学生代表のルートヴィヒ・レーディガーが、「解放戦争の理想が裏切られた」として激しい演説を行い、聴衆の胸を打ちました。 - 原則と決議
祭典の最後に採択された文書では、宗教の違いを超えたドイツ統一の理想がはっきりと示されまし
ゲーテの視点と保守勢力の反応
この集会を奨励したのは、自由主義的な風潮のあったイエナ大学のブルシェンシャフト(学生結社)。年老いたゲーテは、この若き理想主義者たちを皮肉と愛情を込めてこう呼びました。



親愛なるお調子者たち(liebe Brauseköpfe)
1819年、ブルシェンシャフトの活動禁止などを含む「カールスバートの決議」が採択されます。その後長きにわたり、ヴァルトブルク城は支配者層から「危険な象徴」として敬遠されるようになりました。
ヴァルトブルク城:ロマン主義と統一の象徴として輝く19世紀以降


19世紀に入ると、ヴァルトブルク城は単なる歴史的な古城を超え、ドイツの国民的アイデンティティとロマン主義の理想を体現する存在として、その意義を大きく再認識されることになります。
荒廃が進んでいた城は、この時代に大規模な再建と装飾が施され、現在の姿へと生まれ変わっていきました。
ロマン主義と国民運動が後押しした再建
1817年に開催されたヴァルトブルク祭は、宗教改革300周年とドイツ解放戦争の記念を兼ねた思想と祖国への情熱が交差する市民的集会です。
この祭典が、「中世ドイツへの郷愁」と「統一ドイツへの希望」という2つの精神を城に重ね、ヴァルトブルク城の「再発見」につながりました。
カール・アレクサンダーとリトゲンによる修復の黄金期
19世紀後半、ザクセン=ヴァイマル公爵カール・アレクサンダーは本格的な修復を命じます。
その設計と理念を担ったのが、建築家フーゴ・フォン・リトゲンでした。
12世紀の芸術を愛した方伯たちの居城、16世紀初頭の宗教改革の聖地として、ヴァルトブルク本来の姿を可能な限り忠実に再現すること
- ベルクフリート
- 門の間(Torhalle)
- 新ケメナーテ(Neue Kemenate)
- ディルニッツ(Dilnitz)
- 騎士の風呂(Ritterbad)
建築だけではありません。リトゲンの時代には、芸術による空間演出も同時に進行しました。
- モーリッツ・フォン・シュヴィントによるフレスコ画
- 聖エリザベートの生涯(14枚)と、「歌合戦の間」の伝説的場面
- エリザベートの間のガラスモザイク(1902–1906)
- ヴィルヘルム2世皇帝から贈られたもので、カール・アレクサンダーの再建事業を称える意図が込められている
- ヨーロッパ各地からの中世美術品・工芸品の収集
- マリア・パヴロヴナ大公妃や文学者ベヒシュタインらが主導し、現在は約9,000点をヴァルトブルク財団が管理



元の状態から、随分変わってない?



ヴァルトブルク城は19世紀の誤った中世知識で建てられてしまった部分もあり、中世時代の本当の姿がわからなくなっているところがあるよ。残念なことだけど。
20世紀の転機:戦争とイデオロギーによる変化
1918年の王政廃止により、1922年にヴァルトブルク城は公法上の財団へと移管されます。
しかし、第二次世界大戦後の東ドイツ(DDR)時代には異変が…。
1950年代、「歴史主義的装飾は虚偽」とされ、リトゲンの修復が破壊・変更される「脱修復(Entrestaurierung)」が進められました。



せっかくの芸術的空間が壊されちゃったの? もったいない…。



当時は“過剰な美化は嘘”という考え方が主流だったからね。
ドイツ民主共和国(東ドイツ・DDR)時代の再評価
967年、DDRは
- ヴァルトブルク築城900周年
- 宗教改革450周年
- ヴァルトブルク祭150周年
という三重の記念年に合わせて、ヴァルトブルク城の価値を再評価。
一部の修復・整備が再び始まりました。
世界遺産登録と現在:守りながら伝える城へ


ドイツ再統一後、連邦・州の協力により、中世建築と芸術遺産の恒久的保存事業が始動。
- シュヴィントのフレスコ画や城壁の保全
- 専用の石材修復素材の開発
- 建築的変更の履歴がわかる形での展示
その成果として、1999年12月、ヴァルトブルク城はUNESCO世界遺産に登録されました。



過去の栄光だけじゃなく、未来への責任も背負った城なのね。
ヴァルトブルク城へのアクセス
緩やかな丘陵地帯にあるように見えて、200mのゴツゴツとした急峻な岩山の上に立っています。
城山の麓には小さな駐車場がいくつかあります。駐車料金は、日曜、祝日は無料になります。



麓の各駐車場から城まで、主に障害者や高齢者向けにシャトルバスが出ているよ。夏限定で子ども向けだけど、ロバでも行けるよ。



大変かもしれないけれど、ここはやはり麓から城を目指して歩いて登るのが一番!
ヴァルトブルク城の構成と見どころについては、下記ページをご覧ください。

