ザクセン=アンハルト州との州境近くのチューリンゲン州、標高439.7m(比高約280m)のキフホイザーブルクベルク(Kyffhäuserburgberg:キフホイザー城山)の山中の尾根筋にある帝国城塞。
堀切を隔ててオーバーブルク(Oberburg)、ミッテルブルク(Mittelburg)、ウンターブルク(Unterburg)の3つの部分から構成されており、日本の城でいうところの主郭、二の曲輪、三の曲輪が連なる連郭式の山城。
全長約600m以上、幅約60mで、ドイツ最大級の中世城郭群を形成しています。
現在、オーバーブルクにはフリードリッヒ一世の記念碑が建てられています。
本記事では、ドイツで人気の観光地である帝国城塞キフホイザーの見どころと歴史について解説します。
キフホイザー城には後述するバルバロッサ伝説が残っており、ドイツ人にとって人気の観光地の一つになっています。
バルバロッサ伝説
神聖ローマ皇帝フリードリッヒ一世(赤髭王)(Friedrich I. Barbarossa):シュタウフェン朝第2代皇帝(在位:1152-1190年)
赤みを帯びたヒゲを蓄えていたことから、イタリア語でbarba(ヒゲ)rossa(赤)の異名が付きました。人気のある皇帝です。
異名がイタリア語なのは、生前イタリア政策に力を入れていたことを示しています。
老皇帝フリードリッヒは第3回十字軍の司令官として聖地を目指し、イコニウムの戦いでセルジューク・トルコ軍を破るなど、戦果をあげます。しかし1190年、キリキアのサレフ川(現:ギョクス川)にて溺死。
重い甲冑を着ていたから、泳げたとしても泳げなかったのかもね。
しかし人気のある皇帝ゆえに、
あの皇帝が死んだなんて信じられない!きっと眠っているだけで、いつかきっと目覚めて、偉業を成し遂げてくれるに違いない!
という思いから、バルバロッサ伝説が誕生したと考えられています。
皇帝はきっと魔術にかけられて、山の中で囚われているんだ。そうだ!キットそうに違いない!あの皇帝が死んでしまうなんてありえない!
その場所はザルツブルク(Salzburg)近郊とも、カイザースラウテルン(Kaiserslautern)近郊とも言われていますが、よく言われるのがキフホイザー。
皇帝は娘や使用人たちとともに、皇帝が帰還するその時までこの山で呪いをかけていると言われています。
金の王冠を頭に載せた皇帝は、使者とともに黄金のテーブルを囲んでいると。皇帝のヒゲは長く伸び、テーブルを2周しているが、そのヒゲが3周するほど長くなったとき、皇帝は立ち上がり、帝国を再統一させてくれるのだと。
皇帝は目を瞬き、100年に一度小人を送り込み、カラスがキフハウゼン城をまだ飛んでいるかどうかを確認させました。カラスが飛んでいることを確認した小人は皇帝に報告すると、皇帝は悲しげにうつむき、再び眠りにつきました。
キフホイザー城の見どころ
上述したように、城は堀を隔てて3つの部分で構成されています。
- オーバーブルク:いわゆる主郭。城郭群の中で最も古い部分。記念碑が立つ。
- ミッテルブルク:採石場として破壊され尽くし、城壁の名残だけがかろうじて残る
- ウンターブルク:多くの建物跡や塔の跡が見つかっている
オーバーブルク(Oberburg:上城)
主郭(Kernburg)に相当するオーバーブルク。
出土品分析から、11世紀前半、もしくは10世紀にはすでに建てられていた可能性があります。
バルバロッサ塔(Barbarossaturm)
赤い背丸角石を使用して造られたベルクフリート。
壁の厚さは3mもあります。現存部分は高さ17mしかありませんが、もともとは30mあったのではないかと考えられています。
最後の砦というよりは、支配と権力の象徴としてのベルクフリートで、暖炉とトイレのある居住スペースがあります。
Mewes at German Wikipedia(Original text: de:Benutzer:Mewes), Public domain, via Wikimedia Commons
キフホイザー・モニュメント(Kyffhäuser Denkmal)
立派なヒゲを蓄えたフリードリッヒ一世(赤髭王)が鎮座しています。
残念ながら、このモニュメントの建設によってオーバーブルクの遺構の2/3が破壊されてしまいました。
遺構が破壊されてしまうのは、19世紀あるある。
PantheraLeo1359531, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons
ライトアップされた井戸
記念碑建設中に発見された井戸は直径2m強、深さ176mもあり、中世城郭の中ではドイツ最深。
ものを投げ入れると、その7秒後に水面に達するという深さ。
Jana Weinholtz, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
ミッテルブルク(Mittelburg)
長方形と円形の塔、城壁一部がかろうじて残っている程度で、採石場として破壊し尽くされてしまっています。
Aagnverglaser, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
3億年前の珪化木が発見されており、城の博物館前にも展示されています。
ウンターブルク(Unterburg)
ウンターブルクは他の部分に比べて比較的よく現存しています。
環状囲壁は高さ10mまでが現存しており、礼拝堂のほか、住居跡、直径11mのベルクフリートの土台などが残っています。
発掘調査により、下城全域から大規模な焼土層が見つかっており、1118年に落城したときのものと考えられています。
このことは、下城は遅くとも1118年には存在していたことを示しています。
帝国城塞キフハウザンの公式サイト
キフホイザー城の歴史
発掘調査により、オーバーブルクで鉄器時代初期(紀元前6~5世紀)の城塞跡が発見されており、この時代からすでに人が定住し、城として利用されていました。
集落跡は谷間の方に広がり、石積が確認されています。
中世時代
中世城郭の起源は史料に乏しいため、ほとんど何も分かっていません。
ただ、ハルツ南部とゴールデネ・アウエ(Goldene Aue)に広がる広大な帝国領地の管理、近く(約2km)にあるプファルツ・ティレダ(Pfalz Tilleda)を守るためと考えられています。
遅くとも11世紀のハインリヒ四世(Heinrich IV.)の時代に建設されており、出土品からオーバーブルクは10世紀後半頃に建設されたと考えられています。
中世前期
- 1118年
-
ザクセン公ロタール・フォン・ズップリンブルク(Herzog Lothar von Supplinburg)の攻撃により、落城。ザクセン諸侯と神聖ローマ皇帝およびドイツ国王ハインリヒ五世が争っていました。
陥落後、ロタール・フォン・ズップリンブルク王の治世に速やかに再建され、フリードリッヒ一世(赤髭王)の時代に完成します。
- 1174年
-
赤髭王がプファルツ・ティレダを訪れた際、帝国城塞キフハウゼンに滞在していたどうかは不明。
しかしシュタウフェン朝時代に赤漆喰が少なくとも2回塗り足され、この時代の層から多くの金製品が出土しているので、重要な戦略拠点であったとこが伺えます。
赤は帝国城塞を際立たせる特別な色。
中世後期
中世後期の13世紀末になると、この城は戦略的重要性を失い、何度も城主が変わります。
- 1290年
-
国王ルドルフ・フォン・ハプスブルク(König Rudolf von Habsburg)がバイヒリンゲン伯フリードリッヒ五世(Graf Friedrich V. von Beichlingen)をキフハウゼンの城伯に任命しました。
- 1375年
-
バイヒリンゲン伯爵はチューリンゲン方伯からキフハウゼンを封土として拝領することを余儀なくされます。
- 1178年
-
しかしチューリンゲン方伯はローテンブルク城とキフハウゼン城をシュバルツブルク伯(Graf von Schwarzburg)に970マルクで担保提供してしまいます。買戻権はありましたが、両城ともチューリンゲン方伯のもとには戻りませんでした。
- 1407年
-
シュヴァルツブルク・ルドルシュタット伯爵(Graf von Schwarzburg-Rudolstadt)が城の所有権を得ます。
ウンターブルクに礼拝堂のみが再建され、巡礼礼拝堂として使用されます。
近世から現代
1918年度ドイツ11月革命まではシュヴァルツブルク・ルドルシュタット侯国が所有しており、以後、チューリンゲン自由州の所有になります。
バルバロッサ伝説が小説や詩に取り入れられ、伝説の広まりに伴い、古典派時代には観光名所となり、ロマン派の時代になるとさらに観光客が増えました。
- 1776年
-
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)とカール・アウグスト・フォン・ザクセン・ヴァイマール公爵(Herzog Carl August von Sachsen-Weimar)がキフホイザーを散策。
- 1890年~1898年
-
オーバーブルクにキフホイザー。モニュメントが立てられます。
この時代にありがちなことなんだけど、残念なことに建設の際に遺構が破壊されてしまっているんだよね。
発掘調査と保護活動
- 1934年~1938年
-
ドイツ帝国戦士同盟(Deutsche Reichskriegerbund)は記念碑建設による破壊を免れた部分を発掘調査し、保護活動を行うと同時に一般公開する活動を開始。
そのための大規模発掘調査が、専門家の指揮下の下、オーバーブルクとウンターブルクで行われました。
以後、小規模ながらも発掘調査は継続されており、復興活動も行われています。