ハイデルベルク城:廃墟に刻まれた栄光と没落の物語

ハイデルベルク城は、プファルツ選帝侯ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の居城だった城。

ハイデルベルク城はドイツのロマン派を象徴する城であり、多くの詩人や芸術家を魅了してきました。かつての壮麗な姿を今に伝えるこの城は、歴史の波に翻弄されながらも、その魅力を失っていません。

三十年戦争、プファルツ継承戦争、落雷と、過去3回の破壊の憂き目に遭い、廃墟となった城ですが、ネッカー川(Necker)を見下ろす山腹にあるその姿は、古き栄華を偲ばせます。

城の立地山城(山腹)
城の種類シュロス
城主の階級ヴォルムス司教→神聖ローマ皇帝→ドイツ国王→プファルツ選帝侯→バーデン辺境伯→バーデン・ヴュルテンベルク州(※)
最初の城の設立11世紀
  • 神聖ローマ皇帝→ドイツ国王→プファルツ選帝侯はいずれも同じヴィッテルスバッハ家です。所有権が移ったわけではなく、城主の階級が変遷したにすぎません。

破壊されていなかったら、さぞかし華やかで素晴らしい城だったんだろうな……。

プファルツ選帝侯の栄枯衰退、歴史の傷とそれを守ろうとする人々の強い意思を感じさせる城です。

ドイツ観光街道の一つである古城街道の城なので、ドイツ旅行をした際に訪れたことがある人も多いのではないでしょうか。

ハイデルベルク城の見どころについては、下記ページをご覧ください

目次

ハイデルベルク城の歴史

下記の動画は、後期ロマネスク様式のブルクが次第に拡張されシュロスとなり、強固な要塞となり、豪華な城へと変遷していく様子がCGで再現されています。

破壊される前の城は、どんなに華やかだったことか、想像力を掻き立てられるわ。

ハイデルベルク城の起源は、12世紀にまで遡ります。

ライン川とネッカー川に挟まれた交通の要衝に位置し、時代の変遷とともに何度も修築されました。

廃墟になった今もその壮大な姿を保ち続けています。

ハイデルベルク城の歴史を紐解けば、有力貴族の城であったからこそヨーロッパの

  • 政治的
  • 宗教的
  • 文化的

な変化との深く結びつきが強く、それらに大きく振り回されてきた城と言えるのではないでしょうか。

ハイデルベルク城の誕生

ハイデルベルク城は、都市ハイデルベルクの創設と密接な関係があります。9世紀から12世紀にかけて、ハイデルベルク周辺には修道院が多く設立されました。

ヴォルムス司教が最初のハイデルベルク城を建設し、谷間に小さな集落を作ったと考えられています。

1011年

皇帝ハインリヒ2世がロブデンガウ(Lobdengau)をヴォルムス司教ブルクハルト1世(Bischof Burkhard I. von Worms)に与えます。

1155年

皇帝フリードリヒ1世赤髭王(Friedlich I. Barbarossa)の異母弟であるプファルツ伯コンラート・フォン・ホーエンシュタウフェン(Pfalzgraf Konrad von Hohenstaufen)が、ライン=フランケン地方を相続しました。

1196年

文献にはじめて登場します。ただし、同名の城が登場するのは、1225年です。

1195年の時点では、宮中伯の地位にヴェルフェン家が就いていましたが、1214年にバイエルン公爵ヴィッテルスバッハ家に移りました。

1303年

ハイデルベルクに2つの城があったことが記録されています。

小ガイスベルクを上の城(Oberburg)、イェッテンビュール(Jettenbühl)の城を下の城(Unterburg)とよんで区別されています。上の城は1537年に火薬の爆発により破壊され、ほぼ完全に取り壊されてしまっています。

ハイデルベルク城上の城の盾壁

ハイデルベルク城上の城の盾壁跡

上の城は下の城よりも早い12世紀頃からあったと推測されています。

Michael Linnenbach, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

下の城は現在の城の前身であることがわかっており、その姿もベルクフリート(Bergfried)と盾壁(Schildmauer)のみという、この時代の典型的な城の姿でした。

爆破された塔のところに当時のベルクフリートがあったと考えられており、パラスや礼拝堂などがありました。

多くの建物はまだ木造で、次第に石造りに変わっていたと考えられています。

ハイデルベルク城って、2つあったんだ!

上下の城の関係はどのようなものだったのかわかっていないけど、日本の城でも2基で1基とみなせるような城(例:二俣城と鳥羽山城)があるから、それと似たようなものだったかもしれないね。

プファルツ選帝侯の本領として

1600年頃のハイデルベルク城周辺
1600年頃のハイデルベルク城周辺 Public Domain
右手にある小山が、上の城があったと推測されているガイスベルク

宮中伯ヴィッテルスバッハ家の祖、宮中伯ルドルフ1世(Rudolf I.:在位1294-1319)が父ルートヴィヒ2世・フォン・オーバーバイエルン(Ludwig II. von Oberbayern)からライン地方を相続したことに始まります。

上の城の重要性が失われると同時に、下の城は領域支配の拠点としての重要性が増しました。そのため、上の城は捨て置かれ、下の城の改修が進められます。

ルプレヒト3世(Ruprecht III.)時代

国王ルプレヒト1世

ルプレヒト3世(ドイツ国王としてはルプレヒト1世)

  • プファルツ選帝侯としての在位:1356~1390年
  • 国王としての在位:1400~1410年

皇帝としての戴冠はされませんでしたが、ドイツ王として国を統治。

国内外での影響力を強化しようとするものでしたが、彼の地位は帝国内の諸侯からあまり支持されなかったため、政治的には苦戦しました。

弱体化していた帝国をまとめる努力は報われませんでしたが、家の領土拡大と利益を確保するための領土政策は成功しています。

ルプレヒト館(Ruprechtbau)

ルプレヒト3世の時代に建てられたパラスは、彼の名を冠してルプレヒト館と呼ばれています。

ルプレヒト館(Ruprechtbau)

都市を上から見下ろせる支配の座として、プファルツ選帝侯兼ドイツ国王ルプレヒト3世の時代、下の城の拡張工事が行われました。

この時代になると、防御性能だけでなく、権力を示すための建物の大きさや形が優先されるようになります。

二重城壁となり、ツヴィンガー領域が誕生します。

居住機能と経済機能を持っていましたが、国王が暫定的住居として選んだのは、市内のアウグスティノ会修道院です。

住まないのに、なぜ城を拡張?

権力の象徴だからじゃない?

城の要塞化

選帝侯フリードリヒ戦勝候とルートヴィヒ5世の時代、防衛機能が大規模に拡張され、ハイデルベルクの街の上に大きくそびえ立つことになります。

太い塔、ロンデル、西側の城壁、深くて広い堀、門塔、跳ね橋、橋屋、ゼルテンレア、南側の盾壁、鐘楼、武器庫、堀切、ルプレヒト館、国王館、兵士館が強化または新たに建設されました。

勝利者フリードリヒ1世(Friedrich der Siegreiche:在位1451-1476)

戦勝候フリードリヒ1世(Friedrich dem Siegreichen)

フリードリヒ1世

戦略的手腕と政治的手際の良さで知られ、「勝利者フリードリヒ」という二つ名が与えられました。

兄ルートヴィヒ4世の死去により、その息子でまだ1歳のフィリップの後見人としてプファルツを治めます。1451年、フィリップを養子とし、自らは結婚を避けて実質的な選帝侯になりました。

バーデン=プファルツ戦争(Badisch-Pfälzischer Krieg)が勃発。この戦争に勝利し、領土を強化しました。

バーデン=プファルツ戦争

神聖ローマ帝国のバーデン辺境伯国とプファルツ選帝侯領との間で行われた紛争。主に領土や権力をめぐる対立によって引き起こされた争いです。

背景には、プファルツ選帝侯フリードリヒ1世とバーデン辺境伯の間の緊張がありました。

フリードリヒ1世は、プファルツ選帝侯領の拡大と強化を目指していた一方、バーデン側はこれに反発し、領土防衛のために対抗。

戦争は数年間にわたり、両勢力が互いに戦った結果、フリードリヒ1世が勝利。

この戦争を通じて、プファルツ選帝侯領はさらなる影響力を獲得し、その領土を強化。一方、バーデンは戦争の後、フリードリヒとの和解を余儀なくされました。

ルートヴィヒ5世(在位:1508-1544)

ルートヴィヒ5世は内気で争いを避ける性格であったため、ハプスブルク家と連携し、ヴュルテンベルク、ヘッセン、バイエルン、ボヘミアと和解する統合政策を積極的に進めました。

マルティン・ルターがハイデルベルクを訪れた際は、自由に指導し、大学教授たちと意見交換できる機会を保証しています。

戦争により何度も窮地に陥っていたため、より強固な防衛施設として城を大規模に改修しています。

太い塔(Dicker Turm)

太い塔(Dicker Turm)

ネッカー川沿いに建設された強力な防御塔。

Anaconda74, CC0, via Wikimedia Commons

太い塔の他、ロンデル(Rondell)が配置され、巨大な門塔、跳ね橋などで防御を固めました。

近世の城へ

ルートヴィヒ5世の後を継いだフリードリヒ2世およびオットハインリッヒの時代になると、城を軍事施設として拡張する一方で、装飾的な改修も開始しました。

中世のブルクから近世のシュロスへと、次第に移り変わっていく時代です。

フリードリヒ2世(在位:1544-1556)

フリードリヒ2世(Friedrich II.)

フリードリヒ2世

ルートヴィヒ5世の弟。若い頃からヨーロッパを旅し、ハプスブルク宮廷では軍務に従事していました。

跡取りがいなかったため、後継者としてバイエルン家が選帝侯位を要求していましたが、皇帝の要望により甥のノイブルク家が相続しました。

Hans Besser, Public domain, via Wikimedia Commons

ルートヴィヒ5世からフリードリヒ2世の時代になると、要塞としてだけでなく住居としての表現力も強化をはじめました。

外国での滞在が多かったフリードリヒ2世はルネサンスに親しんでおり、ハイデルベルク城にもルネサンス様式を求め、鏡の間の館(Gläsernen Saalbau)を建設しました。

鏡の間の館(Gläsernen Saalbau)

1548年から56年にかけて建設され、谷側の目立つ場所に配置されています。

© José Luiz Bernardes Ribeiro

鏡の間の館(Gläsernen Saalbau)

オットハインリヒ(在位:1556-1559)

オットハインリヒ(Ottheinrich)

オットハインリヒ(Ottheinrich)

オットハインリヒは傍系のプファルツ=ノイブルク家出身で、芸術のパトロンとしての評価が高く、貴重な美術品を多く集めていました。

Barthel Beham, Public domain, via Wikimedia Commons

オットハインリヒはプロテスタントの教義を公に認めたため、皇帝を中心とするカトリック派と対立することになります。

シュマルカルデン戦争でノイブルクの地を一時的に失い、ハイデルベルクに逃れたこともあります。

伯父のフリードリヒ2世が亡くなると、オットハインリヒが跡を継ぎ、多くの美術品とともにハイデルベルクに移り住みました。

オットハインリヒ館

城には貴重な美術品を保管しておく場所がなかったため、オットハインリヒが美術品を収容するために建てたのが、ルネサンス様式のオットハインリヒ館です。

しかし建物が完成したのは、侯爵が亡くなった後でした。

オットハインリヒ館(Ottoheinrichbau)
シュマルカルデン戦争(Schmalkaldischer Krieg)

シュマルカルデン戦争(Schmalkaldischer Krieg)は、1546年から1547年にかけて神聖ローマ帝国で発生した、プロテスタント派諸侯と帝国都市(シュマルカルデン同盟)とカトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世との間で行われた戦争です。

ドイツ国内におけるプロテスタントの台頭とカトリックの支配維持をめぐる対立が原因。

神聖ローマ帝国における宗教対立を象徴する重要な出来事であり、ドイツ国内でのカトリックとプロテスタントの共存の基礎を築いた戦争として知られています。

オットハインリヒの死とともに、プファルツの旧選帝侯家の統治は終わりました。

その後はプファルツ=ジンメルン(Pfalz-Simmern)家が相続しました。プファルツ=ジンメルン家はカルヴァン派で、最初の頃は城よりも宗教問題に多くの時間が費やされました。

ヨハン・カジミール(在位:1583-1592)

ヨハン・カシミール・フォン・デア・プファルツ(Johann Casimir von der Pfalz)

ヨハン・カジミール・フォン・デア・プファルツ(Johann Casimir von der Pfalz)

同じプロテスタントでも、妻はルター派のエリーザベト・フォン・ザクセン(Elisabeth von Sachsen)。妻がなかなかカルヴァン派に改宗しなかったため、妻を監禁していたと言われています。

妻を監禁してい他にも関わらず、間に子どもは6人生まれています。

anonymous (copy), Public domain, via Wikimedia Commons

谷に向かって街側に押し出されるように大砲台(Großen Batterie)が、この時につくられました。

フリードリヒ4世(在位:1583-1610)

豪華なパラスであるフリードリヒ館を建設します。

城の破壊へ続く道

ヨーロッパ全体で、カトリック対プロテスタントの宗教対立が激化した時代。

ハイデルベルク城は宗教戦争の舞台の一つとして巻き込まれる運命にありました。

選帝侯フリードリヒ5世(Friedrich V.)

プファルツ選帝侯フリードリッヒ5世

フリードリヒ5世(ボヘミア国王としてはフリードリヒ1世)

  • プファルツ選帝侯としての在位:1610~1623年
  • ボヘミア国王としての在位:1619~1620年

ボヘミア貴族からボヘミア国王に選出されたため、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に対抗するプロテスタント側の象徴的リーダーとなりました。

欧州における宗教対立、三十年戦争における象徴的人物。

イギリス国王の娘、エリザベス・スチュアート(Elisabeth Stuart)と結婚。イギリスとヨーロッパ大陸との政治的関係にも影響を与えています。

周囲から反対されたものの、1619年にはボヘミア王として選ばれ、カトリックのハプスブルク家と対立することになりました。

ヴァイセンベルクの戦い(Schlacht am Weissen Berg)でカトリック軍に破れると王位を失ってしまいます。ボヘミア王としての治世はわずか1年。それゆえ冬王(Winterkönig)の二つ名がついています。

三十年戦争が激化し、その余波でフリードリヒ5世は先祖代々の選帝侯領を失ってしまったため、流浪生活を送ります。

1623年にはプロテスタント連合の主導権をも失ってしまします。戦争はハイデルベルクにも広がり、フリードリヒ5世はオランダへ亡命せざるを得ませんでした。

三十年戦争の代償

三十年戦争によりオーバープファルツの領土を失い、選帝侯としての選挙権も失いました。フリードリヒ5世は同じヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯マクシミリアン1世(Maximilian l. von Bayern)と争っていましたが敗北し、プファルツ選帝侯は以前のような輝きを取り戻すことが難しくなりました。

カール2世(在位:1680-1685)

三十年戦争後、荒れ果てた城と領土を見ることは悲しい光景。

国家再生と経済振興は急務でしたし、諸外国との関係を深めることに奔走しましたが、再び紛争の足音が聞こえてきていたこともあり、要塞を補強しました。

カール2世の憂い事

カール2世の妹は、フランス国王ルイ14世の弟君に嫁いでいます。カール2世には後継ぎとなる息子がいなかったのが最大の心配事で、プファルツ継承戦争を予期して城を強化したのではないかといわれています。

男子優位に変わりはありませんが、男子が生まれなかった場合、女子に相続権が発生します。それを都合のいいように解釈したフランス国王が相続権を主張して始まったのがプファルツ継承戦争。

プファルツ継承戦争

カール2世が亡くなると、フランス国王ルイ14世がプファルツ選帝侯領の相続権を主張し、プファルツに侵攻してきました。

プファルツ地方がフランス軍の前に次々と陥落していき、「焦土作戦」により土地は荒廃。

フランス軍はライン川を超えてハイデルベルクまで到達し、1689年3月6日、城は放火され、爆破されました

フランス軍が去った後、要塞の再建が急遽開始されましたが、廃墟となった建物を保存するのが精一杯。

1693年、再びフランス軍が進撃を開始し、再建途上のハイデルベルク城は簡単に落とされ、さらに爆破されました。このとき、27000ポンドの火薬が使用されています。

破壊からの復興

中世から続くプファルツ選帝侯の家系が途絶え、ハイデルベルク城からの統治も同時に終了しました。(ただし、プファルツ選帝侯の爵位は、ヴィッテルスバッハ=ノイブルク家が引き継いでいます)

1697年のライスヴァイク条約以降、城を改修工事が始まりました。資金不足のため、再建は断念されています。

オットハインリヒ館やフリードリヒ館に屋根が取り付けられます。

選帝侯カール・フィリップ・フォン・プファルツ(在位:1716-1742)

ハイデルベルク城の再建を試みていましたが、これ以上の崩壊を防ぐための安全対策をする程度にとどまりました。

1720年4月12日、マンハイム城をプファルツ選帝侯の居城とすることを決定したため、ハイデルベルク市は一地方都市へと格下げとなりました。

落雷による消失

1764年に落雷があり、オットハインリヒ館、フリードリヒ館、鐘楼が消失しました。

選帝侯がミュンヘンに移り、選帝侯プファルツがバーデン辺境伯に移ったことで、ハイデルベルク城の再建は中止されました。

19世紀のロマン主義

ドイツで重要な歴史的建造物のひとつとして、高く評価されるようになります。多くの詩人や芸術たちを魅了します。

ゲーテ

バラとユリの朝は、私の家の近くの庭園で涙を流している。…。高い森を見ている。…。谷を見ている。

栄光と没落、繁栄と衰退

この動きに感化され、バーデン大公レオポルト(Großherzog Leopold von Baden:在位1830-1852)のもと、シャルル・ド・グレインバーグ伯爵(Charles Graf de Graimberg)の尽力により、崩壊を食い止めることができました。

廃墟を再建するか、保存するか、激しい論争がありましたが、「保存」が多数派となり、維持されることになりました。

歴代城主:ライン宮中伯の治世

  • コンラート・フォン・シュタウフェン: 1155–1195
  • ハインリヒ1世・フォン・ブラウンシュヴァイク: 1195–1212
  • ハインリヒ2世・フォン・ブラウンシュヴァイク: 1212–1214

ライン宮中伯兼バイエルン公爵ヴィッテルスバッハ家

  • ルートヴィヒ1世: 1214–1228
  • オットー2世: 1228–1253
  • ルートヴィヒ2世: 1253–1294
  • ルドルフ1世: 1294–1317/19
  • 1319–1329 アドルフ1世とルドルフ2世の後見を皇帝ルートヴィヒ4世が務める

ライン宮中伯、1356年以降選帝侯ヴィッテルスバッハ家

  • ルドルフ2世およびルプレヒト1世: 1329–1353
  • ルプレヒト1世: 1353–1390
  • ルプレヒト2世: 1390–1398
  • ルプレヒト3世: 1398–1410(ドイツ王としてはルプレヒト1世)
  • ルートヴィヒ3世: 1410–1436
  • ルートヴィヒ4世: 1437–1449
  • フリードリヒ1世: 1449–1476

プファルツ=ノイブルク系

  • フィリップ: 1476–1508
  • ルートヴィヒ5世: 1508–1544
  • フリードリヒ2世: 1544–1556
  • オットーハインリヒ: 1556–1559

プファルツ=ジンメルン系

  • フリードリヒ3世: 1559–1576
  • ルートヴィヒ6世: 1576–1583
  • ヨハン・カジミール: 1583–1592(摂政、フリードリヒ4世のための統治)
  • フリードリヒ4世: 1592–1610
  • フリードリヒ5世: 1610–1619(1619/20にはボヘミアの王、1632年没)
  • カール・ルートヴィヒ: 1649–1680
  • カール2世: 1680–1685

プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ノイブルク系

  • フィリップ・ヴィルヘルム: 1685–1690
  • ヨハン・ヴィルヘルム: 1690–1716
  • カール・フィリップ: 1716–1742

プファルツ=ズルツバッハ系

  • カール・テオドール: 1742–1799

プファルツ=ビルケンフェルト=ツヴァイブリュッケン系

  • マクシミリアン・ヨーゼフ: 1799–1802

ハイデルベルク城の歴史年表

  • 1180年頃: 『エーベルハルトの生涯』に「カストルム・ハイデルベルク(Heidelbergの城)」の最初の言及。
  • 1225年: 街と城の最初の文書による証拠。
  • 1301年: 国王アルブレヒト1世による包囲戦。
  • 1329年: 「パヴィアの家族条約」によるヴィッテルスバッハ家の領土分割、宮廷形成の始まり。
  • 1386年: ハイデルベルク大学の設立、1390年に都市拡大。
  • 1400年: プファルツ伯ルプレヒト1世がドイツ王に就任。
  • 1462年: プファルツ伯フリードリヒ1世が皇帝に忠誠を誓う同盟をセッケンハイムで破る。
  • 1505年: バイエルン継承戦争でプファルツ選帝侯が敗北。
  • 1557年: プファルツ伯オットーハインリヒによる宗教改革。
  • 1619年: プファルツ伯フリードリヒ5世が「冬王」として三十年戦争のきっかけを作る。
  • 1622年、1634年、1635年: ハイデルベルク包囲戦。
  • 1649年: 選帝侯の地位が復活し、再建が始まる。
  • 1689年: プファルツ継承戦争でフランス軍により部分的に破壊される。
  • 1693年: 二度目の大規模な破壊と市の火災。
  • 1720年: 宮廷がマンハイムに移される。
  • 1764年: 雷による火災で城が破壊される。
  • 1803年: プファルツ選帝侯領の解体、ハイデルベルクがバーデン大公国に移譲される。
  • 1811-1864年: ヨハン・メッツガーとフィリップ・ド・グレームベルクによる遺跡保存の取り組み。
  • 1883年: 「城建設事務所」の設立、再建に関する議論の開始。
  • 1905年: 記念碑としての保存に関する決定、ハイデルベルク城論争の解決。
  • 2001年以降: 遺跡の体系的な修復作業が開始される。

ハイデルベルク城へのアクセス

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