フランクフルト(Frankfurt am Main)の北西約30kmに位置するヴェッテラウ(Wetterau)にあるフリードベルク城は、約3.9ha(東京ドームの約85%の広さ)の広さを持つ大規模な城郭です。
広さに圧倒されちゃうわ
神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ)(Friedrich I. Barbarossa)により、12世紀後半に建設されました。
中世の防御施設としての役割を果たしながら、時代の流れと共にその姿を変え、現在では歴史と美しさが融合した観光名所として知られています。
この城は本格的な中世城郭の雰囲気を色濃く残しており、訪れる人々を中世世界に誘います。
本記事では、忠誠の魅力にあふれるフリードベルク城の見どころと歴史を紹介します。
フロードベルク城は、正確には「皇帝および神聖ローマ帝国のフリードベルク城(Kaiserliche und des Heiligen Reichs Burg Friedberg)」といい、帝国城塞です。
所有権が相続される封建制の城とは違い、皇帝から任命された城伯が城と領土を管理していました。
フリードベルク城の構造と見どころ
航空写真から見て分かる通り、方形の城域を持つフリードベルク城は後期古代ローマのカステルの影響を受けています。
コンパクトな城を好んだシュタウフェン朝時代の城としては、かなり異例。
玄武岩からなる丘の上、三方が急斜面に囲まれた半島状の場所に立っています。
シュタウフェン朝の帝国城塞として築城されたフリードベルク城は、フリードベルク市とともに帝国直轄の城塞と都市の複合体として建設され、数百人の住民が住んでいました。
広大な城域は、ヨーロッパ最大級クラスの城塞の一つに数えられます。
南側
三十年戦争で大きく破壊された南側は、18世紀以降の新しい建物が多く残ります。
南側主門(Südliche Haupttor)
城の正門である南門。
1500年頃に建設され、幅32mで2つの円塔に囲まれ、門を防御しています。
鹿堀(Hirschgraben)と呼ばれる堀が門前に横たわっており、現在は1792年に建設された石橋ですが、かつては木製の跳ね橋が架かっていました。後期ゴシック様式の門扉の上、跳ね橋を収納するための凹みがあります。
旧城役所(Die ehemarile Burgkanzlei)
1974年に設立された城ギムナジウム(Burggymnasium:城塞高校)に組み込まれました。
かつてあったと考えられる後期ゴシック様式の前身となる建物の一部を取り入れており、シュタウフェン朝時代のパラスがあった可能性があります。
Mylius (GFDL 1.2 http://www.gnu.org/licenses/old-licenses/fdl-1.2.html or FAL), via Wikimedia Commons
ギムナジウムの敷地内の発掘調査からローマ時代の浴場跡が発見されており、ここにはかつてローマのカステルがあったことを示しています。
中心部
駐車場として使われている空き地には、1438年に作製された聖ゲオルグの像(レプリカ。オリジナルはヴェッテラウ博物館)があります。
Burkard Zamels, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
領主の邸宅(Herrenhaus)
かつては城伯の住居として使用されたこの建物は、現在ヘッセン州の役所として使用されています。
ヘッセン地方では珍しい三翼構造を持つ長方形の建物。各翼の破風には、高品質のルネサンス後期のモチーフが施されています。3つの玄関にはそれぞれの建築主の紋章があり、一番北側のものがメインエントランス。
ドイツ騎士団の館(Deutsheordenhaus)
上記の領主の館に隣接して立つのは1716年から1718年にかけて建てられたこの建物には、ドイツ騎士団ヘッセン支部の事務所が1809年まで置かれていました。
建築主はドイツ騎士団団長のダミアン・ヒューゴ・フォン・シェーンボルン伯爵(Graf Damian Hugo von Schönborn)
Mylius (GFDL 1.2 http://www.gnu.org/licenses/old-licenses/fdl-1.2.html or FAL), via Wikimedia Commons
北側
北側は戦争の被害を免れた古い建物が多く残っています。
北門(Nordtor)
14世紀後半に建設された二重門。
内側の城壁通路の一部として設置された最初の門には監視通路が通っており、ここからアドルフ塔へ行けます。
Tilman2007, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
アドルフ塔(Adolfsturm)
高さ52.42m、直径12.3mのアドルフ塔は、ドイツ最大級のベルクフリートに数えられています。
ライン中部地方とヘッセン南部地方によく見られるバターチャーン型。太い基部と細い上部が特徴です。
どこかで見たなと思ったら、マルクスブルク城がそうか!下部が円形ではなく方形の塔だけど
マルクスブルク城のベルクフリートににている!
1348年から1351年に建てられ他と推定されるアドルフ塔は、フリードベルク城のシンボルともいうべき存在。
北門を守るために建てられ、城壁の外側に位置しています。
1347年の戦争で、ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ(Graf Adolf von Nassau-Wiesbaden-Idstein)が捕らえられた際の身代金を建設資金にしたと、伝えられています。
Tilman2007, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
塔への入口は、13mの高さのところにあり、入口より下は牢獄として使用され、上階は城の監視員と交代要員が住んでいました。
フロードベルク城の歴史
フリードベルク城は800年近い長い歴史を持ち、栄枯盛衰を経験しながら現代まで残されてきました。
時代とともにその役割は変化していきましたが、城そのものが物語る歴史の重みは計り知れません。
ローマ時代
ウェッテラウ地方の肥沃な地域は、ローマ人にとっても関心の深い地域で、進行するゲルマン不足に対する防衛線でもありました。
- 紀元80年頃
-
ローマ帝国はこの地に大規模なカステルを建設しました。
- 紀元260年頃
-
リメス(Limes)が崩壊するまで、常時500~1000人の兵士が駐屯していました。カステルの南側にヴィクス(市場集落)があり、交通の要衝にしていました。
中世の発展と変遷
ローマ人撤退後、7世紀まで人が定住することはありませんでした。12世紀になり、この地を治めていたニュリング(Nüring)伯の男系が絶えたことで、ヴェッテラウが帝国領になりました。
ザーリア朝マインツ大司教区に近いところを本拠地とし、この地で王権と競合する領土的政治力を持っていました。
フロードリッヒ1世(バルバロッサ)による建設
ライン地方とヘッセン地方を守る防衛拠点として、フリードリッヒ1世(バルバロッサ)の治世下で、城と都市の一体型として設計され、建設されます。
都市と言ってもこの当時の規模はたかが知れていて、小さな集落レベルだったと思うよ。
初期の城は、
- 堅固な石造りの壁
- 高い塔
を持ち、軍事拠点及び周辺地域の統治に重要な役割を果たしていました。
- 1171年/1180年頃
-
フロードリッヒ1世バルバロッサ下で城と都市が建設されます
発展と都市住民との衝突
都市と城が一緒に建設されたとはいえ、最初から城に優位性が与えられています。
- 都市と交易路の軍事的保護
- 帝国および国王の資産管理
城はこれらの任務を担い、都市は商業および見本市の地として栄え、貿易拠点として発展。人口は急速に拡大し、13世紀前半には都市の拡張が必要になるほどでした。
- 1216年
-
フリードリッヒ2世の文書で都市は「王立都市」として「Wridburg」という名ではじめて登場します。その結果、市民は自信を高め、城と衝突するようになります。
- 1254年
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ライン騎士団に加盟し、18世紀まで指導的立場を維持。
- 1275年
-
都市住民により城の破壊事件が発生します。ハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世(Rudolf I. von Habsburg)は市民の行為を許しますが、同時に市民の権利を削減し、城への政治的依存度を高めるのに成功します。
- 1306年
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アルプレヒト1世(Albrecht I.)が宥和状を発行して6人のブルクマン(Burgmann)を市議会に派遣することを命じ、都市の自治を大幅に制限。いわゆる貴族6人組(adelige Sechser)によるによる自治管理の共和国に発展します。
帝国からの独立と城伯たちによる支配
インターレグナム(Interregnum:大空位時代)の間の中央権力の弱体化と帝国城塞システムの崩壊を利用し、独立性を高めました。国王から独立したとはいえ、帝国への忠誠は維持しています。
- 都市税の徴収
- 保護下においたユダヤ人コミュニティーからの貢納
- ヴェッテラウ地方の領土支配
からの収入により、城は経済的・政治的優位性を確保。大規模な防御施設の建設が可能となり、城を拡張します。
城は当初、王によって任命されたブルクマンとその上長である城伯が管理していました。しかしインターレグナムの間に城伯はブルクマンの中から選ばれるようになりました。
意思決定はこの城伯とブルクマンからなる総会で行われました。
- 1348年~1351年
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アドルフ塔の建設。
- 1482年
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14世紀末の経済危機により都市が衰退し、都市は城に依存するようになり、市議会が城代に対する忠誠と服従を誓う謝罪文書を提出します。
この権利の逆転現象はかなり異例のことで、神聖ローマ帝国の終焉まで続いたよ。
近代の変革
三十年戦争で、城の南半分が特に破壊されました。ゆえに、18世紀以降は南側で建築活動が活発になり、南側は新しい建物が、北側に古い建物が残る結果になりました。
1684年に門塔として機能していた南のベルクフリートが破壊され、より開かれたアクセス状況が生まれます。
神聖ローマ帝国解体後
1806年の神聖ローマ帝国の解体とともに、城はヘッセン=ダルムシュタット方伯領(1806年以降は大公国)に帰属します。
フリードベルク城は城伯・ブルクマンたちが支配していた独立性の高い城だったとはいえ、帝国直轄領でした。帝国が解体したことにより、フリードベルク城の領主権がヘッセン=ダルムシュタット方伯に主権が移動したことを意味します。
城が独立性を失ったことにより、地方政府の建物が多く建設されるなど、行政機能が強化されました。
- 1806年
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ヘッセン=ダルムシュタット軍とフランス軍が城を占拠。ブルクマント城伯による総会を解散させました。城の住民約400名の内102名がブルクマンで、門前町には180名が住んでいました。
- 1818年
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最後の城伯クレメンス・アウグスト・フォン・ヴェストファーレン・ツー・フュルステンベルク(Klemens August Graf von Westphalen zu Fürstenberg)が亡くなります。
- 1818年~1896年
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ヘッセン=ダルムシュタット大公が元城伯領を夏の居住地にします。
- 1834年
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城と都市が政治的に統合します。
近代から現代へ
20世紀になると、フリードベルク城の文化的・観光的価値が再認識されるようになりました。
第一次世界大戦後は一般公開されるようになり、市民の憩いの場として利用されるようになりました。
第二次世界大戦で一部損傷を受けましたが、修復され、現在は市民公園として多くの人々に親しまれています。