ライン川を見下ろす山腹に建つ城で、ライン川下りでその姿を見ることができます。
ライン渓谷のビンゲン(Bingen)とコブレンツ(Koblenz)の中間に位置するザンクト・ゴアー(St. Goar)にあります。
この城はブルク、シュロス、要塞といった要素が1つになった城です。つまり、中世の山城から13世紀以降のヨーロッパの要塞建築の重要な建築時代をこの城一つで説明できてしまいます。
フォアブルクの部分が古城ホテルになっています。ホテルになっている部分以外は、全て観光客に開放されており、自由に見学することができます。
また、ライン川の流れとラインを航行する船を見ながらする古城ホテルでとる食事は、ロマンティック以外の何ものでもないでしょう。ぜひ、古城ホテルを体験してみてください。
ラインフェルス城の見どころ
フランス軍に爆破されてしまったため、城の多くの部分が廃墟となっているのが残念です。
かつての姿は、17世紀の図面や文献、発掘調査などからしか、うかがい知ることはできません。
カッツェネルンボーゲン伯爵の城
ラインフェルス城は、カッツェネルンボーゲン伯爵(Grafen von Katzenelnbogen)のディーター5世(Graf Diether V. Von Katzenelnbogen)がこの地に最初に城を築きました。
カッツェネルンボーゲン家はフォークトの地位に就き、13世紀に入る自らが君主となるまでに成長しました。伯爵家は、11世紀後半からライン川中流域の貴族家系として知られています。14世紀に入ってからは、計画的に領地を拡大していっています。
カッツェネルンボーゲン伯爵以前に、この地に城があったという証拠は見つかっていません。
カッツェネルンボーゲン伯爵は、この城の他にもネコ城の城主としても有名です。
地下室
この城には、山の斜面を利用した地下室や地下通路があり、探検するには格好の場所となっています。
地下通路の中を散策することなんて、他の城ではなかなかできないことです。地下通路には電灯がないので、懐中電灯は必須です。
古城ホテル
城のフォアブルクの部分が古城ホテルとして利用されています。
ライン渓谷を見下ろすローケーションに建つ古城ホテルは、一般的な古城ホテルとはまた違う格別のものがあります。
ライン川を航行する船を眺めるながら、古城ホテルのレストランで食事を楽しむことができるなんて、とても素敵なことではないでしょうか。
間違いなく一生の思い出になります。
人気の古城ホテルなので、予約はお早めに。
ラインフェルス城への行き方
山の上に建っているので、車で行くことをお勧めいたします。城の上に小さな駐車場があります。
徒歩で行けなくもないですが、急な坂道を登ることになります。ザンクト・ゴアーから城へと続く道があり、それほど遠くはありません。
ラインフェルス城の近くには、ネズミ城(Burg Maus)やライヒェンベルク城(Burg Reichenberg)があります。
ラインフェルス城の歴史
- 765年
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プリュム修道院がザンクト・ゴアーにある教会を拝受しました。このベネディクトは修道院で855年に皇帝ロタールが出家しています。
- 1185年頃
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領地はフォークトによって管理されており、カッツェネルンボーゲン伯爵がこの地位に就きました。
- 1245年
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カッツェネルンボーゲン伯爵ディーター5世が最初の城を建設しました。城が完成した1255年から関税を引き上げました。ベルクフリートの土台と環状城壁の一部がこの時代のものです。まだ小規模な城でした。
- 1256年
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関税の引き上げに対抗し、ライン都市同盟(Rheinische Städtebund)が城を包囲します。城は1年と14週間に渡り包囲されますが、都市同盟側の失敗に終わります。
- 1303年
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フォアブルクの門塔(時計台)が建設されます。
- 1479年
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カッツェネルンボーゲン家が断絶します。跡継ぎがいないことを予見していたため、領土をハインリッヒ3世ヘッセン=マールブルク方伯(Landgraf Heinrich III. Von Hessen-Marburg)に譲渡しました。
- 1567年
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ヘッセン方伯フィリップ(大伯)が亡くなると、領土は4人の息子たちに分割されました。ラインフェルスは末弟のフィリップ(若伯)のものとなります。城は増築され、近代的な居住用のルネッサンス様式の宮殿となりました。螺旋階段塔が設けられ、豊かな装飾を施された破風が設けられました。
- 1583年
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フィリップ(若伯)が亡くなると、ヘッセン家系のダルムシュタット家とカッセル家が相続争いを始めます。
- 三十年戦争後
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他の地域ではすでに沈静化していた船頭が、兄弟喧嘩が原因で、この地では本当に30年も戦争が続いていました。しかし和解が成立し、ラインフェルスはカッセル家に属することになりました。
- 1657年から1674年
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大規模に要塞化されました。山側、つまりフランス側からの防衛を強化する必要がありました。
- 1684、1688、1692年
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フランス軍が進駐してきましたが、なんとかこれを撃退しました。
- 1797年
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フランス革命軍が接近してきたとき、要塞は抵抗することなく降伏しました。近代的火器からの防御力がないと判断され、戦わずして降伏しました。しかし攻撃側はベルクフリートと城壁の南側を爆破しました。
- 1843年
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廃墟はしばらく採石場として使用されていましたが、プロイセンのヴィルヘルム王子(後のドイツ皇帝)が購入することにより、取り壊しが止まりました。
- 1973年
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大規模な修復作業が行われ、シュロスホテルとしてオープンしました。