チェコとの国境近く,エルベ川左岸にある岩山に建つ要塞。ケーニッヒシュタイン要塞は,12世紀に建てられたブルクに起源をもつ巨大な要塞です。
ケーニッヒシュタインの名の意味は,王(König)の石(Stein)です。古くはボヘミア王の城でした。
独仏戦争や第二次世界大戦では,捕虜収容所として用いられたこともあります。州刑務所として有名な場所でした。
眼下に森と川と街を見下ろし,ときに雲海を見下ろす姿はまるで天空の要塞。
この要塞では,後期ゴシック,ルネッサンス,バロックと19世紀の防御施設を見ることができます。
ケーニッヒシュタイン要塞の見どころ
高い山に建つ城は水の確保も大変で,城に設けられている井戸の深さは152.5mあり,ヨーロッパで2番めの深さを誇ります。
ケーニッヒシュタイン要塞には,かつてアウグスト一世強王がハイデルベルク城のプファルツ選帝侯と争って勝利した大樽がありました。ケーニッヒシュタイン要塞の大樽がワインで満たされたのは一度しかなく,その後は老朽化のために残念ながら撤去されてしまいました。
とにかく巨大で眺めが良い
高さ240mのテーブルマウンテンに建ち,さらに要塞の外壁の高さは42mもあり,まずその高さに見るものを圧倒します。テーブルマウンテンの面積は9.5haもあり,テーブルマウンテンの上に建つ要塞の城壁の長さは1800mもあります。
現在岩山の麓から要塞へ行くエレベーターが運行されています。要塞へ行くエレベーターの中でも,パノラマエレベーターはおすすめできます。ケーニッヒシュタイン要塞が立つ山の高さを実感できることでしょう。
要塞からは,エルベ川を一望でき,航行する船を眺めることができます。
軍事歴史野外博物館
旧武器庫,新武器庫,財務館,旧兵舎等が整備され,博物館として利用されています。砲台や当時の囚人たちの生活の様子,司令官の生活の様子など,わかりやすく展示されています。
軍事史に興味のある人にとって,時間が足りないものとなるかもしれません。
さまざまなインテリアが収集され,常設展示やイベント展示など,訪問者を楽しませてくれます。
ケーニッヒシュタイン要塞へのアクセス
付近に有料の駐車場があります。
ケーニッヒシュタイン要塞の歴史
12世紀にはこの地に城がすでに存在していました。最古の城の建造物はブルク教会の壁で,12,13世紀頃のものとされています。
エルベ川は古くから交易路として利用され,ボヘミア王の命により領地の北側を支配する拠点として半ってんしました。
- 1233年
- ケーニッヒシュタインの名が初めて史料に登場します。城伯ゲプハルト・フォン・シュタイン(Gebhard von Stein)の名がボヘミア王ヴェンツェル一世・フォン・ベーメン(Wenzels I. von Böhmen)の文書に登場します。
- 1241年
- オーバーラウジッツ国境文書(Oberlausitzer Grenzurkunde)に『王の石の上』と記され,「ケーニッヒシュタイン」の名が登場します。
- 1385年から1408年
- 数回抵当に入れられました。この家系はマイセン辺境伯(Markgrafschaft Meißen)と敵対関係にあったため争いが起こり,ドーナ・フェーデ(Dohnaischen Fehde)でついに城を征服しました。
- 1459年
- エガー条約により,ザクセンとボヘミアの国境が確定しますが,ケーニッヒシュタインがマイセン辺境伯に移譲されるには至りませんでした。
- 1563-1569年
- 深井戸が掘削されました。井戸を掘るのはかなりの難工事だったようです。井戸が掘られる以前は,水槽に雨水を貯めて利用しており,かなり水に苦労していました。
- 1589年,1591年から1597年
- ザクセン選帝侯クリスティアン一世(Kurfürst Christian I. von Sachsen)はブルクを強固な要塞施設として拡張工事を行いました。テーブルマウンテンの上を城壁で取り囲み,旧兵舎,旧武器庫,門塔,フリードリッヒスブルクなどが建設されました。
- 1591年
- ケーニッヒシュタインに初めて囚人が収容されました。国事犯の宰相ニコラウス・クレル博士(Kanzler Dr. Nikolaus Krell)がケーニッヒシュタインに囚われました。
- 1619年から1681年
- 聖ゲオルグ礼拝堂が建設されました。これはザクセン駐屯地初の礼拝堂です。
- 1694年から1756年
- 旧兵舎が拡大されました。選帝侯フリードリッヒ二世・アウグストの強い要望で地下室に249,838Lもの巨大なワイン樽が設けられました。この樽は1818年までありました。
- 1806年
- ナポレオンとケーニッヒシュタイン・ライン連盟により,ザクセンは王国となります。1813年にナポレオンはケーニッヒシュタインを視察しています。
- 1815年
- ウィーン議会によりザクセン王国はその領土を多く失ってしまいますが,ケーニッヒシュタインはザクセンの要塞として残りました。
- 1816年から1895年
- 要塞として,さまざまな施設が改築,増築されました。大砲といった火器の発達に伴い,それに耐えうる要塞へと変貌していきました。ヨハニスザール(Johannissaal)は武器庫,マグダーレンブルク(Magdalenburg)は食料庫に改築されるなどしています。また,8つの稜堡が設けられ,全方位の防御および攻撃が可能となりました。
- 1849年
- ドレスデンでの5月暴動中,ザクセン王家の避難所となりました。この後もケーニッヒシュタインはたびたびお承けの避難所として使用されています。
- 1866年
- プロイセン・オーストリア戦争により,ザクセン王朝は滅び,プロイセンの支配下に置かれました。プロイセンの司令官が要塞に置かれました。しかし19世紀末に長距離砲が開発されるに至ると,要塞の軍事的意義はなくなりました。
- 1870年(独仏戦争)
- 軍事的意義はなくなりましたが,独仏戦争での捕虜が要塞に収容されるようになります。以後1922年まで,ザクセン州で最も有名な刑務所および捕虜収容所となります。
- 第二次世界大戦後~1955年
- 政治に不満を持つ若者,若い犯罪者のための少年院として使用されました。
- 1955年
- ドイツ民主共和国の文化省は,ケーニッヒシュタイン要塞を引き継ぎ,ここを博物館として利用することを宣言しました。とはいえ冷戦下であったため,民間防衛のための防空壕が設置されるなど,地域の避難場所としての性格も持たせています。その一方で,観光用および貨物エレベーターを設置するなど,観光化に向けた施設も設けられるようになっていきます。
- 1991年
- ザクセン州の資産となり,より観光に向けた施設が広範囲に設けられていきます。代表的な観光用施設はパノラマエレベーターです。
- 現在
- 要塞は社団法人が運営・管理しています。さまざまな常設展示,イベント展示,各種イベントが要塞で行われています。