ダルムシュタット(Darmstadt)の南、ミュールタール(Mühltal)という所に、フランケンシュタイン城があります。
フランケンシュタインという名の城は、私の知っている範囲で他に2つあるよ。城名のあとに()で城のある森の名を入れて区別するんだ。
ラインラント・プファルツ州にもフランケンシュタイン(という名の町)に同名の城があり、オーストリアにも同名の城があります。
フランケンシュタインといえば、怪物フランケンシュタインを思い浮かべるけど、フランケンシュタイン城は怪物フランケンシュタインと何か関係があるの?
『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリーがフランケンシュタイン城のことを調べ、城に残る伝説を参考にした可能性が高いよ。
ちなみに、
フランケンシュタインは、『フランケンシュタイン』に登場するマッドサイエンティストの名前で怪物には名前がありません。ほとんどの人は怪物の方の名前がフランケンシュタインだと誤解しています。
私も怪物のほうがフランケンシュタインだと思っていました。
フランケンシュタイン城は18世紀なかばには廃墟と化していた城でしたが、ロマンティックに再建され、かつての厩舎が眺めの良い山の上のお城のレストランとして利用されています。
フランケンシュタイン城の構成と見どころ
木組み建築の建物はほとんど取り壊され、部屋も埋め立てられてしまっているため、中世時代はどのような姿だったのかわからなくなっています。
18世紀なかばには跳ね橋もなくなり、堀切も埋められてしまい、あるのはフランツ・シュッツ(Franz Schütz:1751-1781)が残した図面のみです。
城の建築物
門塔横の礼拝堂は、少なくとも外形がよく保存されている唯一の建物です。一般市民の結婚式や洗礼を行うことができます。
古い黄金の十字架は失われてしまったので、1990年代に古いモデルに基づいて作り直され、鐘は1851年に作られたものです。
礼拝堂の隣には、かつて豚小屋があったらしいけど、今は影も形もないね。
礼拝堂にある騎士
1602年、クッチャーロッホのゼーハイムへの旅の途中、事故で亡くなった23歳の若き騎士フィリップ・ルートヴィッヒの像。
他の場所の教会であらされた状態にあったものを、1851年に移設したものです。
上部のレリーフはヨルダン川でのイエスの洗礼が装飾として描かれている唯一のもので、ひじょうに珍しいもの。
住居塔(Wohnturm)
フランケンシュタイン城にはベルクフリートがなく、住居塔がベルクフリートの役割を担っていました。
1階は使用人と警備員が、2階は領主が、3階は兵器庫として使われていました。
現在のフランケンシュタイン城を特徴づける塔ですが…。
現在の住居塔は、「モニュメント保存災害」と揶揄されるほど、騎士の時代とは全く違う姿になっているよ。
テラスレストラン
1960年代末、G.マントケ(Mantke)教授によって、古い建物の見取り図に基づいて城のテラスレストランが建設されました。近代的なコンクリート建築です。
ライン平原を一望できる眺望の良さは必見!
レストランは近代的なコンクリート建築になってしまっているから、何かと批判の対象になることがあるよ。
ハロウィーン
フランケンシュタイン城で行われるハロウィーン祭は、とあるアメリカ人の企画から始まりました。
来週末、友人たちとここでハロウィーンを祝ってもいいですか?
ブライアン・ヒル(Brian Hill)と名乗るアメリカ人は謙虚で礼儀正しく、親切だったので、その申し出は許可されました。
10~20人程度と考えられたイベントには、なんと500人もの人たちが集結。
魔女、幽霊、悪魔、墓掘り人、…、各種有名な怪物たち…。
今ではすっかりフランケンシュタイン城の名物イベントになりました。
フランケンシュタイン城の公式Facebookページ
フランケンシュタイン城の歴史年表
フランケンシュタイン城がある場所は、紀元前2000年頃すでに交易路が発達しており、ケルトの礼拝所があったと考えられています。
御神木や神官を守るため、自分たち自身や財産を守るため、すでに要塞化していた可能性が高い。
フランケンシュタイン城の中世
民族大移動の時代、まず最初にブルグンド族がこの地に入植し、少し遅れてフランク族が定住しました。
フランケンシュタイン家はブルグンド族の子孫であることが、かなり確実と考えられています。
フランケンシュタイン家は、ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)領主からヴェッテラウ(Wetterau)の豊かな領地を受け継いでいたので、ダルムシュタット方伯よりも裕福でした。
城を建てたのが誰なのか、いつからあるのか、今のところわかっていません。
- 350年~480年
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1994~95年にかけての発掘調査中、火災の痕跡を発見しました。建物跡からブルグンド時代のものと推定されており、ブルグンド族がフランケン族の形成に大きく関わった学説を考古学的に裏付けています。
- 948年
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アルボガスト・フォン・フランケンシュタイン(Arbogast von Frankenstein)という名が初めて文献に登場します。ロルシュ(Lorsch)とフルダ(Fulda)の修道院長と条約を結び、「旅人に飲食物を与えるが宿を用意しない」権利を得ます。また、ケルンで開催されたトーナメントで入賞したことが記されています。
騎士のスポーツ馬上槍試合(Turnier)とはどんなもの? 中世の騎士たちが熱狂した馬上槍試合(トーナメント)は、戦争ができない武人たちの鬱憤晴らしを目的として始まりました。トーナメントで富と名声を得られれば、成り上がることができました。トーナメントとはどんなものか、トーナメントの歴史、現在に残るトーナメントについて解説します。 - 1252年
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この城で最初に署名された文書は6月2日のもので、物品交付証書。ここからフランケンシュタイン城がブロイベルクの所有であった可能性が考えられています。
- 1290年
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コンラート・フォン・ブロイベルク(Konrad von Breuberg)の妹がヨハン1世・フォン・フランケンシュタインと結婚しており、城はフランケンシュタイン家の所有となります。
- 1292年
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フランケンシュタイン家はカッツェンエルンボーゲン(Katzenelnbogen)伯爵家と協定を結び、カッツェンエルンボーゲン家に開城権を与えます。
カッツェンエルンボーゲン家と衝突することはあったけど、辣腕政治と広い人脈で、何度も危機を乗り切っているよ。
- 14世紀
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フランケンシュタイン家が分割相続されました。
城の崩壊
1602年と1606年にフランケンシュタイン本家が断絶します。
フランケンシュタイン城とその所有物がヘッセン家に決して渡してはならない
そう遺言されていたにもかかわらず、他に買い手も見つからなかったため、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家がフランケンシュタインの資産を受け継ぎます。
フランケンシュタイン家(分家)はこのときの売却資金でウルシュタット(Ullstadt)領を購入し、現在もそこの住んでいます。
方伯家はフランケンシュタインの名前が残ることを望まず、名称が変更されたものが多くあります。
この時、城はまだ居住可能な状態でした。
- 30年戦争(1618-1648)
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ライン川対岸から、多くの難民の避難場所となりました。
- 1670年
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フランケンシュタイン家が城を手放し、ヘッセン方伯家に売却されました。
- 1673年
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神学者であり医師であり錬金術師であるヨハン・コンラート・ディッペル・フォン・フランケンシュタイン(Johann Conrad Dippel von Frankenstein)がフランケンシュタインに生まれます。
関連:小説『フランケンシュタイン』とフランケンシュタイン城にまつわる伝説
コンラート・ディッペルは、ヴィクター・フォン・フランケンシュタインのモデルになった人物と言われているよ。
軍事刑務所としての使用
- 1714年
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オイラー(Euler)軍曹が市民を射殺した罪でフランケンシュタインに追放されて終身刑となり、妻や娘とこの城で暮らすことになりました。
この時、城の借り手であった人物を目立たないように追い払うことに成功し、フランケンシュタインの領地を手に入れます。
妻は城の家財道具を全て取り払い、屋根から全ての鉛、暖炉から鉄板、調理器具、ドア、窓などを取り払い、一般に流通させ床を焼き払うなどしました。この行為が、フランケンシュタイン城崩壊の決定打となります。
- 1740年
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戦争参謀レー(Reh)が城を視察した時、その惨状に驚き、修理を申し立てますが、全てを行うことはできず、城の衰退は決定的となりました。
それでもまだ内郭の部分は居住可能だったよ。
近隣住民の採石場として使用されてはいましたが、1819年に出版された版画には木組み建築の壁がまだ残っていました
ルートヴィヒ3世大公による修復?
19世紀頃ロマン主義が流行し、廃墟となったフランケンシュタイン城への関心が高まりました、
しかし行われたことは、
- 地下室と井戸は埋められ
- 「古い家」のプラットフォームへ続く階段は再建
- 別館、パン焼き設備、暖炉…痕跡がほぼ消滅
という有様…。1835年からほぼ20世紀に入るまで続きました。
なぜこんなことを…。
この時代は「保存への配慮」という概念がまだなく、「美しい廃墟」を誇って見せることのほうが重要だったんだよ。
フランケンシュタイン城へのアクセス
近くに無料駐車場がありますので,城へ行くには車で行くのが良いようです。
フランケンシュタイン城に残る伝説について、こちらで詳しく紹介しています。