ドイツ・ヘッセン州ダルムシュタットの南、ミュールタール(Mühltal)の高台に佇むのが、伝説と文学が交差する山城、フランケンシュタイン城(Burg Frankenstein)です。
その名から連想されるように、小説『フランケンシュタイン』とのつながりが深く、多くの伝説と逸話に彩られた城として知られています。

ちなみに、同名の城はラインラント・プファルツ州やチューリンゲン州、ポーランドにもあるけど、この城は「オーデンヴァルトのフランケンシュタイン城」って呼ばれて区別されるんだ。
プファルツにあるので、城名の後に(プファルツ)をつけて区別しています。





日本も同名の城がある場合、旧国名をつけて区別している時があるね。(例:備中高松城、三河山中城)



でも、フランケンシュタインって、怪物の名前じゃないの?



あれは誤解されがちだけど、本当は”怪物を生み出した科学者”の名前なんだよ。
フランケンシュタインと怪物との関係性について、詳しくは下記ページを御覧ください。


フランケンシュタインは、『フランケンシュタイン』に登場するマッドサイエンティストの名前で怪物には名前がありません。


フランケンシュタイン城は18世紀なかばには廃墟と化していた城でしたが、ロマンティックに再建され、かつての厩舎が眺めの良い山の上の古城レストランとして利用されています。
本記事では、オーデンヴァルトのフランケンシュタイン城の見どころと歴史について紹介します。
フランケンシュタイン城の構成と見どころ


Twine333, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
木組み建築の建物はほとんど取り壊され、部屋も埋め立てられてしまっているため、中世時代はどのような姿だったのかわからなくなっています。
18世紀半ばには跳ね橋もなくなり、堀切も埋められてしまい、あるのはフランツ・シュッツ(Franz Schütz:1751-1781)が残した図面のみです。
礼拝堂(Kepelle)


門塔の隣に立つ礼拝堂は、城内で唯一原型を保っている建物。
- 黄金の十字架は失われてしまったので、1990年代に作り直されたもの
- 鐘は1851年製



礼拝堂の隣には、かつて豚小屋があったらしいけど、今は影も形もないね。


礼拝堂にある騎士
1602年、クッチャーロッホのゼーハイムへの旅の途中、事故で亡くなった23歳の若き騎士フィリップ・ルートヴィッヒの像。
他の場所の教会であらされた状態にあったものを、1851年に移設したもの。
上部のレリーフはヨルダン川でのイエスの洗礼が装飾として描かれている唯一のもので、ひじょうに珍しいものです。
住居塔(Wohnturm)
フランケンシュタイン城にはベルクフリートがなく、住居塔がベルクフリートの役割を担っていました。
- 1階:使用人と警備員
- 2階:領主
- 3階:武器庫
現在のフランケンシュタイン城を特徴づける塔ですが…。



でも現在の塔は再建時にコンクリートが使われていて、ちょっと「騎士の時代とは全くの別物」と批判されることもあるんだよ。


「モニュメント保存災害」と揶揄されることがあります。
テラスレストラン


1960年代末、G.マントケ(Mantke)教授によって、古い建物の見取り図に基づいて、かつての厩舎跡に建てられた展望レストラン。
近代的なコンクリート建築です。
ライン平原を一望できる眺望の良さは必見!



建物自体は近代的だけど、眺めは最高!



近代的なコンクリート建築のレストランは、何かと批判の対象になることがあるよ。
ハロウィーンイベント
フランケンシュタイン城で行われるハロウィーン祭は、とあるアメリカ人の企画から始まりました。



来週末、友人たちとここでハロウィーンを祝ってもいいですか?
ブライアン・ヒル(Brian Hill)と名乗るアメリカ人は謙虚で礼儀正しく、親切だったので、その申し出は許可されました。
- 当初10~20人程度と考えられたイベントには、なんと500人以上が来場
- 今ではドイツ国内でも有名な名物イベントに
魔女、幽霊、悪魔、墓掘り人、…、各種有名な怪物たち…。
今ではすっかりフランケンシュタイン城の名物イベントになりました。
フランケンシュタイン城ハロウィーン公式サイト



怪物や魔女の仮装でにぎわうなんて、まさにこの城らしいお祭り!
フランケンシュタイン城の歴史


Frank Vincentz, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
フランケンシュタイン城がある場所は、紀元前2000年頃すでに交易路が発達しており、ケルトの礼拝所があったと考えられています。
御神木や神官を守るため、自分たち自身や財産を守るため、すでに要塞化していた可能性が高いと言われています。
フランケンシュタイン城の中世
民族大移動の時代、まず最初にブルグンド族がこの地に入植し、少し遅れてフランク族が定住しました。
フランケンシュタイン家はブルグンド族の子孫であることが、かなり確実と考えられています。
フランケンシュタイン家は、ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)領主からヴェッテラウ(Wetterau)の豊かな領地を受け継いでいたので、ダルムシュタット方伯よりも裕福でした。
城を建てたのが誰なのか、いつからあるのか、今のところわかっていません。
- 350年~480年
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1994~95年に行われた発掘調査により、火災の痕跡を検出。建物跡からブルグンド時代のものと推定されており、ブルグンド族がフランク族の形成に大きく関わった学説を考古学的に裏付けています。
- 948年
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アルボガスト・フォン・フランケンシュタイン(Arbogast von Frankenstein)という名が初めて文献に登場します。ロルシュ(Lorsch)とフルダ(Fulda)の修道院長と条約を結び、「旅人に飲食物を与えるが宿を用意しない」権利を得ます。また、ケルンで開催されたトーナメントで入賞したことが記されています。
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この城で最初に署名された文書は6月2日のもので、物品交付証書。ここからフランケンシュタイン城がブロイベルク家の所有であった可能性が考えられています。
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コンラート・フォン・ブロイベルク(Konrad von Breuberg)の妹がヨハン1世・フォン・フランケンシュタインと結婚しており、城はフランケンシュタイン家の所有となります。
- 1292年
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フランケンシュタイン家はカッツェンエルンボーゲン(Katzenelnbogen)伯爵家と協定を結び、カッツェンエルンボーゲン家に開城権を与えます。
カッツェンエルンボーゲン家と衝突することはあったけど、辣腕政治と広い人脈で、何度も危機を乗り切っているよ。
- 14世紀
-
分割相続により、フランケンシュタイン家は複数の分家に分裂します。
近世~衰退期
1602年と1606年にフランケンシュタイン本家が断絶。
フランケンシュタイン城とその所有物がヘッセン家に決して渡してはならない
そう遺言されていたにもかかわらず、他に買い手も見つからなかったため、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家がフランケンシュタインの資産を受け継ぎました。
フランケンシュタイン家(分家)はこのときの売却資金でウルシュタット(Ullstadt)領を購入し、現在もそこの住んでいます。
ヘッセン方伯家へ
方伯家はフランケンシュタインの名前が残ることを望まず、名称が変更されたものが多くあります。
この時、城はまだ居住可能な状態でした。
- 30年戦争(1618-1648)
-
ライン川対岸から来る多くの難民の避難場所として使用されます。
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-
フランケンシュタイン家が城をヘッセン方伯家に売却され、正式にヘッセン方伯家の所有となりました。
- 1673年
-
神学者であり医師であり錬金術師であるヨハン・コンラート・ディッペル・フォン・フランケンシュタイン(Johann Conrad Dippel von Frankenstein)がフランケンシュタインに生まれます。
コンラート・ディッペルは、ヴィクター・フォン・フランケンシュタインのモデルになった人物と言われているよ。
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軍事刑務所としての使用
- 1714年:オイラー(Euler)軍曹追放事件
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オイラー軍曹が市民を射殺した罪でフランケンシュタインに追放されて終身刑。妻や娘とこの城で暮らしました。
この時、城の借り手であった人物を密かに追い払うことに成功し、フランケンシュタインの領地を手に入れます。
妻は城の
- 家財道具
- 屋根の鉛
- 暖炉の鉄板
- 調理器具
- ドアや窓
などをすべて取り払って売却し、さらには床を焼き払うなどしました。
この行為が、フランケンシュタイン城崩壊の決定打となります。
- 1740年
-
戦争参謀レー(Reh)が城を視察した時、その惨状に驚き修理申請しますが、一部しか実行されず、虚しくも城の荒廃は進みました。
それでもまだ内郭の部分は居住可能な状態だったよ。
近隣住民の採石場として使用されてはいましたが、1819年に出版された版画には木組み建築の壁がまだ残っていました。
ロマン主義と復興
19世紀頃ロマン主義が流行し、廃墟となったフランケンシュタイン城への関心が高まりました。
ダルムシュタット大公ルートヴィヒ3世(Darmstädter Großherzog Ludwig III)が、遺跡を「ロマンティックな方法で」保全し、「一般の人々がアクセスできるように」させました。
行われたことは、
- 地下室と井戸の埋め立て
- 別館、パン焼き設備、暖炉…痕跡がほぼ消滅
という有様。再建の名の下に、多くの遺構が破壊されてしまいました。
これが、1835年からほぼ20世紀に入るまで続きました。



この時代は「保存への配慮」という概念がまだなく、「美しい廃墟」を誇って見せることのほうが重要だったんだよ。



ありのままを「保存」することじゃなくて「演出」が大事だったのね。


フランケンシュタイン城へのアクセス
近くに無料駐車場がありますので、城へ行くには車で行くのが良いようです。
小説『フランケンシュタイン』と城との関係について、詳しくはこちら。

