タウヌス山地(Taunus)北麗、ラーン川(Lahn)沿いにある城。ヴェツラー(Wetzlar)の南西10kmのところにあるブラウンフェルス(Braunfels)という温泉街に建っています 。
現在の城の姿は、19世紀の増改築でネオ・ゴシック様式を取り入れた歴史主義様式です。
13世紀からゾルムス伯爵家の居城で、現在もオッパースドルフ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルス伯爵の居城です。
ブラウンフェルス城の構成と見どころ
北のノイシュバンシュタインともいわれる城の美しさ。しかしノイシュバンシュタイン城とは違い、矢狭間や落とし格子があるなど、防御機能を備えた城です。
門の上にある胸壁は、1845年以降の再建時に作られたもの。
鉄の門
落とし格子のある城門の上には櫓があり、石落としのようなものがあります。
城門に集まる敵兵を落とし格子で遮断し、上から矢を放ったり、熱い湯やタールを落としていたのかもしれません。
シュロスですが、かなりブルクの要素が強く残っています。
ベルクフリート
コーナータレットが特徴的なブラウンフェルス城のベルクフリートは、歴史主義様式で建設されたものです。
このベルクフリートに、中世の面影はない!
ブラウンフェルス城の内部
ブラウンフェルス城の内部は、一部ガイドツアーで見学することができます。
内部は主に1845年以降に作られたもので、貴族の豊かなコレクションをみることができます。
昔はガイド付きのツアーしかなかったけど、今はいろいろなオプションガイドがあるみたい(詳しくは公式サイト参照)
ガイドツアー
まず中庭のようなところで簡単にお城の歴史を紹介されました。
950年頃、この部分が最初に作られ、そして次にこの部分が増築され、そして城主は……。
そして現在でも人が住んでいることが説明されました。
騎士の間(Rittersaal)
今でこそ、この部屋には窓があり、日が差し込んで温かいのですが、
昔はこの部屋には窓がなくて、寒かったのよ
Leica Akademie, original uploader was Egetmeyer at de.wikipedia, CC BY-SA 3.0 DE https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en, via Wikimedia Commons
ロマネスク様式の騎士の間では、12世紀から18世紀までの武器が展示されています。
これは処刑用の剣にたくさんのツヴァイハンダー(Zweihander)、フランベルジュ(flanberge)が1本。楯、ハルバード(Hallebarde)も実にたくさん置いてあり、穂先の形が微妙に違っていました。
グレイヴ、ギサルメ、フレイル,ウォーアックス、……。
どれも飾り気の無いシンプルなもので、装飾用ではなく実践用なのかもしれません。
奥にはランスを持って馬にまたがった騎士のマネキン、馬も騎士もフルプレートアーマーを装着していました。この騎士の前では、鎧の長所や短所、戦いの仕方の説明を受けました。
重い甲冑を付けて、武器を持って、相当な重量よね。甲冑だけで50kg。馬も人も、こんな重さになんて耐えられないよ。
次の部屋には巨大なシャンデリアと甲冑が1つ。それにたくさんの肖像画があります。
ガイドさんは甲冑の前で、肖像画の人物たちについて説明をしてくれました。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ツー・ゾルムス=ブラウンフェルス王子(Prinz Friedrich Wilhelm yu Solms-Braunfels)
Not mentioned, Public domain, via Wikimedia Commons
城の調度品も上品で見ごたえあります。それでいて生活感があります。
ブラウンフェルス城の公式サイト
ブラウンフェルス城の歴史
ElisabethMargit, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
946年頃、この地にはすでにあったとされていますが、文献にはっきりと登場するようになるのは1246年以降です。
ゾルムス伯爵家の名はラーン(Lahn)川に注ぐ小さな川「Sulmissa」に由来しており、1129年にギーセン(Gießen)近郊のシッフェンベルク修道院(Klosters Schiffenberg)の設立証人として登場しています。
当時はブルクゾルムス(Burgsolms)の水城に住んでいましたが、現在は水城の痕跡すら残っていません。
ゾルムス家が伯爵位を授爵したのは、1230年頃です。
中世時代
- 1246年
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Castellum Bruninvelsという名称で、はじめて文献に記載されます。ナッサウ伯爵(Grafen von Nassau)に対抗するための防衛の城として、古いブルクの傍に新しいブルクを建築しました。
フリードリッヒ塔(Friedrichsturm)という古い監視塔に遡り、ベルクフリート、ホール、盾壁からなる建物群であったと考えられています。
1280年以降、ゾルムス伯爵家の居城となります。
- 1382年
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ブラウンフェルス家は3系統に分かれ、ゾルムス城がライン同盟に破壊された結果、ゾルムス=ブラウンフェルス伯爵家の居城となりました。
ゾルムス=ブラウンフェルス家とゾルムス=ブルクゾルムス家間のフェーデの結果、ゾルムス=ブラウンフェルス家のものになったんだよ。
ゾルムス=ブラウンフェルス家は系統の分裂と断絶、再統合を繰り返しながら、現在まで続いています。
15世紀から17世紀の大規模増改築
Matthäus Merian, Public domain, via Wikimedia Commons
内郭に(Kernburg)に大規模な増改築が行われました。中世の城が要塞へと姿を変えたのは1500年頃です。
今の城の姿とはずいぶん違うのね
多くの建物が姿を変えた中、後期ゴシック様式の礼拝堂は、今と変わらぬ姿だよ
伯爵領の中心地として城が拡張されました。
三十年戦争による破壊
ゾルムス=ブラウンフェルス家はカルヴァン派。フリードリヒ五世を支持したため、神聖ローマ帝国から帝国アハト刑を受けてしまいました。
- 1621年
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スペイン軍に戦わずに占領されてしまいました。
- 1629年
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フィリップ・モーリッツ・フォン・ホーエンゾルムス伯爵(Graf Philipp Moritz von Hohensolms)はブラウンフェルス城と都市を包囲に成功。
その後、何度も奪われたり取り返したりすることが繰り返されます。
- 1641年
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ヨハン・アルプレヒト二世・ツー。ゾルムス=ブラウンフェルス(Johann Albrecht II. zu Solms-Braunfels)伯爵が再びこの地を手に入れることができました。
三十年戦争後の再建
ハインリッヒ・トライェクティン(Heinrich Trajectin)伯爵がバロック様式のシュロスへと改築されますが、残念ながら1679年の都市の大火に巻き込まれ、大部分が焼失してしまいます。
せっかく再建したのに
その後、バロック様式のシュロスへと迅速に再建されましたが、資金不足により完遂には至りませんでした。
1742年、ゾルムス=ブラウンフェルス家は侯爵位を授爵します。
19世紀―ナッサウ公国時代
プロイセン=ラインの敗ロマン主義に基づくネオ・ゴシック様式へと改築されます。
- 1803年
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ゾルムス=ブラウンフェルス家の政治的独立は終了し、領土はナッサウ公国に組み込まれます。しかし城は侯爵家のものとして残り、1848年まで侯爵領政府の所在地となりました。
- 1840年
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フェルディナント・ツ・ゾルムス・ブラウンフェルス(Ferdinand zu Solms-Braunfels)候は、城をネオ・ゴシック様式への改修と修復を開始しました。
ラインロマン主義の精神に基づくラインシュタイン城がモデルになっています。
1847年、侯爵は40歳の誕生日、妻に旧ホールをロマン主義へ改装することをプレゼントしたよ。
部屋の改装をプレゼントなんて、なんてロマンチックね!
- 1880年から1885年
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第二ベルクフリートの増築。歴史主義様式のオリエルやタレットの増築をはじめとして、全体的に歴史主義様式を示すようになりました。
現在の城の姿は、この時代の改築によるものですが、少なくとも下部には古い時代のものが残っています。
ブラウンフェルス城へのアクセス
無料駐車場から旧市街を通って城へと向かいます。
城下町は、ドイツを代表する素敵な木組みの家々が並んでいました。
車で行く場合
アウトバーンの5号線をフランクフルト(Frankfurt a. M.)からギーゼン(Giessen)方面へ向かい、45号線をヴェツラー(Wetzlar)方面に乗り換えます。30番の降口で降り、ブンデス(Bundes)49号線をリンブルグ(Limburg)方面へと向かいます。フランクフルト・アム・マインから車で約1時間ほどのところです。
公共交通機関を利用する場合
ヴェツラーからブラウンフェルス中心街へ行くバスが出ています。