ザールブルク城(Kastell Saalburg)の歴史と見どころを紹介!ー古代ローマを守る国境城塞

バート・ホンブルク(Bad Homburg v.d.Höhe)郊外にある古代ローマ軍砦(Kastell)跡。ゲルマンの城ではありませんが、城の歴史を考える上では重要です。

ザールブルク城砦(Kastell Saalburg)は、ローマとゲルマニアの国境に築かれた城砦です。

城の立地平城
城の種類カステル
城主の階級ローマ皇帝→ヘッセン州
最初の城の設立年代紀元前80年頃

紀元1世紀から6世紀にかけて、ローマ帝国はヨーロッパ、近東、北アフリカの国境に、リメス(Limes:リーメスとも)という国防システムを建設しました。国境線は次第に障害物の建設、物見櫓の建設や城塞への建設と発展していきます。

リメス・ゲルマニクスは、土塁と木柵からなる長城に、要所要所に物見櫓と城塞が設けられていました。

ドイツにいながらにして、ドイツ以前の古代ローマを感じられる貴重な場所。

古代ローマの砦は、中世ドイツの城とはまた違った雰囲気ね。

現在のザールブルク城砦は発掘調査等をもとに、復元されたものとなっています。

ちなみにザールブルクという名称は1604年まで遡ることはできますが、それ以前、つまりローマ時代は何と呼ばれていたのかはわかっていません。

確かに…、「ザールブルク」という響きはドイツ語っぽくて、ローマっぽくな…。

なお、このザールブルク城砦は、2006年にユネスコ世界文化遺産に登録されています

本記事では、ザールブルク城の見どころを紹介し、ローマ人が築き上げた国境城塞の歴史をザールブルク城の例を見ながら紹介します。

目次

ザールブルク城砦の構成と見どころ

ザールブルク城砦外部施設

砦の外側にも遺跡があります。

退役した兵士や職人の住む住居、宿屋のある砦村がありました。また、ローマ神やミトラ神を祀る祠も見つかっています。

ザールブルク城のお風呂跡

浴場跡

長さ41.5mある巨大な浴場は、更衣室と繋がり、熱いお風呂からぬるいお風呂、冷たいお風呂へと順番に入っていくことできるようになっていました。

浴場は午後になると開放され、兵士たちは午後、お風呂を楽しんでいたようです。

浴場は、公務で通過する役人や公務員が宿泊する「マンシオ」という建物とつながっており、マンシオには床暖房システム(床下に暖気を通すダクトが走っている)が残っています。

浴場は砦の外にあり、バス停から砦に向かう途中にあるのですぐにそれと気づきます。

古代ローマと言えば、やっぱお風呂よね。

二重堀

砦は二重の堀が張り巡らされており、門の前の内堀には木橋がかけられており、外堀は土橋になっています。

堀の形はV字型の薬研堀。

それほど深くないし急斜面でもありませんが、当時の人々にとっては十分な侵入障壁となっていたに違いありません。

二重堀

リメス

ザールブルク城砦反対側の北側に向かって約200m進むと、リメスがあります。

Limes

復元されたリメス

ザールブルク周辺のリメスは、山の稜線に沿って走っています。

中世の城をいろいろと見た後では、リメスの土塁も木柵も低く感じてしまうかもしれません。

しかし砦の外側に無防備な形で建物が立っていたことを考えると、このような城壁でも長期間、長城の内側に安全をもたらしてくれた存在であったのだと思います。

最終的にはゲルマン人の侵攻に耐えられなくなって、260年頃にはリメスも砦も放棄されちゃうんだけど、170年間の長きに渡ってローマを守ってくれたよ。

ザールブルク城砦内部

砦の内部は、兵舎、厩舎、作業場、道具置き場などの建物が密集して並んでいます。

プリンキピア(Principia)

プリンキピアと井戸
プリンキピアと井戸

第2ラエティアコホルス長の住居だったプリンキピアは、砦の中心に立つ建物です。砦の守備隊の整列ホールとして使用されていました。

砦の歴史を示す展示、皇帝像のレプリカ、タウヌス・リメスから発掘されたゲルマン遺物の展示が行われています。

ローマ時代の不規則に円い硬貨と並んで、現在の硬貨があるのが印象的。

粘土製品は多く出土され、腐敗しやすい木製品や革製品は井戸の中から発見されたものです(水の中で空気に触れることがなかったため、保存状態が良い)。草履やサンダル、装飾品、壺、鍋などの台所用品といった、兵士や国境の住民が日常生活で使用していた道具や製品が並んでいました。

小道具類は、兵士自ら手作りしていました。レンガも兵士の手作りです。

砦周辺には職人たちも住んでいましたが、多くは兵士たちが自分たちで作っていました。兵士たちの技術の高さをうかがい知ることができます。

こんなとこ、ローマ人にとってはものすごく寒かったと思うよ。

といっていたのは、以前ここを訪れたドイツ人の友人。特に展示されている靴を見た時、私もそう思いました。

復元された当時のスコップとランスが興味深く、金属は貴重品だったせいか、金属は先の方だけについていました。

城壁

木石壁
木石壁(Holz-Stein-Mauer)

個々の胸壁間の幅が広く、兵士が槍を投げるのに十分なスペースがありました。初期の石壁は木と石を積んだだけであるため、木石壁(Holz-Stein-Mauer)と呼ばれており、モルタル接着されていません。木石壁はこの部分だけ残されています。

幅が約3.6mもあるため、同時に防衛通路としても機能していました。

パン焼窯

パン焼窯

壁に沿ってパン焼窯が発掘されました。現在は保護屋根が取り付けられているパン焼窯。昔は屋根がついていたのかどうかはわかりません。

兵士たちに食料は支給されていましたが、それは挽いてもいない粒の状態であったため、自分たちで粉に挽いてパンを焼いていました

ホレウム(Horreum)

かつての穀物倉庫で、発掘調査に基づいて再建されており、博物館として使用されています。

ローマの軍事キャンプでは見当たらない施設。部隊を長期間、物資補給から独立して活動させるために建てられていました。現在は保護のための屋根が取り付けられています。

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兵士の一日

ローマ人の生活
ローマ人の生活

ローマ軍の兵士の一日は、日の出の頃にホルンの合図で起床します。

その後、副官が部下を任務に就かせたあと、報告のためにプリンキアに向かいます。長官は報告を記録し、その日の命令を出します。

午前中は、主に武器や戦闘の訓練。しかし勤続年数の長い兵士は警備や現場の作業で忙しく、訓練には一部の兵士しか参加できなたったと言われています。

正午にも、ホルンの合図があります。

午後は、警護任務についていない兵士は自由時間となりますが、大抵は食事の準備や設備の維持管理に当てられました。何しろ、自分たちで粉挽きをしてパンを焼かなければなりません。当時の人々のメインの食事は、夕食です。

午後には浴場も開放されるので、お風呂も楽しみました。

著:エドワード・ギボン, 編集:中倉 玄喜, 翻訳:中倉 玄喜
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ザールブルク城砦の歴史

Peng (Diskussion) 12:56, 25 August 2011 (UTC), CC0, via Wikimedia Commons

ザールブルク城の歴史を考える前に、リメスのことを知らなければなりません。まず先に、リメスについて簡単に紹介します。

リメス建設の背景

リメス・ゲルマニア
リメス・ゲルマニア

ローマは紀元前1世紀にガリアを征服し、ライン川をローマの国境とします。その後、ローマは領土を拡大し、国境をライン川からエルベ川へと移す計画を立てますが、トイトブルク森の戦いで手痛い敗北を喫したあとはゲルマン戦役を打ち切り、ライン川とドナウ川が国境となります。

リメスはヨーロッパ版万里の長城。異民族(ゲルマン人)の侵入からローマを守るものでした。

防衛システムではなかったリメスの目的

リメスは、ゲルマン民族から帝国を守る防衛システムではなかった

えっ?違うの!?

もともとは哨兵たちが行き来するための道だったんだよ。

国境に沿って哨兵道をつくり、木製の物見櫓で守るためだけのものでした。監視塔の間隔は300~1000m。物見櫓から物見櫓へと、信号を伝えられる距離です。

ライン川中流とドナウ川上流を結ぶ全長548kmのりメスは、もともとは所々に物見櫓のある林道のようなもので、重要な拠点には小さな砦がつくられ、それぞれ100~100人の駐屯兵を配置する程度のものでした。

ハドリアヌス帝の時代に、哨兵道に柵が設けられ、木製の塔は石製の塔に変わり、ローマを守る防衛システムになりました。

リメスの背後には空堀を掘り、さらに土塁を築きました。

リメスと砦に配置される兵士

ローマ軍は、レギオー(legio:ローマ軍団)、アウクシリア(auxilia:支援軍)で構成され、物見櫓には支援軍が就きました。

ローマ軍の構成

ローマ軍はプロの兵士でした。

ローマ軍はローマ市民のみが採用されました。支援軍のアウクシリアはローマの市民権を持たない地方民から集めらました。

プロの兵士として集中的な訓練が可能であり、軍隊に必要な多くの技能を学ぶことも可能でした。手工業道具の出土品が、その技術の高さを物語っています。

アウクシリアは、25年の勤務期間を全うすると、ローマの市民権を得ることができました。ローマの市民権欲しさに、地方民はアウクシリアになりました

国境地帯ではローマ化したガリア人やゲルマン人が多かったので、彼らがアウクシリアになったのではないかと、考えられます。

ザールブルク城砦には、第2ラエティアコホルスという名の軍隊が配属されました。

リメスの終焉

紀元3世紀、ローマ帝国内では財政難とインフレで混乱していました。

軍隊を撤退させて他の戦闘に参加させると、支援軍しかいないリメスは脆弱となります。実際、ローマ軍がパルティア人と戦っていた時、アラマン族の本格的な侵攻を受けました。

リメスは侵入障壁ではあるけれども、それほど強力な障壁ではないため、最終的にゲルマン民族の移動の圧力に屈します。

ヴェスパシアヌス帝(在位:69~79年)の時代、ザールブルクの地はローマの影響下にありました。

ザールブルク城砦の建設

ドミティアヌス帝(在位:81~96年)の時代

初期のザールブルク城砦
初期のザールブルク城砦

ローマ軍の前進ルートを確保するために、哨兵道を敷設し、木製の塔で監視することにしました。部隊の名称は不明ですが、120~150人いたと思われています。

90年頃に前身となる木製の砦が建設されました。この砦は、発掘調査で堀があったことがわかっていますが、後の拡張建築の際に埋め立てられてしまっています。

この時の砦の向きは、現在のザールブルク城砦と軸方向が異なり、斜めになっていました。

ハドリアヌス帝(117~138年)時代

135年頃のザールブルク城砦
135年頃のザールブルク城砦

ラエティア第2コホルス軍がザールブルクに移されました。この軍隊は約500人で構成されており、リメスの終焉までこの舞台が駐屯し、警備していました。レギオーは配属されていません

砦は何度か作り直され、最初は硬い石と木でできた壁はモルタルの壁に変わりました。最初木製だった建物も、部分的に石製になりました。

ザールブルク城砦の終焉

ザールブルク城砦が放棄される
ザールブルク城砦が放棄される

アラマン族の攻撃を受け、破壊されます。砦は再建されましたが、砦村は再建されませんでした。

2世紀後半、遅くとも260年にゲルマン人のさらなる侵攻を受け、ザールブルク城塞もリメスも放棄されました。

ザールブルク城砦復元に向けての活動

リメスの記憶こそ残っていましたが城砦の存在は忘れ去られ、中世には採石場として石が持ち出されました。

様子が変わったのは1723年、ローマ時代の硬貨が出土されてから注目されるようになります。

発掘調査

19世紀になると、大規模な発掘調査が行われました。国からの資金援助を受けながら組織的に研究が続けられます。

当時最先端の考古学的手法を駆使して調査されましたが、当時の技術では木造建築物の痕跡を発掘する方法がまだ未熟でした(それ故、木造建築物はあったと思われていても復元されていません)。

復元活動

1898年か1907年にかけて建設されました。

バート・ホンブルクの建築家ヤコビ教授が皇帝ヴィルヘルム2世を説得し、ザールブルクの復元が可能となりました。プロイセンだけでなく、アメリカの個人からも資金援助を受けました。

資金援助のお礼なのか、ヴィルヘルム2世の碑文が置かれている場所があるよ。

ヤコビ教授は、復元資料を集めるために北アフリカに残る城砦まで調査に出かけています。

当時のあらゆる科学的知見に注意を払って復元作業が行われました。すべての建物は、ローマ時代の基礎壁の上に建っています。

再建されたどの城にも言えることかもしれませんが、現在の科学的知見とは異なっている可能性は残っています。

当時の最善を尽くして復元されてはいるから、その辺は仕方ないよね。現在の最新の知見でも、後世から見れば間違っていることだってきっとあるだろうし…。

博物館として使用するため、古代の建築方法とはあえて違う方法と建築されているものもあります。

ザールブルク城砦の公式サイト

ローマ時代のコスプレをして楽しむイベントが開催されています。

ザールブルク城砦へのアクセス

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