ドイツ旅行の観光パンフレットを眺めていると、ドイツには数多くの城があることに驚かれる方も射るのではないでしょうか。
では、ドイツにはいったいいくつの城があるのでしょうか?
日本には4~5万の城があったと言われています。ドイツの国土は日本の2/3程ですが、ドイツも日本に負けず劣らず1万~2万の城があったと言われており、ドイツ語圏全体では約4万ぐらいあったと考えられています。
日本の城の多くは戦国時代に建てられたものなのよね。ドイツも似たようなものなのかしら?
城は軍事施設。洋の東西問わず、そこに戦争があるから城が建てられたことに変わりはないよ。
ドイツには大築城時代が2回あり、その時代にたくさんの城が建てられました。当然、何らかの争いがあった時代です。
本記事では、ドイツに存在した城の推定数、城が数多く建てられた時代背景、城の分布状況について紹介します。
ドイツにある城の数
ドイツでは10世紀前半から建設が目立ち始め、1300年頃に最盛期を迎えます。
ドイツ全土では1万とも2万5千あったとも言われていますが、実際にどれだけの数があったのかは定かではありませんが、13世紀頃には1万3千の城塞(ブルク:Burg)があったと言われています。
範囲をドイツ語圏全体に広げると、約4万あったと推定されています。
現在その中の約3,000の城がよく保存されおり、存在を確かめることができます。
城を建てたのは王侯貴族よりも騎士(ミニステリアーレ)たちが建てたものが大部分であり、規模的に城郭というよりも陣屋という言葉が合うような小さな城が多いです。
多くの城は今も昔もそこに存在していますが、壮大なシュロスに姿を変えたり、かつては城を取り囲んでいた都市に飲み込まれてしまったものも中にはあります。
かつて存在していた中世城郭の上に建てられた近代城郭の代表例
都市に飲み込まれたかつての帝国城塞
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ドイツに城が多い理由3つ
城が多く建てられた時代は、もちろん争いの多い混沌とした時代。争いの他にも、ゲルマン民族特有の慣習の名残もありました。
城が多い理由の背景をまとめると、以下の3つになります。
- 外敵の侵攻に備えて
- 弱い国王権力
- 分割相続
3つの理由、それぞれについて詳しく解説していきます。
外敵の侵攻
第一期城砦建設ブームは、カロリング朝が終わりフランク王国が分割された跡、ドイツ国王に選出されたザクセン朝ハインリヒ一世(Heinrich I.)の時代です。
ハインリヒ一世は、外敵の侵攻に悩まされていました。
この時代の外敵とはマジャル人で、マジャル人による破壊と殺戮から国を守るために、城の建設が急務とされていました。マジャル人は領土の拡大を目的とせず、略奪を目的とし、その被害は東フランク王国中心部にまでおよびます。
マジャル人の侵攻を抑え込むことは、ドイツ国王にとって重要な課題の一つ。ハインリヒ一世は9年間の休戦協定を結ぶことに成功に、その間に防衛拠点としてエルベ川、ザーレ川流域に多くの城塞を建設しました。
休戦協定終了間際、ハインリヒ軍はマジャル軍との戦闘に勝利しています。
弱い国王権力
争いは何も、外的に対しての争いばかりではありません。
イギリスやフランスのような中央集権が相対的に進んでおらず、貴族豪族たちが常に緊張関係にあり、フェーデも頻繁に起きていました。
ドイツは常に分裂状態。戦国時代のようであったと言っても過言ではないかもしれません。
マジャル人に対抗するときは、まとまっていたんだけどね。
何しろ、ドイツ国王は諸侯たちによる選挙で選ばれるがゆえ、国王の権力は弱かったのです。
城の建設は本来、王権に属するものです。王室の許可がなければ建設できません。しかし国王権力が弱かったため、おびただしい数の城塞が存在することになったと考えられています。
王権争い
第二期城砦建設ブームは、皇帝フリードリヒ二世(Friedrich II.)の時代。王権争いから、城が盛んに建設されました。
この時代、シュヴァーベン公フィリップ(Philip von Schwaben)とオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク(Otto von Braunschweig)が王権を争っていたり、フリードリヒ2世がシチリアに行って不在になっていたり。
その後、ドイツは皇帝&国王不在の大空位時代に突入したこともあり、諸侯たちは好き勝手に城塞を建てるようになりました。
分割相続(Ganerben)
今でこそ、男系長子相続が当たり前ですが、ゲルマンの伝統では男系子孫であれば全員に相続権がありました。
日本でも、鎌倉時代は分割相続が当たり前だったから、代を重ねるごとに所領が狭くなることが問題になっていたね。
騎士家系の場合、所領の分割は新しい城塞の建設を伴うことがありました。
自分の領地に自分が住むための城(家)を建てるのは当たり前!
しかし代を重ねるごとに領土が分割されていくため、長期的には経済的に困窮し、社会的地位の低下を招く原因にもなりました。
分割を繰り返すことで所領は縮小し、時に生存不可能なほどに細分化されることすらありました。
ドナウ川上流地域は、この理由から小さな城が特に密集している地域です。
カール大帝の死後、フランク王国が3つに分割され、今のドイツ、フランス、イタリアのもとになったことを学校で習ったことを覚えている人は多いのではないでしょうか。
ローマの伝統を受け継いでいれば国を分割するようなことはなかったと考えられますが、カール大帝の後継者はゲルマンの伝統に基づき、国を分割相続しました。
Auguste Longnon, Public domain, via Wikimedia Commons
806年の王国分割令により分割されたカロリング朝フランク王国
偏在する城
Friedlich Wilhelm Krahe著『BURGEN des deutschen mittelalters Grundriss-Lexikon』のP13の図1より
ドイツの城は、南高北低、南部に多く北部に少ないと言われています。
クラーエ氏は4,500もの城をマッピングし、ドイツ南西部に城が集中していることを明らかにしました。
エムス川、エルベ川、ドナウ川南部、バイエルン州で城が少ないのは、自由農民が多く、修道院所領の多いところです。
深い森林地帯や山岳地帯は人が住んでいないので、当然城砦も少なくなります。
ヴェストファーレンは、もともとは水城の多い地域でしたが、水城は比較的簡単に破壊されたり、元の城の跡がわからないほどに改築されてしまっている可能性があると、考えられています。
バーデン=ヴュルテンベルク州で城が多いのは、上述した分割相続の伝統による細分化です。
まとめ
- ドイツには城が2万5千あったと言われているが、新たに発見される城もあり、推定数は増加中
- 城が多い理由は、マジャル人の侵攻からの防衛、弱い国王権力、分割相続の3つ
- 城は一様に分布しているのではなく、南西部に多い
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