フェーデは決闘の一種です。
中世前期,フェーデは加害者に対し自由民である被害者,またはその一族が暴力でもって加害者に復讐する訴訟法でした(仇討みたいなものなのかな?)。血の報復(Blutfehde)と言われることもあります。
第三者機関である司法機関を介することなく行われる行為で,不当な自助救済ではなく認められた行為です。フェーデを行うかどうかは,本人とその一族に任せられていました。
フェーデは決まった場所,決まった建物で行われました。フェーデは相手側に犠牲者を出すことではなく,相手に贖罪協定を認めさせることにあります。
一般的にフェーデは武器を持つ能力のあるものであれば,農民でも行うことが認められていましたが,12世紀の始めには騎士社会と都市のみに適用されるようになりました。
フェーデの歴史
古代
フェーデの起源はゲルマニア時代にみることができます。
まだ国家という概念は存在せず,部族や氏族という単位で組織運営がなされていました。家長や族長は一族の生活を保護する義務があり,構成員たちは一族の問題や緊急事態に長を補佐する義務を負いました。
裏切り者は死刑です。
長は司法官の役割も担っていました。
長を補佐して若い男性は戦い,長は戦利品を彼らに分け与えました。
まだ貴族や司法制度というものは存在していませんが,その起源を見ることができます。
フェーデは仇討が仇討を引き起こしかねないため,相手を根絶するまで闘争が繰り広げてしまう危険性があります。
負傷者側から仇討ちされないために,負傷者に賠償金を支払うことで和平を結ぶという手段が取られるようになりました。
金額は,負傷者側が満足する額を用意しなければならないとされています。
和平は金で買うものでした。
中世
フェーデは発展すると大規模な戦争となり,地域は壊滅的な損傷を受けます。
身代金や略奪目的でフェーデが広く行われるようになってしまいました。
10世紀になると,教会はフェーデを制限しようと神の平和運動を行います。木曜日から日曜日の夜までは休戦するように求め,これを成功させます。
カロリング朝時代の国王は,フェーデを制限しようと苦心していたことがわかっています。
1235年に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世(Friedrich II.)がマインツのラント平和令(Mainzer Landfriede)を公布し,フェーデを部分的に制限しました。
フェーデを行うためには手続きが必要となりました。
フェーデを行うにはその都度,決まった形式の果たし状(Fehdebrief)を告知して始めることが騎士の守るべき道徳となりました。果たし状でフェーデを行う場所と日時を公開しなければなりません。果たし状はフェーデには関係のない農民,僧侶,商人,婦人を保護するために存在します。
フェーデを行うための手続きがいろいろ面倒になったとはいえ,なにかとかこつけて結構行っていたようです。
1495年,ドイツ国王と後の皇帝マクシミリアン一世(Kaiser Maximilian I.)が永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)を制定し,訴訟法としてのフェーデは禁止されました。紛争は暴力ではなく,法廷で法律に基づいて行われるようになりました。
戦争と言う形での領主間の争いはその後も続きますが,訴訟法としてのフェーデはそれ以後ほとんど行われなくなりました。