ルンネブルク城(Die Runneburg)

ルンネブルク城は、ヴァイセンゼー城(Burg Weißensee)とも言います。

エアフルト(Erfurt)の北約20kmのところにある丘城で、ヴァルトブルク城とは姉妹城になります。

ロマネスク様式の門やベルクフリートの地下、パラスなど、中世中期の建築物が保存されており、チューリンゲン州でも重要な城郭軍の一つです。

目次

ルンネブルク城の見どころ

城の中は自由に見学できますが、城の中心エリアは週末のガイドツアーでのみしか見学することはできません。

城からの出土品は、ヴァイセンゼー市役所に展示されていますが、ペンテコステの週末には、中世イベントが行われています。

ルンネブルク城へのアクセス

ルンネブルク城の歴史年表

1168年

皇帝フリードリッヒ一世(赤髭王)の異母妹であるユッタ・クラリシア・フォン・チューリンゲンが2階建てのパラス、5階建ての住居塔、城門、城壁のある住居としてルンネブルク城を拡張しました。

1174年

「Wyssense」としてルードヴィッヒ三世・フォン・チューリンゲン温和候(Landgraf Ludwig III. des Milden)の文書に初めて登場します。

1180年

ヴァイセンゼーの戦い(Schlacht bei Weißensee)でマイセン辺境伯ハインリッヒ獅子公がヴァイセンゼーの戦い( Schlacht bei Weißensee)でチューリンゲン方伯ルードヴィッヒ三世を破りました。

1204年

シュヴァーベン王フィリップ(Philipp von Schwaben)が城を包囲しますが、失敗に終わります。

1212年

皇帝オットー四世が城を包囲しますが失敗します。この時、攻城兵器としてトレビシェットが使用されていました。

1220年頃

パラスに祝賀会場が増階されました。

1225年

世エリザベートの夫であるチューリンゲン方伯ルードヴィッヒ四世聖人伯がルンネブルク城で宮廷議会を開催します。

1247年

ルドヴィング朝が断絶し、ヘッセン・チューリンゲン継承戦争が勃発します。この地域はヴァイセンゼーとルンネブルクは、マイセン辺境伯ハインリッヒ三世貴顕伯(Markgraf Heinrich III. des Erlauchten)に帰属することになりました。

1382年

ルンネブルクは再びチューリンゲン家の所有になります。

1525年

農民戦争では、反乱を起こした農民たちが都市や城に突入してくることを阻止しました。

1750年

ロマネスク様式のベルクフリートが老朽化のため取り壊されてしまいます。

1815年

都市と城はプロイセン王国のものと成り、プロイセン国王が城主となり、行政目的のために城が再建されます。

1952年~1995年

ドイツ民主共和国時代は学校として使用されていましたが、建物に深刻な構造的欠陥が見つかり、閉鎖されます。

1993年

第1回城郭祭とルンネブルグの825周年記念式典が行われ、パラスの1階に博物館が解説されました。

1996年

大型の投石機トレビシェットが再建され、実演されました。

2013年

3B-ヴァイセンゼー教育会議センターとして利用されています。

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