辺境伯は8世紀から11世紀の終わりにかけて,国境地域や辺境地域の領主に与えられた称号です。
その後,この称号は本来の国土防衛とは関係なく,帝国の特定の地位にある貴族称号となりました。
神聖ローマ帝国では,辺境伯は事実上公爵と同等の地位にあり,敬称は国王と同じ「陛下(Hoheit)」でした。
中世初期の辺境伯
辺境伯の称号は,カール大帝の時代に初めて言及されました。
辺境伯の職務は特に国土防衛と国土開発です。その点が他の伯爵の職務とは大きく異なる点です。
デンマーク,ソルビア,アバール,オストマルク,カランタニア,カルニオラ,イストア,フリウーリ,アクイレイア,ヴェローナ辺境では,国防と国の発展における辺境伯の任務遂行がひじょうに重要でした。
危険な任務を遂行するために,国王や皇帝から直接封土として国境地域を与えられました。一般的な伯爵よりも,軍隊と上級司法といった大きな権力を持っていました。
国境を守るために,辺境伯は要塞(ブルク)建設を手配することができ,支援するためにフランク帝国の家臣たちが多数送り込まれていました。
フランク帝国の至るところから武装農民が招集されて送り込まれたおかげで,辺境伯は多くの兵士を動員することができました。
国境線を守る指揮官として,公爵と同等の独立性と権力が与えられていました。
中心部なのに辺境伯?
時代が進むと,相続の関係から辺境の地ではないのに辺境伯を名乗る者が現れます。
ブランデンブルク=アンスバッハ(Brandenburg-Ansbach)とブランデンブルク=クルムバッハ・バイロイト(Brandenburg-Kulmbach/Bayreuth)は,神聖ローマ帝国の中心部にあるにも関わらず辺境伯を名乗っています。
1415年に国王ジギスムント(Sigismund)がブランデンブルク辺境伯の称号をホーエンツォレルン城伯フリードリッヒ六世(Friedlich VI.)に譲渡したことに由来します。
役職の発展
もともとは下級貴族や騎士団を起源としている辺境伯ですが,辺境の地を守るために大きな軍事力と権力を持つことが許されていました。
そして,次第に帝国内での政治的権力が増大していきました。
辺境伯の称号は12世紀までには世襲制となり,封建領主となっていきます。
辺境伯には大きな権限が与えられており,10世紀初頭にはすでに階級が上がっていくことが見られるようになり,ルイポルト(Luitpoldinger)家がバイエルン公爵に昇格しています。
12世紀以降,殆どの辺境伯は帝国公国へと変わりましたが,辺境伯の称号は使い続けました。
1356年の金印勅書で,ブランデンブルク辺境伯は選帝侯の権利を受け取りました。
マイセン辺境伯はザクセン・ヴィッテンベルク公爵となり,15世紀にはザクセン公爵&選帝侯となります。オストマルク辺境伯はオーストリア公爵となり,ハプスブルク家時代にオーストリア大帝国となりました。
1918年にドイツの君主制が崩壊した後,ザクセン王家とバーデン大公家は伝統的理由から,それぞれマイセン辺境伯,バーデン辺境伯の称号を再び使用するようになりました。
辺境伯の称号は「公爵」の称号に見合うように発展していくことが見て取れます。